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「御新造さん」について考える―外伝―(R12)

2009-07-27 10:11:43 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

吉原の遊女の避妊

梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、当時の知識では妊娠は避けられない出来事だった。遊女の世界では、妊娠することが恥とされていました。

遊女自身が絶頂に達すると妊娠しやすい、といわれていたことから、プロ精神に欠けるという1 ことでしょうか。

避妊の方法

洗浄」:避妊の基本は、やはり洗浄でした。遊女用の浴室や便所には、必ず洗浄用の場所があったようです。

」 :服用するものとして、「朔日丸(ついたちがん)」というものがありました。

これは一般にも服用されていた薬で、毎月朔日(ついたち)に服用すれば妊娠しないというものでした。長屋の総後架(共同便所)などに広告が貼られている絵が残っています。他にも生理不順にも効くと言われた避妊薬「天女丸」と言うのも人気があったようです。

」:二月二日臍下に灸をすえると妊娠しないという言い伝えがあり、廓ではこの日こぞって灸をすえたようです。

道具」:甲形(かぶとがた)という男性が使用する、現代のコンドームに近いものと、詰め紙という女性が使用する、現代のペッサリーに近いものがありました。

甲形は笑い道具、つまり現代の大人のおもちゃとしての用途もありました。また、詰め紙というのは、御簾紙という薄い紙を丸め、つばで湿らせて挿入したもののようです。これは生理中、現代のタンポンのような用途でも使われました。

中絶」:農村部などでは日常的に間引きが行われていたように、当時中絶に対してはそれほど否定的な状況ではなかったようです。
よほど売れっ子の高級遊女であれば出産も可能でしたが、当然見世側とすれば妊娠した遊女のほとんどは中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。中絶に失敗して命を落とす遊女も多かったという。

  当時江戸には中条流という堕胎専門のような医者がいて、妊娠した遊女はその医者によって堕胎させられました。ひどい場合には、遣り手が強引に堕胎させる場合もあったようです。

堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。この場合は、見世の子供として育てられ、女2 の子であれば禿として遊女屋で育て、男の子なら見世の若い衆として将来は決められた。まさに、吉原生まれ吉原育ちの遊女もいたわけである。

しかし、たいていは養子に出されたようです。

吉原の年季明け二十八歳といわれ、この歳になった遊女は見世から暇を出されます。中には遣手として見世に残る遊女もいましたが、多くは吉原の外を望んだようです。吉原を出た遊女は、年季が明けたら一緒になろうと約束していた男と所帯を持つ者もいましたが、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいたようです。

上記の避妊法は殆ど効果がありませんので、ご注意下さい。

おまけの雑学

江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、Photo 幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある。葦は「悪し」に通じるのを忌んで、吉と付けたという。

また、当時の江戸は地方から働きに来るものや、食い詰めた浪人たちが集まり、圧倒的に男の人数が多かった。そのため公娼を一ヶ所に集め、男たちの発散の場とし、暴動の起きるのを防いだともいわれる。

いずれにせよ、女たちは貧困、あるいは政策の被害者であった。

したっけ。

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