たとえば、机の上にリンゴがある。その机をはさんで私はA君と向き合って座っている。A君はリンゴに視線を向けて、手を伸ばそうとする。そのA君の動作を見て、私もリンゴに視線を向け、つい手を伸ばしそうになる。このときなぜ私がリンゴに手を伸ばそうとしているのか、実は、私は知らない。それでも私の手が伸びそうになっていることが私には分かる。A君の手が私より先に伸びていく。私はA君がリンゴを目的として手を伸ばしていることがよく分かる。A君と私のそれらの身体運動を感じとることで、そこから私たちが手を伸ばす目的物として、リンゴの存在感が私の中に現われてくる。そうなることによって(拙稿の見解では)、リンゴは現実として、客観的に、ここに存在することになる。
ところで、本章で問題にしている存在の謎というテーマについてですが、そもそもこういう話は、毎日忙しく暮らしているふつうの人には、なかなかぴんと来ないテーマと思われますね。
本章の冒頭で人類最大の謎であるとしましたが、その存在の謎、つまり「私はなぜ今ここに生きているのだろうか? 今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 私はなぜこの私なのか?」という疑問には、実際、ほとんど興味がない人が多い。
こういうことを問題にしている人は、哲学好きというか、ちょっと少数派の変わった人たちである、ということもできる。そういう人たちがえらい、ということはいえませんが、そうでないほうがえらいというわけでもない。では、どちらがえらいのか? ここまで書いてきてしまった拙稿としては、ここまで読んでくれた読者のためにも、この問題が好きな人のほうがえらい、といいたくなってきますが、そこは抑えましょう。まあ、哲学者たちはたいてい、存在一般について抽象的に語ることがえらい、と言っているようですが、それは立場からの発言に聞こえてしまいますね。実際、抽象的な一般知識よりも具体的な実際知識のほうが重要だ、という哲学もあって、拙稿として冷静な立場をとれば、こちらがもっともらしいと思います(一八九〇年 ウイリアム・ジェームス 『心理学の原理』)。
そういうことで、拙稿としては、本章のテーマなどぴんと来ないという多数派の味方をすべきなのですが、公平に言って、そうもいえないところがあります。それはこれから述べるように、存在の謎など無関係であるはずの多数派の人々も、現代では、しばしばこの謎に巻き込まれてあぶない目に合う可能性が大きいからです。このことはすぐ後で述べます。
いずれにせよ、なぜ多くの人は本章のテーマである存在の謎にぴんと来ないのか? この点にも、拙稿の見解では、このテーマを考えるヒントがあります。
目に見えるこの現実世界が存在するすべてであって、私たちが感じるものはすべてそこからきている、とふつう私たちは思っています。宗教を深く信仰している人々を除けは、私たちのふつうの毎日の生活では、存在するすべてはこの現実世界以外にありえない、と思えますね。これはいかにも理性がある現代人らしい感覚ですが、この現代感覚は、この後述べるように(拙稿の見解では)、実は宗教を信じすぎる人たちに比べて、どちらがあぶないともいえないくらい、あぶないところがある。
このような日常感覚では、本章のテーマである存在の謎は無視されています。たとえば物質である身体と物質でない心とは、実は、両立しないのではないか、という哲学上の問題がある。しかし、そういうことは毎日の生活では問題にならない。そういうことが生活の支障にならないように、私たちの感性は、そういう論理矛盾には適当に鈍くできているからです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。
机の上にリンゴが一個あります。その机をはさんで私はA君と向き合って座っている、とします。
ここにはっきりと客観的な現実世界がある。この世界の中にはっきりとこのリンゴがある。このリンゴの前にA君が座っている。私もA君も、私たちがこれから、このリンゴを話題にしてさりげない会話を開始するであろうと思っている。A君はたしかにこのリンゴを見ている。A君はたしかにこのリンゴがとても赤いと感じている。実際、このリンゴはとても赤い。A君もまた、私がリンゴを見ていると感じている。A君は私がたしかにこのリンゴがとても赤いと感じていると思っている。実際、このリンゴはとても赤い。こういうとき「このリンゴはとても赤い」という言葉が私の口から発声される。
現実世界のありさまは(拙稿の見解では)、身体運動に伴って現れる。あるリンゴがとても赤いという現実は、「このリンゴはとても赤い」と発声するという身体反応にともなって、私たちの間に立ち現われてくる。これは、(拙稿の見解では)私たちの身体が、仲間の視座で見た物事に反応して動くようにできているからです。私の身体のこの運動反応によって、A君の心の存在感もA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感も、そこから立ち現われてくる。
A君の心の存在感とA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感。それぞれがはっきりと存在すると感じとることで、私はA君と同じ現実世界を共有し、A君と話が通じていく。こういうことを繰り返すことで、私はA君と仲良く付き合う気持ちになっていく。私の中でA君は、間違いなく同じ人間どうしであり、仲間だということになっていく。こうして私はA君と、最後には緊密に協力していく間柄になる。逆に言えば(拙稿の見解では)、私たちの身体はこうして、私がA君と仲良く仲間として協力し合うようになるために、このリンゴはとても赤いというA君と共有できる物事の存在感を客観的な現実として感じとることができるようになっている、といえます。
私は、ここにいるA君がたしかにこのリンゴがとても赤いと感じていると感じとることで目の前のリンゴが間違いなくとても赤い、ということを現実だと感じとるような身体を持っている。と同時に、目の前にいるA君の身体の中にはA君の心が入っていることも現実だと感じる。そのA君の心の中にあるリンゴの赤さを現実と感じる。さらにここにいる私がこのリンゴの赤さや、A君の心を感じている、と思っている。こういう場合、私は、このリンゴの赤さが存在することを信頼できると同時に、A君の心が存在することも信頼できる、と思う。これらの全部が同時に現実だと思う。
しかしここで実は、矛盾がでてくる。拙稿でここまでに述べたように、物質の存在感と心の存在感が同時に成り立つことは矛盾であるということが分かっています(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。
リンゴの赤さの存在感とA君の心の存在感。この二つが同時に存在することには矛盾がある。しかし矛盾に気づかないか、気づいても無視できれば、私たちの協力はうまくいく。こういう場合、いくつかの存在感の間に、哲学的考察によるいくらかの矛盾があっても、うまく人間どうしの協力が成り立つメリットにくらべれば、そのデメリットは無視できる。人類にとって(拙稿の見解では)、仲間としっかり協力して健康な子孫を育て上げることが重要であって、哲学がうまくいくかどうかはあまり重要ではない。
リンゴの赤さのことでA君と認め合って協力がうまくいけば、それでよい。リンゴの赤さは存在する。A君には心があるということを私とA君の双方が認め合ってA君と通じ合うことで二人の協力がうまくいけば、それでよい。A君の心は存在することになる。リンゴの赤さとA君の心と両方が存在するということが、哲学的に矛盾なく説明できるかどうかは、あまり重要ではない。
人類の生存にとっては、客観的と思える世界がはっきりとここに存在するように思えて、その中にいるように思える人々とそれを共有することで自分たちの心が通じあえるように思えて、かつ実際にその結果、仲間の皆とうまく協力しあって子供を産み家族を養っていければそれでよいのであって、よほどていねいに検討しなければ見つからない哲学的な矛盾などはあってもなくてもかまわないのです。人と通じ合えなければ私たちは生き残れない。哲学がうまく作れなくても生き残れる。