今日は昨日につづいて「あの戦争と日本人」を紹介していきたい。
要すれば、人間がモノのごとく扱われた悲惨、非情、虚しい戦争であったということですね。
7、鬼畜米英というのはいつ頃言われたのか
太平洋戦争さなか鬼畜米英と洗脳されていた日本人は無条件降伏したあとケロッとアメリカになびいてしまったが、初めてこの4文字熟語をつかったのは昭和19年8月4日の朝日新聞。「見よ鬼畜米兵の残忍性」「勇士の頭蓋骨冒涜」。サイパン、ガム陥落、日本敗戦色濃い時である。
昭和16年の太平洋戦争開戦からずっと日本人の戦意を落書きなどから分析していた「特高月報」によると、すでに国民は奴隷扱いされている。平和を愛する日本人ならば、はやく戦争をおわってアメリカの属国になったほうが良いという声が多かったらしい。
日本は日英同盟のおかげで日露戦争に勝てたし、アメリカの仲裁のおかげで泥沼の日中戦争を終えられた。戦利品へのよくボケのおかげで米英を怒らせ、中国への21か条要求など世界世論を無視した要求を突き付けたおかげで日英同盟や、日米通商航海条約が破棄されるなど孤立化の方向に傾いてしまったとか。
日露戦争後の国防方針で山形有朋が攻撃的な軍事力強化を明文化、仮想敵国として陸軍はロシアを、海軍はアメリカを想定。この仮想敵国が昭和15年1月、条約破棄で真相敵国になってしまった。ABCD包囲網で生命線の石油も入らなくなった日本は戦争に踏み切らざるをえなかった。このことを天皇は一番危惧されたらしいが軍部は適当にごまかしてしまったとか。人材に恵まれなかったとされる昭和天皇の悲劇かもしれない。歴史は米英と仲が良い時は日本は順調、悪くなると日本はどんどん劣勢になっていってしまっていることを教えているという。
8、あの戦艦大和がいかにしてつくられ、戦果もあげえず撃沈されてしまったのか
1908年10月、アメリカ戦艦16隻を中心とする大艦隊グレイトホワイトフリートが横浜入港、山形有朋は仰天、日本は大国をめざし8-8艦隊つくりを大方針とした。クラウゼビッツの戦争論を軍人はみな読んだ。森鴎外が翻訳した。そこに7割論というのがありそれを金科玉条にした。アメリカの7割、10隻の戦艦をもてば戦えると・・・・日本は破産覚悟で建造にふみきる。
1914年第一次大戦勃発。1922年ワシントン軍縮会議。1929年世界恐慌、ウオール街大暴落。1930年ロンドン軍縮会議で日本は米英の67.5%。加藤友三郎などの英断で条約をのんだが東郷平八郎ほか反対派が海軍の良識派を追い出してしまった。石川慎吾という政治的軍人が出てきて、アメリカが作れない巨大戦艦、不沈戦艦をつくるべしと進言。貧乏海軍ゆえの不沈発想。
日露戦争の勝利体験からぬけだせず、時代はいまや飛行機、空母、潜水艦の時代であることを読み切れず、大和の魚雷防御や浸水極限対策などないがしろにされた巨大な鉄の塊を作ってしまった。大和は昭和12年12月に呉の海軍工廠で起工、15年8月進水、16年10月試運転。ペリーの黒船にびっくり仰天した日本人が80年後に日本の技術だけで世界1の巨大戦艦をつくりあげたのだから驚嘆すべきことではあったが口径46センチの巨砲9門が火をふいて米艦を撃沈することはなかった。
戦局悪化の中、大和をアメリカの戦利品にさせないために沖縄沖への特攻出撃を命じられ、昭和20年4月7日、米潜水艦の攻撃であっけなく撃沈され乗組員3332名のうち3056名が戦死、これは飛行機特攻隊死者4615人につぐ数字とか。彼らは2階級特進の栄誉にもあずからなかった。山本五十六は空母、戦闘機強化論者だったが軍首脳部はこちこちの石頭で日本を敗戦に追いやった。壮大なる日露戦争以来の大国志向、巨艦巨砲志向は悲惨の一語をもって終わった。ほんとに虚しいことであった。実にむなしい話だ
9、特攻隊はいつごろから具体化したのか
葉隠れ思想・・武士道とは死ぬことと見つけたり!が軍人の精神的バックボーンになっていた。昭和18年には兵器弾薬材料糧食の不足欠乏が顕著、生産が消耗においつかず戦況がどんどん悪化。4月に山本元帥が戦死、7月に軍令部で特攻兵器の早期開発案、航続距離倍増、体当たり戦闘機、人間魚雷など。
九死に一生から十死零生、すなわち生還は考えない作戦が考えはじめられた。昭和19年6月にサイパン、グアムなどマリアナ諸島が陥落していよいよ本土決戦が必至の状況になった。
昭和20年1月8日、最高戦争指導会議で全軍特攻が正式にきまり、志願も強制も関係なく1億総特攻が決まった。4月に沖縄戦が始まり、まったく外道、非情というしかない作戦が実行にうつされる。最後まで目をつぶるな、突入角度は40~60度。2483機突入して命中したのは244機、奏効率は16.5%だったらしい。
終戦の詔勅の夜、特攻を指揮した大西中将は遺書を残して自決。特攻の英霊に深謝、目的達成できず、わが死をもって謝罪す。残された一般青壮年の皆さま、軽挙妄動せず特攻精神を堅持して日本民族の福祉と世界平和の為に最善を尽くされたし!職業軍人たちは己らのメンツの為に悠久の大義の美名のもとに若者たちに無益な死を強いた。誠に恐ろしくも虚しい戦争であったとしかいいようがない。
10、そして原子爆弾が広島におとされた
そもそも原爆とは。92番目の元素のウラニウム原石の235と238の元素を分裂させると猛烈なエネルギーを発生させる。が235は0.7%しか含まれない。これが濃縮ウラン。これが作れるかが第一の壁。この235を核分裂させると2~3の中性子が飛び出して235にあたり、核分裂の連鎖反応がおこり、ものすごい熱線とエネルギーをだす。
この核分裂の実験をはじめて成功させたのは1938年、ドイツであったがヒットラーは原爆をつくるよりロケット弾を優先させた(1942年)。この実験成功に一番衝撃をうけたのがアメリカ。この爆弾が船ではこばれ真珠湾で爆発させられたら1発で港とその周辺は壊滅するとアインシュタインがルーズベルトに進言、1939年8月。大統領は即予算をつけて原爆開発研究を指示した
米英は1944年9月に原子力協定の覚書に調印、日本が降伏するまで原爆攻撃を続行する旨警告することになろうと言明している。12月、ドイツ敗退。アメリカは昭和20年7月16日、爆弾を完成、ニューメキシコ州アラモゴードで人類初の原爆が爆発。参加科学者の多くが実際使用に反対したらしい。
何回か日本上空でB29が投下訓練。新潟、横浜、京都、広島、北九州が最初の投下候補地、歴史学者の反対で京都が外されたらしい。そして8月6日午前8時15分、トルーマンの命令で、エノラゲイが原爆を投下、広島上空570mで原子爆弾が炸裂した。ポツダム宣言を日本がさっさと受けいれていたら原爆投下はなかったのか、ソ連が日本参戦まじかで、日本降伏後の占領問題でソ連が出てくるのを阻止するため、やはり投下はされたであろうということが一般的見解とか。日本の科学者たちは広島の惨状をみて、ただ唖然とするばかりであった、という。
・・・こういうのを読んでいると何ともいえない気持ちになりますね。310万人といわれる戦没者たち・・・
11、八月十五日の終戦記念日、日本の一番長い日、どんな1日だったのだろうか
日本人は玉音放送を聞き、どうしたか・・ただただ滂沱にくれた!? 終戦の詔勅を聞いたのは軍人と女性と年寄り、小中学生。私はうまれて3か月の乳飲み子だった。昭和40年当時の40代意識調査。悔し泣き32%、虚脱感39%、ほっとした28%だったらしい。まあ聞いた直後は虚脱感だったろうね。両親にこのあたりのことをもっと聞いておけばよかったと後悔。
敗戦、終戦の夜、自決した反対派の阿南陸軍大臣は賛成した米内海軍大臣を斬れと遺書に残した。真意は?賛成派は天皇制持続のみで全面受諾。しかしどんな形で天皇が残るのか不明のままで受諾するのは無責任、自己保身と思ったらしいね。ずっと分かり合えなかった陸軍と海軍。悲劇のもとですね。この期に及んで本土決戦を主張する陸軍はばかかとポツダム宣言受諾、無条件降伏の賛成派は思っていたのだろう。陸軍は天皇の為に死なせてしまった165万の英霊に申し訳なかったのだろうか
半藤一利原作の「日本の一番長い日」が映画化された。岡本喜八監督は終戦決定の事実をしっかり残そうとメガホンをとった。戦後73年、日本人は事実をどれほど認識しているか? ほんとに認識してるのか? 太平洋戦争の戦闘員の死者は陸軍165万人、海軍47万人とされている。広義の飢餓による死者は何%?同じく海軍の海没者(輸送船で撃沈されて死んだ軍人)は何万人?・・正解は70%、40万人。いかに無謀な作戦計画でなくなった人が多いかということ。こんな事実はわたしも知らなかった。参謀、幹部の責任は重い!
昭和30年、「サイパンからきた列車」棟田博が短編小説を出した。深夜の東京駅15番ホーム。サイパンから死者をのせた列車が入ってくる。ラッパが鳴り人員点呼を終えた亡霊たちが故郷にかえり、また戻ってきて、人員点呼をして列車にのり、いづことも知れず去ってゆく!!今も深夜東京駅には身代わりになって死んでくれた亡霊たちが硫黄島からガダルカナルから亡霊たちが帰ってきているにちがいない!
戦争の悲惨さ、非情さを知らない人間が日本の政治をおこない、国民はおおきな格差社会のなか、平和を享受し、欲望のおもむくままに生きている。自分の国さえ良ければ、自分さえ良ければ人のことは知ったことではないというナショナリズムが頭をもたげてきている。怖い世の中になりつつあることをあまり人は感じていない、とりあえず目先食うため、楽しむため!流れに流されやすい人間たち。少しでも冷静にいたいものだ!!