ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

笑顔No1義母、95歳で安らかに逝く!

2010年11月10日 | マイ家族
 

 朝8時、病院からTEL。血圧が降下しています、すぐご家族のかたがた病院にきてください。関係者に電話して、急ぎでかける。意識がない、半こん睡状態と主治医が言う。のどはまだ呼吸している。看護婦がきて脈をとる。弱い。先生を呼ぶ。11時46分。心電図の表示が一直線に。心臓が止まった。主治医が苦しみはありません、よくがんばられました。95歳で天にめされた。どこの病院にはいっても笑顔がすばらしく人気ナンバー1の患者であった。妻が十数年献身的に看護をつづけた義母がなくなった。なにかあっという間のできごとだった。
 大正14年鹿児島に生まれ、熊本に移住、結婚し、満州に移住、終戦をむかえ苦労して子供を3人育て、夫は68歳でなくし、自身は95歳の天寿を全う。一時期、長男夫婦と同居、その後長女(わが妻)と生活を共にしてきた。80歳の頃に靴下をはくときにころんで大腿骨折(右)、数年後左足も骨折し車いす生活に入った。階段エレベーターを設置し、デイケアに通い、どこでも笑顔をわすれず人気者だった。
 が、耳も遠くなり、顔面神経痛の痛み、足も不自由だったが胃腸は強く我々と同じ食事、飲み物。生活リズムも我々と同じで、定時朝食、10時には般若心経、お茶をいただき、テレビをみてマラソンなどしっかり応援していた。耳が遠い、体が動かない、家内も大きな声でやりあう。義母もつらかったと思う。そばにいる私は無理強いはしないでよいと思っても家内からすればきっちり食事させないと体力が低下しますます弱るという。医者もしっかり食べさせなさいというものだからしかたない。妻も看護にかかりっきりで大変だったと思う。そんな義母が天にめされた。95歳、大往生だ。鼻からパイプで栄養剤を投与されて、命をたもっていても生きる喜びがかんじられるわけがない。
 通夜がなされ、住職の読経をききながら無常観におそわれる。近親者だけの通夜ぶるまい。夜を徹していろいろ語り合う。子供、成人、中高年、いろんな世代の人間がよりそい義母の死の前につどう、死に化粧された老母が若かりし頃の表情を垣間見せ、静かに横たわっている。残された面々がどんな思いでみつめているのか。ほとんど寝ずの通夜がおわり、翌日、故人との最後の別れの膳(おとき)をいただき11時から葬儀がはじまる。曹洞宗の僧侶二人がこられ、読経、鐘、どら、四竹?、中国仏教の匂いがする葬儀、焼香が終わり、斎場の司会の女性のお別れのメッセージ、私のとった二年前の太宰府政庁跡の桜をバックにした故人のこぼれるような笑顔の遺影。スマイルとやさしさでまわりを明るくしてきた女性が今、天にめされて浄土に旅立たれます。思わず涙がでてくる。出棺の時がきて、参列者が花を遺体に順にたむけてゆく、涙があふれてくる。
霊柩車にのせ、見送り、近親者は火葬場にむけ後を追う。
 火葬場につき、最後の別れをおしみ、遺体は窯のなかに入れられる。1時間後、お骨となった故人と対面、全員で骨ひろいをする。子供たちは一体どういう気持ちを抱いてこの場面をみているのだろうか。
 帰宅。清めの塩で家にはいり、後飾りの祭壇で遺影をながめる。無の境地。去年の年末、救急車で運ばれ、元日のお祝いは昼から始まった今年のスタートを思い出しながら
母と娘が精いっぱいともに生きた、なんの悔みもない静かな今を迎えたという感がしみじみと湧き上がってきた。
 あすから新たな生まれ変わりの生活が始まることであろう
 
コメント
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