空間の中を動いていく人体。語り手、あるいは語り手の分身。それを少し離れて見ながら、その風景を語る。私たちはそういうことを他人の話として語り、また自分のこととして語る。いずれにしても、空間の中にある人物として他人を語り、あるいは自分を語る。それを語ることで私たちは気持ちを通じ合う。こういう仕方で、人は人と通じ合う。そうして私たちは空間を共有し、協力して社会を作っている、とみることができます。
私たちは、私たちの目に周りの景色が見えているから私たちは今自分がいる空間が分かるのだ、と思っています。私たちの目の位置に据えられているカメラからの映像を見るように周囲の空間が分かる、と思っています。しかし目の網膜に映る映像は、顔を動かすたびにずれていきます。それどころではなく、目玉を動かすたびにずれています。しかも目玉は一瞬も静止していなくてたえず上下左右に回旋しています。結局、私たちは網膜に映る映像から空間の存在を知るというよりも、はじめから、私たちの身体が不動の空間の中に置かれているのだということを知っている、ということです。空間が不動でなく絶えず揺れ動いていたら、船酔いになったり、長周期の地震に見舞われたときのように気分が悪くなったりしてしまうでしょう。
そういうことからも、空間というものは、どうも見えるということだけで分かるというものではない。私たちの身体が、はじめから自分の身体を置く枠組みとして不動の空間というものがあると思いこむようになっている、と考えられます。そうであるとすれば、私たちは無意識のうちに、はじめから身体を置くために求められている不動の空間として、いま目の前に見えているこの風景を当てはめているのではないでしょうか?
まず不動の空間があって、その中のどこかに自分の身体が置かれている。私たちはそう思っています。目が覚めると同時に不動の空間のどこに自分が置かれているのかを確かめる。ふつうすぐにそれは分かります。私たちは自分がどこにいるかすぐに分かる。たいていは家の寝室ですね。それから周りを見わたしながら身体を動かし始める。そうして私たちは空間の中を移動していきます。不動の空間の中を移動するので、自分が動いた分だけ身体の位置が変わっていく。位置を変えることが移動の目的です。空間の内部で自分が移動していく目的の位置が私たちにとっては重要です。
私たちはいつも、自分の身体が不動の空間のどこか(ふつう地球上のどこか)に置かれている、と思っています。だから自分の目にはこのように周りの空間が見えているのだ、と思っています。そしてこの空間はだれもが自分と同じように感じ取っている、と思っています。人と語り合うとき、私たちが置かれている共通の空間について、当然、聞き手も話し手とまったく同じように感じ取っているはずだ、と思えます。そしてその通りに話を進めることができることからも、当然その通りだと納得できます。
人と人が語りあうとき、話の前提としていつでも共通の空間があります。どの空間を話題にして話し合っているのか、会話する二人はいつも知っています。
二人の周りの空間について語り合う場合が一番シンプルです。一緒に目で見ながら語ることができます。目の前にはない遠い空間、あるいは想像上の空間についても、私たちはやすやすと、話し手と聞き手が同じ空間を思い浮かべながら会話することができます。そのような空間は言葉で語られ、また絵に描かれます。