真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

私が愛した池田大作 ~宗教界の王者に その1

2010-06-13 17:06:55 | 私が愛した池田大作

私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五〇年 私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五〇年
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2009-12-22

以前記事にした「半裸のレリーフ」の続きとしてお読みください。

第七章 「宗教家」として より

「宗教界の王者に」 その1

 私は池田氏が宗門乗っ取りに方針転換したのは、言論出版妨害事件がキッカケだったのでは、と推察している。それまで池田氏は、本気で「政界の王者」を目指していた。実際、

「天下を取ろう」

 という激が我々公明党幹部に対し、一時はしょっちゅう飛ばされていたのである。

「ここは慎重に」

 などと弱腰を見せれば、

「そんな弱気でどうする。前進、前進あるのみだ」

 と叱咤された。

 当時の池田氏は、このままいけば公明党が議席の過半数をとるのも夢ではないと本気で考えていたようだ。「過半数を得て、総理を公明党から出すんだ」と言われたこともしばしばあった。もちろん、その時の総理は池田氏以外には絶対にあり得ない。たしかにあのころ、公明党は怒涛の勢いで議席を増やしていた。会員数も膨れ上がる一方だった。あの勢いのなかにいれば気分も高揚し、誇大妄想に取りつかれたとしてもおかしくはない。信者が増えれば、議席も増える。議員の過半数を獲得すれば国会運営は思いのまま。『国立戒壇』『王仏冥合』も政治の力で成し遂げることができる。
 池田氏はあのアドルフ・ヒットラーの著書『我が闘争』に出てくる言葉を好んで引用していた。彼は本気でヒットラーのような超独裁者になることを夢見ているフシがあるのだ。
 ところが現実はそんなに甘いものではない。ヒットラーは街頭で大衆にスピーカーを通して演説したが、池田氏は「超」が付く内弁慶だから、そんな真似はできない。
 言論出版妨害事件を機に政治の側からすさまじい学会攻撃を受けたとき、青年部や我々の間には、ヒットラー・ユーゲント(ヒットラー青少年団)さながらに

「こんな無茶をやるなら、国会周辺でデモをやろう」

という勇ましい意見もあった。しかし、池田氏は国会喚問を拒み続け、謝罪し、政教分離を明言せざるを得なかった。当時、池田氏をなだめていた古参の側近が「池田氏は小心者だ」と語っていたのが印象的だった。本気で勝負できない人なのだ。『国立戒壇』『王仏冥合』の夢を自ら放棄する発言を余儀なくされた。

「権力を打ち倒すんだ」

と豪語していた人が権力の恐ろしさというものをまざまざと思い知った格好だ。特に国会論戦で憲法の「政教分離」の壁が立ち塞がったことは大きかった。
 そこで方針が転換された。「政界の王者」がすぐに無理なら、次は「宗教界の王者」を狙おうというわけだ。ローマ帝国の皇帝になれないのなら、ローマ法王に、というようなものだ。かくして宗門乗っ取りが目指されることになった。

その2に続く…

近畿地方では梅雨に入って雨が降っております日曜日、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

今回の話は池田氏の「夢見る夢子ちゃん(笑)」な部分がクローズアップされています。壮大な夢です。

さて、学会の感覚を外して普通に読めば、かなり「?」と感じる部分が多い話です。

選挙で選ばれた議員でもない、政治的素人&責任のない「支持母体の会長」が総理大臣に選ばれる。

議席を獲得してイチ宗教団体のために国教を定めてなおかつ「国会運営」を思いのままに動かす。

幸い公明党が議席の過半数を得ることはありませんでしたが、これって数の暴力という言葉を連想させませんかね。

ある組織が自分達だけの目的のために、日本の政治を動かそうとする。

政治、国会が何のためにあるのか。そもそも政治家・議員とはどのような志で目指したのか。

下記のような極秘の内部文書がネット上に流出しています。

<公明会の基本的あり方>
我々は公明党創立者である池田先生のもと弟子の道を再確認し、ここに公明会を結成する。我々は創価学会を守り、池田先生のもと、広布流布を目指し決意も新たに前進するため、下記の方針に基づいて戦うことにする。

これがタテマエ上の「政教分離」を宣言したとはいえ、今も本質的には何も変わらず公党として存在していることは、社会の罪にも等しいかと思います。

どのような政党かを見極め、自分の意思で少なくとも投票には行く。

これは全部、自分達の住むより良き社会のために必要なことだと、私はアンチになってこの一年ちょっとでとても考えさせられたことです。


4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
6月の昼下がり・・・窓際のレースのカーテンが、... (kan)
2010-06-13 22:46:37
6月の昼下がり・・・窓際のレースのカーテンが、初夏の風を受けて静かにゆれている。
フローリングに座りこみ、ワイングラスを床に置いて談笑する二人。

人生は互いに違うけど、でも何処か魅かれあい・心が通じ合ってる。
大人の男と女。。。

「たまにはこんな時間もいいわね♪
 貴方といるとね、幸せな充実感て言うのかしら・・。
 なんか・しっくりいってる人生のひと時を感じるわ」

女性が嬉しそうに微笑む。
かすかに漂う上品な香水の香りが私の鼻をくすぐる。

「あぁ、そうだな・・・。
 君と俺とは人生もカラーも違う。
 風車みたいなものかもしれないな」

「あら、アタシたちって風車なの?」

「そう、俺は俺のカラーがあるし・君は君の綺麗な色がある。
 互いの色が違うから止ってると別々だけど、風で回ってるとね、交じり合って綺麗だろ^^」

「じゃあ、中心軸は愛よね。♪
 二人でいる時は愛の風でいつも回ってなきゃね。
 ・・・・・・でしょ!??」

「ねぇ~ kan
 貴方の風車、夜まで回ってくれるかしら?」

「そ・そうだな・・・・何とか頑張ってみるさ^^;」

「うふ・・・期待してるわ??」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というわけで
身勝手な妄想と共に、こんばんは
kanです。(^0^)/


極秘の内部文書
<公明会の基本的あり方>
これって・・・大問題の内容ですよ!

政党が一つの宗教団体のために・一人の個人のために働くという規約を定めてる。
極めて異常な・大問題だと思います。
ソースは何処なのでしょう?

「宗教界の王者に」
この言葉は二代会長の戸田氏も言ってたようですね。
尤も、創価の言う事なので本当かどうか・・わかりませんが。。

まあ、「誇り」という善意的解釈では「王者」という気概も間違いとは言いませんが、その気持ちだけで抑えておくべきでしょう^^;。

でも、もっと大きな目でみて・・・。
「王者」とか、それより下だとか・・そういう位置づけって変だと思います。
俗世間の優劣の争いレベルなんですよね。

宗教や信仰は、そういう俗世間的優劣基準を超越した次元にあると思います。
なので、勝者・敗者などなく、上下の位や位置づけもなく、全てを平等に包み込む大いなるもの。
あらゆる階層・あらゆる全ての人達を愛で包み込むもの。

それが本来の信仰であり・宗教だと思います。
なので、宗派がどうとか・・・他の宗教がどうとか、そんな枝葉末節の争い的意見など関係ないと思います。

「大いなるモノ」
それは一つの真理に他ならない!

その見解を数え切れない数の人間が様々に考えて、長い歴史を経て作ったのが「○○宗」という一杯ある宗教の種類だと思います。

元々人間が生きてく上で、「宗教」など必要ないです。
でも、いろいろあって・つい魅かれる・・・楽になりたいと願う・・・そこにカルトがつけ込む。

そういうことだと思います。
返信する
kanさんへ (クロ)
2010-06-13 23:35:24
kanさんへ

こんばんは。今日は雨降りでちょっとひんやりです。
身勝手な妄想(笑)、でもとても美しい風景ですねー。
一人として同じカラーはなく、だからこそ惹かれあったり、自分にはない何かに気づいたり、だから人生は面白いのだと思います。

極秘の内部文書は以下のブログで発見しました。
「たおしちゃうぞ!創価学会」
http://blog.goo.ne.jp/gakkaia-z/e/9ae828075c8fc19baf8b3f2da6a5b1cc

文書の画像も貼り付けられていますので、一度ご覧ください。


>「王者」とか、それより下だとか・・そういう位置づけって変だと思います。

創価学会は戦いの好きな団体ですからねぇ。そうすると、どうしても「最高の勝者=王者」という分かりやすい代名詞のようなものを使いたがるんでしょう。
この宗教の根本にあるのが争うことであることを、感じられる表現の一つですね。
kanさんの仰るように、本来上下の区別なく平等を目指すのが信仰であると思います。
現に、勝者でいるには勝ち続けねばならず、戦いの連続です。
それが今の創価学会の競争主義であり、疲弊しきっているではありませんか。
それが本当にあるべき姿か…、信仰者として一番考えなければならないことだと思います。
返信する
クロさん、長くなってしまいますが、どうしても書... (ひなたぼっこ)
2010-06-16 04:38:12
クロさん、長くなってしまいますが、どうしても書かせて下さい。

まずは、ヒットラーの言葉を幾つか引用します。

「大衆の多くは無知で愚かである」「熱狂する大衆のみが操縦可能である。」「大衆は女と同じだ。私の後に従わせる。「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ。」

「いかなる宣伝も大衆の好まれるものでなければならず、その知的水準は宣伝の対象相手となる大衆のうちの最低レベルの人々が理解できるように調整されねばならない。それだけでなく、獲得すべき大衆の数が多くなるにつれ、宣伝の純粋の知的程度はますます低く抑えねばならない。大衆の受容能力はきわめて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点をできるだけしぼり、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。」

「大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。」

クロさん、私は今まで、ヒットラーという名前を聞くだけで空恐ろしいものを感じ、彼の生い立ちなり人となりを深く知る事を避けていたようなところがありました。けれども、今回の記事の中に永遠の指導者がヒットラーの言葉を好んでいたとあったので、世界的に有名な独裁者の残した言葉をこの年になって初めて検索してみたのです。

もう充分でした。それ以上調べる必要もなくなりました。何が充分って「池田思想とあまりにも極似している」と思うのは、私だけでしょうか。はっきり言って、背筋が冷たくなりました。

いつも、学会の末端信者を欺く強力なシステムは、どうやって生まれたものなのか、何を基準にしたのか、疑問に思っていました。永遠の指導者の本館で見せる品格のない態度、知性、教養のなさからすると、ここまで精巧に仕上げられたものを作った人間は、他にいるだろうとは思っていましたが、それが何とか部と呼ばれる裏の秘密組織なのか、本部の中枢で師の野望を実現する人間集団なのか、それはわかりません。でも、多くの人間を惑わし、MCに陥らせるのに、感心するほど、よく出来上がっているやり方。永遠の指導者が、ヒットラーの思想を取り入れたとすれば、全ての事に納得がいくと言っても過言ではない、とそう思ってしまったのです。

永遠の指導者は、表向きは日蓮の看板を掲げ、会員の前では、戸田氏を崇める大芝居を打ち、「自分もこれだけ師匠を守ったのだから、私の事も守れ!」と無理槍、師弟不ニ論に結びつけ、本館で披露する指導では、世界中の哲人の言葉を引用しまくりの貼付け原稿を側近に読ませている。

後藤氏の言葉をお借りすれば、「一番の悪はやっぱり裏で(他の者に)汚れ役をさせといて、表で善意に満ち溢れた教祖様面してる池田大作」だと言われても仕方がない。

センセイ、実は、あなたの師は日蓮でも戸田氏でもなく、ヒットラーさんなのではないですか。自分がこの上なく大好きな人ですから、恐らくヒットラーを「崇めた」ということもないでしょうが、目的推敲の為に、この思想はいける、と思ったのでは。


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ひなたぼっこさんへ (クロ)
2010-06-19 14:46:38
ひなたぼっこさんへ

ヒットラーの言葉、たくさん紹介して頂きありがとうございます。
改めてこれらの言葉を読んでいくと、仰るとおり背筋が冷たくなるものがありますね。
池田氏が目指す全体主義の形に、このヒットラーの思想(手法)が深く影響しているとは常々感じていました。
ヒットラーは単なるカリスマではなく、あらゆるMCの手法を用いて効果的に人心を操作していました。
スピーチの際に低重音を流したりサクラを入れたり、ある民族だけが優秀で素晴らしいと説いて仮想敵を作り出し、そこへ向わせることで全体主義を加速させました…。
こうした徹底したMCの結果、あのような独裁国家が誕生したのでしょう。
オウムは創価学会をお手本にしたと言っていますが、創価はヒットラー(ナチス)がお手本なんでしょうかね。

組織としていいところを取り入れている、と言うかも知れません。
しかし宗教団体としてあるべき姿とは、かけ離れているように見えます。
「全体主義が理想の形」と池田氏は言いました。しかし全体主義で成功している団体、国家は果たしてあるでしょうか?
お隣の国だっていつどうなるとも知れない危険な状態です。そして間違っても、多くの人が背負わなくてもいい不幸を背負っています。

この記事で紹介した部分に、「ローマ皇帝がダメならローマ法王」とありますが、そもそもローマ法王は枢機卿によって選ばれる地位です。
自ら頂点の椅子に座りに行く人が、法王とは言えません。
教祖であり独裁者。そういう形容が相応しいと思います。
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