新・空と鷹と鉄の間に

ヒコーキ、ホークス、鉄道好きのブログです。

父との思い出

2021-03-19 20:09:00 | 日記
父が突然亡くなってからおよそ3週間が過ぎました。最初の1週間はとにかくいろいろとやることがあり過ぎて、あっという間に過ぎて行きました。父を送り、いろいろな手続きを済ませようやく先週あたりから落ち着いて考えることができるようになってきました。3/14の存在もすっかり忘れて遅延する有様です。
そんな中、父との思い出をつらつらと考えていると、あまり出かけたことがないことに気づきました。最近では10年前の東日本大震災の時に液状化現象を受けた実家を離れ、宮崎県小林市に両親が避難をしていた時に、わざわざサンライズ瀬戸号と開業したての九州新幹線を乗り継いで行って、温泉宿に一緒に泊まりました。その前はさらに10年遡り、東京ディズニーシーグランドオープニングプレビュー期間中に浦安市民招待デーで家族3人で出かけたぐらい。それ以前になるとなんと40年近く前の子供の頃の記憶まで遡ります。
小学校6年生ぐらいまで毎年夏休みに、千葉県鴨川市の太海海岸へ海水浴に家族で出かけていました。当時船橋に住んでいたので、船橋か東船橋から総武線の黄色い電車で千葉駅まで行き、千葉から外房線か内房線の普通電車に乗って行っていました。まだ113系の非冷房車が存在している時で、窓を開けてボックスシートに揺られていたことを覚えています。内房線で行くとそのまま太海に行けますが3時間ほどかかり、安房鴨川乗り換えの外房線経由が多かったです。そのころは特急「わかしお」号に乗るなど高嶺の花で、かろうじて低学年の頃に走っていた165系の急行「外房」号に一度だけ乗った記憶があります。夏の繁忙期には総武快速線から直通していた臨時快速「白い砂」号や「青い海」号があったはずですが、なぜかそちらに乗った記憶がありません。おそらく途中駅の船橋からの乗車で座れない可能性があったので、始発駅で座れる普通電車に乗っていたのでしょう。
そんなことを思い出したら久しぶりに行きたくなり、緊急事態宣言下ではありますが同一県内の移動であることと、感染対策をとって出かけてきました。もちろん花粉症対策も。
海浜幕張から特急わかしお1号に乗り勝浦へ。勝浦と安房鴨川で普通電車を乗り継いでやってきたのは太海駅。今は無人駅となり改札窓口も板で塞がれてしまっていますが、房総地方でよく見られる形の駅舎が残っています。


昔は4両か6両の113系電車でやってきたのですが、この3月のダイヤ改正でついに2両編成のワンマン電車になってしまいました。新しい電車になるのは良いですが、それと引き換えに編成両数が減るのはどうかと思います。

こちらが太海海水浴場の浜辺から見た景色。鴨川松島とその奥に広がる鴨川市街の景色。変わりない景色です。

ここは砂浜と岩場で区切られた小さな浜辺があり、岩場で区切られた浜辺は浅く、また波も岩で打ち消されるため小さな子供には格好の遊泳ポイントでした。低学年の頃は手前で遊泳をして、父親と一緒の時やちょっと大きくなると奥のエリアで泳いでいました。

浜に面して何軒か民宿が建っており、そのうちの一軒にお世話になっていました。この辺りは磯釣りに最適な岩場もあり、民宿は通年営業なのですが、時節柄でしょうかほとんど閉まっているように見受けられました。お世話になっていた民宿も父が若い頃に会社の同僚と共に楽しんでいた磯釣りの際に泊まっていた民宿だったようです。ここにだいたい2・3泊して海水浴を楽しんでいました。その間には海水浴場の他にも行っていました。

潮の香りを感じながら浜から少し歩いて行きます。こんなに狭かったかなあと思う道を歩いてゆくと漁港があり、その対面に浮かぶ島があります。千葉県指定の名勝仁右衛門島といい平野仁右衛門さんが代々所有している、日本でも珍しい個人所有の島です。この仁右衛門島には手漕ぎの和船で渡ることができ、その和船に乗って島に渡り、島の船着場の反対側の磯から入江に向かって泳いだり潜ったりもしていました。岩場がほとんどでしかも外洋とつながっているので海の水は透き通っていて、魚たちと一緒に泳いでいた記憶があります。島内には源頼朝東上の際に上陸をした地や、平野家の住宅などがあり、島内を散策したこともあります。

残念ながら臨時休業中ということで手漕ぎの和船も見当たらず、閑散としていました。が、海の色や透き通るような海水は昔のままで、海を見ながらしばし感傷に浸っていました。目から涙が出ていたのは、きっと花粉症のせいでしょう。
 


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