日毎に寒さを増している北海道ですが、昔はこの時期に丹前は欠かせないものでした。今は家の断熱がよくなり影が薄かったのですが、去年あたりから、急に売り場面積が広くなりました。灯油の高騰によるエコ対策です。
丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒のための日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。長着の一種。
当初は旗本に支える使用人の旗本奴たちの間で流行し、これが一般にも広まった。
丹前はちょうど綿の入った広袖の羽織のような形をしており、前を紐で結んで着る。また襟と袖口が別布で覆ってある。布地は派手な縞柄のものが多く、これを丹前縞という。
丹前は、江戸初期、湯女風呂が体流行した頃に、神田雉子町の掘丹後守の屋敷の前に出来た「丹前風呂」という湯女風呂がありました。そこに集まる男伊達(遊び人)達の間でド派手な服装が流行ったのです。で、この男達が着ていた服装を「丹前」と呼ぶようになったのです。丹前風という侍の派手な装束も生まれました。
では、なんでそんな服装が流行ったかと言うと、この「丹前風呂」に「勝山」という湯女が大人気でした。彼女が人と変わった格好が好きだったため、目を引こうと男達が競い合ったというわけです。
多分その頃の丹前は現在のものとはかなり印象が違うものでしょう。この辺のくだりは、井原西鶴の「好色一代男」にも描写が出てきます。
江戸で有名な湯女風呂に「丹前風呂」というものがありました。西神田雉子通り、堀丹後守(ほりたんごのかみ)の屋敷前にあったので丹前風呂と呼ばれたのです。この丹前風呂紀伊国屋市兵衛方の抱え妓だったのが「勝山」です。
「吉原大全」によれば勝山は身分の賤しいからぬ人の娘であったが、父の勘当を受けて吉原の遊女になった。初めての道中に屋敷風の髪の結い方で臨んだので、珍しがられて勝山風と呼ばれるようになったという。
勝山は武州八王子の生まれ、正保三年(1646)に丹前の紀伊国屋風呂の湯女となり、その才能と美貌でたちまち江戸中の評判となりました。
のちに紀伊国屋風呂が閉鎖の憂き目にあったこともあり、承応二年(1653)八月、吉原の楼主山本芳順に招かれ太夫となります。
『異本洞房語園(いほんどうぼうごえん):江戸中期の随筆。2巻。庄司勝富著。享保5年(1720)成立。江戸の遊郭吉原の歴史・人物談などを述べる。)』には、「髪は白き元結にて、片曲のだて結び勝山風として今にすたらず、揚屋は大門口多右衛門にて、初めて勤に出る日、吉原五町中の太夫格子の名とり共、勝山を見んとて、町の中の両側に群り居たりける。始めての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの、八文字をふみて、通りし粧い、器量、おし立、又双びなく見えしと。全盛は其頃廓第一と、きこえたり。手跡も女筆には珍しき能書也。」
勝山がよみし歌に
いもせ山流るる川のうす氷
とけてぞいとど袖はぬれける
とあります。
「風呂屋」と「湯屋」は、現在で言えば「サウナ」と「銭湯」といったでしょうか。
慶長のころから京都、大坂では、風呂と湯屋を、はっきり分けてある。
起源を言えば風呂のほうが古く、光明皇后の遺事もあるし、歴史のある禅寺には浴室が残っている。風呂は蒸気を立てた部屋に入る、いわゆる蒸風呂で、湯屋は浴槽の湯に身体をひたして温まる、という違いがある。
江戸のころ丹前風呂といわれたのは、戸棚の中が蒸風呂になっていて、客は下帯をつけて 入る。中は簀の子が敷いてあり、その下に熱くした石を置き、水をかけて湯気を出す。充分に温たたまった客が流し場へ出ると、着物の袖と裾をからげた湯女が、指先で客の垢を掻き落す。だから湯女は、吉原の遊女から猿と悪口を言われた。
現在の辞書では、風呂屋も湯屋も同意語のように書かれているが、この二つには厳然とした違いがありました。江戸時代になると、この二つは同じような店となって区別がなくなってくる。
『守貞謾稿( もりさだまんこう ):著者・喜田川守貞(きたがわもりさだ)成立年 天保八年(1837年)‐嘉永六年(1853年)。江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典である。』には、「京坂にて風呂屋と云い、江戸にて銭湯あるいは湯屋と云う」とあり、江戸後期になると、同じようなものを地方で呼び方が違うという差でしかなくなったのです。
したっけ。