端午って何だ、菖蒲って何だ、鯉幟って何だ?
端午は五節句の一つです。
五節句 についてはバックナンバー2月19日雛祭に書きましたので、詳細はそちらをご覧下さい。簡単におさらいだけしておきましょう。
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1月7日人日(じんじつ):七種粥を食べることから七草の節句ともいう。
3月3日:旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句とも呼ばれる。
5月5日:菖蒲の節句
7月7日七夕(しちせき):星祭り、竹・笹 に短冊を飾る。
9月9日重陽(ちょうよう):旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
前記より*********************
◆起源?中国の戦国時代というから、今から約2300年前のお話です。
楚(そ)の国(前340頃~前278頃)の国王の側近に、屈原(くつげん)という政治家がいました。
その正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。
しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
詩人でもあった彼は、その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われているそうです。
故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川で投身自殺をしてしまいました。
楚の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚を追い払い、ちまきを投げて、「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。 その日が五月五日だったといわれています。
この様子を再現したのが、ドラゴンレースになったということです。
◆端午の節句とは?
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日を指す言葉になったようです。
当時の日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式追儺(ついな)もおこなわれたようです。
※追儺(ついな)については、バックナンバー1月16日節分を参照してください。
五月五日の端午の節句に「鯉の吹流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を 飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からのようです。
五月五日の節句は、五と五を重ねる事から「重五」、菖蒲を用いる事から 「菖蒲の節句」などと呼ばれています。「五」と「午」が相通ずることか ら、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書きました。
菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
武家時代となると「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」と音 が通ずるために、盛んになりました。
平安朝のころから、子供はショウブで飾った紙のかぶとをつけ、石合戦な どの遊びをしていたそうです。元禄時代(1688~1704年)になって紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。
室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立てていましたが、江戸時代になって町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて対抗して楽しんでいました。
コイはもともと元気のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられているのです。
私も子供の頃、父親に連れられて、鯉釣りにいきましたが、魚籠(びく)に入れて持ち帰っても、まだ生きていて、水に入れると泳いでいました。
◆端午が男の子の節句になった訳は?
古来おこなわれていた宮廷での風流な端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り、変わっていきます。武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。
やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝うようになりました。
このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったのです。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。
はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。
◆端午の節句に、なぜ<鯉のぼり>を飾るの?
わが家に男児が誕生したと天の神に告げ、「この子を守ってやって下さい」と守護を願って目印にしたものが鯉のぼりです。
「鯉が竜門の滝を登ると竜となって天をかける」という中国の故事があります。「登竜門」という「男児の成長と出世を願う」言葉になりました。
もともと鯉は、清流だけでなく、池でも沼でも生きられる生命力の強い魚です。 この中国の伝説から、鯉のぼりは環境の良し悪しにかかわらず、立派に成長し、立身出世するように願って飾られるようになったとも言われています。
江戸時代、武家に男の子ができたら玄関の前に馬印やのぼりを立てて祝う風習がありました。それが一般にも広まってのぼりを立てるようになり、庶民によって鯉のぼりが考案されました。登竜門の話を<鯉のぼり>という形で、青空を泳がせるという発想は、世界に類を見ない日本人独特の感性です。
鯉のぼりは町人の家庭でよくあげられるようになったと言われています。
◆鯉のぼりの色の意味は?
黒の真鯉がお父さん、赤い緋鯉がお母さん、青や緑は子供たち。それ以外では緑色や黄色、オレンジ色、紫色など、女の子や次男、三男のお子さんなどのために各色が出現しています。
五色の吹流しは、幼子の無事な成長を願って「魔よけ」の意味で飾られました。カラカラと回る矢車も同様な意味をもっています。吹流しは家を象徴しているとも考えられます。
「五色」(ごしき)は、古代中国の「五行説」(ごぎょうせつ)に由来しています。万物は、木・火・土・金・水の五つの要素で形成されているとの考え方です。
木は青・火は赤・土は黄・金は白・水は黒を表現しています。
以上は神道の思想によるものです
◆鯉のぼりの素材
江戸時代から戦前までは和紙素材だけでした。顔料の手書きであったために雨が降ると色が落ちてしまったりして、お天気を見ながら泳がせていました。
戦後、木綿素材の鯉のぼりが開発され、それ以降はナイロン製に変わりました。素材もポリエステルまで登場しています。
今では敷地の関係で鯉幟を立てている家はあまり見られません。私の子供の頃は、何処の家でも立てていました。
◆端午の節句とちまきの関係は?
端午の節句の食べ物は、柏餅や粽(ちまき)ですね。
これらは、日本で最も古いお菓子の形をのこしたものといわれています。
柏餅は日本の独特なものです。粽(ちまき)は中国から渡来したものです。
◆柏餅
柏餅は、柏の葉に上新粉とくず粉(片栗粉)を混ぜてつくった「しんこ餅」に、あんを挟んだものを置き、柏の葉を二つ折りにして包んだお菓子の事です。
柏餅が日本の歴史に登場したのは、寛永年間(1624~1644)頃といわれています。柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、「子供が産まれるまで親は死なない」即ち「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」は「子孫繁栄」につながります。
中国から渡ってきた端午の節句行事としては珍しく、柏餅は日本で生まれた食べ物だったという事です。
私の父も庭に柏の木を一本植えました。新芽が出るまで枯葉が落ちないので縁起がいいと言っていました。
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おまけの雑学
三月三日、五月五日、七月七日、九月九日とみんな月と日の数字が重なっているのに、何故一月だけ七日なのか・・・?何か理由があると思うのですが、分かりません。分かる方、教えてください。
と以前書きましたが、こんな記事がありました。
3月3日、5月5日、7月7日に共通するものといえば、曜日です。毎年同じ曜日になります。3月3日から7の倍数が、こどもの日であったり七夕の日であったりします。そう考えると他にも同じ曜日の日がありますが、これは覚えやすいので雑学にはなりますね。
でもこれによると、9月9日だけ当てはまりません。
ありがとうございます[E:happy01]
全然、気がつかなかったです[E:coldsweats01]