飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

「終わりのとき」へのサタンの計画!!①

2008-12-26 12:49:59 | 日本

「終わりのとき」へのサタンの計画!!第1弾


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 <ブルーホール:記事に無関係>


 『終わりの日の預言』は、驚きの啓示(アカポリプス)であった。当時、充分に訳も分からず、夢中で転載公開した。全部で40編に及んでいる。元記事は、当初アクセス数が3~400だと記憶している。今は10,000近くに達している。記事内容も一新されて、充実度を増している。『生ける神』の預言は、現在も活発である。心ある方は直接に読み入ってほしい。


 投稿者は、無論、部外者である。しかし、この預言を真摯に受け止める者である。真実を追究する立場から、この記事に注目してきた。結果、現在時点、一点の非の打ち所がない。聖書を読む立場(投稿者はクリスチャンではない)から見ても、その一貫性は驚くモノがある。


 その中で、取りわけ、『隠されたモノで、顕れないモノはない。』という観点から、これまでの陋習を数多く打ち破って、聖書に纏わる真実が明かされているが、ここにも注目をしなければならない。これから、順不同ではあるが、任意に抽出し転載していきたいと思う。


 転載に関し、原文に忠実をモットーとする。誤字・脱字さえも、そのママ転載し、ご高覧に供したい。前にも書いたが、転載中止要請があれば、その時点で中止する。お目に叶い、ご加護があれば、転載し続けることが出来るものと思う。


 話は、横に外れるが、ベンジャミンさんのブログに、クリスマスについての見解があったが、全く同感であるので、合わせて、転載する。これも陋習を打ち破る一環である。拙稿『クリスマスは6月17日であることが天体観測で判明 !!』と合わせ読んで頂けると、双方の真実味が増すと思う。結局、聖書は改変された。


【ベンジャミン転載開始】12/25/2008 

クリスマスの由来     

欧米のクリスマスと日本の正月は同じ由来がある。おそらくこの祭日の始まりは数万年前にさかのぼるのだろう。
現 代文明人はあまり空を見なくなったが、従来の人類は空を使って生活の規律を図った。冬になると太陽の沈む場所が北へ移る。そして一年で一番日が短くなるの が12月21日である。その後、三日間同じ場所に太陽が沈むように見える。そして12月25日より再び南へ向かって太陽は沈み始める。

こ れを理由に古代の様々な宗教では、「神様(太陽の神)が亡くなって三日経ってからまた生き返る」という。ローマ帝国はその太陽の神を「キリスト」とすり替 えた。しかし人々の行いは殆ど変わらない。この日には家族全員が集まり御馳走を戴く。また欧米の家庭のドアの上には、日本の「正月飾り」と似たものを飾 る。おそらくこの新年の祭りは四万年以上前にさかのぼる。

About Christmas and Japanese New Years.

The celebration of Christmas in the West and the Japanese New Year’s celebrations have the same origin. In modern civilization we do not look at the sky very much but our ancestors regulated their lives according to the skies. The most basic thing they noticed in the winter was that every day the sun would set further north and the days would get shorter. The shortest day is December 21st . After that, for three days the sun would appear to set in the same place before setting further south again on the 25th of December. That is why the ancient religions worshipped a sun God who died and was reborn after 3 days. The Romans substituted Christ for the sun God. However, the average people continued to celebrate as always: they would gather their family and have a feast. In the West they hang a wreath over the door, in Japan they also hang a very similar type of wreath. This suggests the custom has a common origin, one that may go back as far as 40,000 years ago. So, Merry Christmas and a Happy New Year.【転載終了】

 

【転載開始】 「終わりのとき」へのサタンの計画

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http://homepage2.nifty.com/elienay/index22.html

    近代フリーメーソンは1717年6月24日、ロンドンでのグランド・ロッジ結成によって発足した。その後、メーソン結社は、1725年パリ、1726年プラハ、1728年マドリード、1733年イタリアおよびボストンと、またたく間にヨーロッパ中に拡がり、1733年には126ロッジを数えるまでになっている。
     彼らは「全人類が一致して信仰できる神」をかかげ、その神は「宇宙創造の神」だとする。
     カトリック内にも多くのメーソン員がいたが、1738年に法王クレメンス12世が「フリーメーソン否認の勅命」を発布し、メーソン員は破門されることになった。これによりメーソンは秘密結社として地下にもぐり、これが1773年のグラントリアン・ド・フランス(フランス大東社)結成のきっかけとなった。
     フランス大東社はイエズス会の修道院に居をかまえ、後にオルレアン公となるルイ・フィリップを長とした。ロッジでは進歩的な貴族、新興ブルジョア、労働者が一体となって、フランス革命前夜の「自由・平等・博愛」を求める政情を形成し、会員数を増やしていった。そして1789年、パリ市民が「絶対主義」の象徴であるバスチーユ監獄を襲撃し、フランス革命の火ぶたが切って落とされた。ルイ・フィリップは自分の宮殿にメーソン員を集めて、そこを司令部とし、騒乱をあおるために膨大な資金を提供した。
      『百科全書』も、新しい精神で世界を変えようとするフリーメーソンにより1751年、ディドロとダランベールによって作られ始めた。百科全書家のダランベール、ホルバッハ、ヴォルテール、コンドルらはメーソン員である。
     これらの集団から1769年、「百科全書のロッジ」とも呼ばれるロッジ「9人姉妹」が結成された。ロッジには、ベンジャミン・フランクリン、ヴォルテール、ラ・ロシュフコー、ラファイエット、シエース、デムーラン、ブリソーらが属していた。さらにもう1つのエリート・ロッジ「大貴族」には、ミラボー、ボーアルネ、ボーマルシェらが属していた。
     1789年の「人権宣言」は、ラファイエットが中心となって、メーソンのロッジ「エクス」で作られた。当時、48名のフランス貴族がメーソン員で、宮廷に出入りする外交官のほぼ全員がメーソン員であった。将校のための軍事ロッジや下士官のためのロッジも作られ、1385名の軍事ロッジ・メーソン中、1032名が将校だったという。その中には、ラファイエット、デュムリエもいた。彼らにより、革命勃発後、フランス軍は市民と連動し、国王を見限って革命側についたのである。1789~91年にかけて革命運動は上層知識人から市民にまで広がり、立法議会内にも支持層を獲得し、大きな民主主義運動となって、1791年の憲法発布となる。ロベスピエール、ブリッソー、ダントン、マラー、デムーラン、エベールなど、運動の主な担い手の大半がメーソン員であった。

     彼らの理想が、真の意味で現実化したのはアメリカにおいてであった。
     アメリカ新大陸では、1607年の清教徒によるジェームズタウンの植民が宗教的開拓の初めであるとされている。ついで1620年12月21日、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)と呼ばれる清教徒たちがメイフラワー号でプリマスに上陸して、信仰と自由と独立を求めて植民する。しかし、この建国神話は事実ではない。メイフラワー号の乗客102人のうち、分離派教徒はわずかに35人にすぎず、あとはヴァージニア植民地でひと旗揚げようとした英国国教会の信徒であった。巡礼父祖(ピルグリム・ファーザーズ)という言葉が使われるようになったのは、メイフラワー号から200年近くたってからである。
     その後、さまざまな宗派が移り住んだが、やがてアメリカに「フラムの子ら」が上陸する。彼らが入ったのは、1720年代の後半である。1733年、ボストンに「ファースト・ロッジ」が開かれ、ヘンリー・プライスがイギリス本国のグランド・ロッジの承認を得てグランドマスターになり、その後、アメリカの13植民地にフリーメーソンのロッジが広がった。彼らは「信仰覚醒運動」または「再生主義」と呼ばれる運動(聖霊降臨によって再生することを主張することで信徒を鼓舞し、不信者を信仰に招き入れるという集団的群集心理を利用した伝道)を用いて、教会に浸透していき、教会を拡大していった。そこにはヨーロッパのキリスト教のように神学が介在する余地はなく、彼らには極めて好都合であった。
     アメリカの国教は当初からキリスト教もしくはプロテスタントだと誤解されているが、アメリカ憲法修正第1条は、国家宗教の樹立を禁止している。1796年、ワシントン大統領はトリポリ条約で、「いかなる意味においても、アメリカ合衆国はキリスト教国家ではない」と宣言している。アメリカ合衆国が「キリスト教国家」になるのは、20世紀に入ってからなのである。ヨーロッパからアメリカへ移住した大部分の人々は、宗教の自由を求めて海を渡ったのではなく、宗教からの自由を求めていたのである。19世紀半ば、1850年の統計によると、当時のアメリカ人のうち、教会に登録していたのは人口の16パーセントにしかすぎなかった。新大陸の人々をまとめていたのはキリスト教ではなく、フリーメーソンの理想だったのである。
     「9人姉妹」ロッジに属するメーソンのラファイエットは1777年、アメリカの独立戦争を助けるため、自費で軍隊を率いていき、ジョージ・ワシントンの軍事ロッジに加入して、共に自由と独立のために戦った。その前年、すでにベンジャミン・フランクリンはアメリカの新共和国の外交代表としてフランスを訪れ、パリの「9人姉妹」ロッジの第2代大統領として、アメリカの自由と独立へのフランス人の同意を広め、独立戦争への支援を得ることに成功していた(彼は1731年にメーソンとなり、稲妻と電気の関係を証明したことをはじめ、自然科学の分野で業績をあげた。彼はイギリスのロイヤル・ソサエティと、フランスの科学アカデミーの会員にもなった。自然科学はメーソンの思想の一部である。フランクリンはフリーメーソンの人脈を巧みに利用し、独立戦争においてフランスをアメリカと同盟、参戦させた功労者である)。
     アメリカ建国の父ジョージ・ワシントンもまた有名なメーソンであった。彼は1752年にメーソンになった。彼の属するロッジは、ヴァージニアの上層階級のクラブであった。独立戦争が始まると、軍隊では盛んに「軍事ロッジ」が創設される。ワシントンはこの移動する軍事ロッジの先頭に立ち、メーソンの正装をし、行進した。
     1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定され、1789年にはワシントンが初代大統領に就任した。このときワシントンは、ニューヨーク・グランド・ロッジのグランドマスターであった。そして同年、連邦議会の行政機関としての国務、財務、陸軍、司法の4省を設け、アメリカ政府の重要な機構を確立した。その長官に任命されたのは、国務長官トーマス・ジェファーソン(後の第3代大統領)、財務長官アレクサンダー・ハミルトン、陸軍長官ヘンリー・ノックス、司法長官エドモンド・ランドルで、副大統領はジョン・アダムス(後の第2代大統領)であったが、その全員がフリーメーソンである。ジェファーソン、アダムスと共にアメリカ独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンもフリーメーソンである。独立宣言は彼らの宗教的信条、自然法観、自由と平等という政治的理念をあらわしており、フランスの人権宣言と共通している。
     1793年、連邦議会の議事堂がワシントン・D・Cに建設されることになったが、ジョージ・ワシントン大統領はその礎石式に堂々とフリーメーソンの儀式用礼服を着用して出席している。胸にはメーソンの標章をつけ、まわりの列席者もすべてメーソンの礼服と標章を身につけていた。その儀式はフリーメーソンのロッジと提携して行なわれた。有名なワシントン記念塔(オベリスク)も、メーソンの力で生まれた。1886年、フランス政府はアメリカ独立100周年を記念して「自由の女神」像を贈るが、その制作者フレデリック・バルトルディもメーソンである。アメリカ建国がフリーメーソンの精神であることは、アメリカ合衆国の国璽にその象徴が表われていることからも明らかである。裏側には未完成のピラミッドが描かれ、冠石の位置に「万物を見る眼」(フリーメーソンの象徴)が描かれている。この絵は一ドル紙幣の裏側にも描かれている。【転載終了 続く】