確かに、吉田松陰が言ったように、発展なければ衰退する。しかしこのインターネット全盛の時代に、どこに発展の道があるか?今の傾向を推し進めた先に展開がある、と思うことは安易に過ぎるだろう。大展開があるとすれは、私たちが思いもしない方角でしょう。であればそれは、今想像できない。大災害、エイリアンの襲来、など、であるはずです。徐々には来ない。来るとしても、十年くらいで世界が一変する。コロナが大災害というひともいますが、あれはわかりやすく、まあ、予想通りでありました。
黒船が来る前の江戸の市民。太平の眠りを楽しみながらも、夜ぐっすり眠る日々も長くないかもしれん、と思っていました。ええじゃないか踊り、現実逃避、ニヒリズムの気分があったのでしょう。
マスメディアが大産業になり、個人はそれについていく。ついていけば、ある程度は、楽しい。しかし現代、テレビもインターネットも飽きが来はじめています。情報を大量に、あまねく行きわたらせる、電子通信の驚異的能力が質的に限界に達してしまったのではないでしょうか。そこからは、反転して、個人に分割されていく。インターネットを開けると、いまや、あなたのための情報、というものがまず現れてきます。視聴履歴の管理、嗜好分析、個人追跡の技術は急速に発達しています。その間違いも多いが、間違いをものともせず、執拗に追い続ける迫力に脅威を感じます。
インターネットの源泉、つまりその資金源、それを作り続ける人々の収入を支えるシステムは、巨大なものに成長してきます。これを維持し、回転させ続けるエネルギー、資金は、スポンサー、政府支出、会費、課金、として流入する。回転は年々、成長し、これに関わる人の数も、生活時間も大きくなります。これはよいことなのか?正しい情報が行き渡ることは、よいことでしょう。偽の情報も、間違った情報も、同じくらい大量に、頻繁に行きわたります。 動画やレポーター、解説者、フィクション、感情の伝達。そこには個人の打算、趣味、意図、自我、の表明から生成される集団の打算、趣味、意図、自我、の存在が浮き出されます。絵画のような幻影ともいえる空間が、現実空間の内部に相当の量を占めて存在してきている、といえます。
筆者は、近頃、年を取りすぎた(現在七八歳)せいか、自分が見ている風景が、記憶にあるあれだ、と分かるのに一瞬の時間遅れを感じます。見当識障害、というか、記憶している風景と視覚で感知している風景を同じものと思えない時があります。バーチャルリアリティを見るようです。知っている場所なのに違う風に見える。町が次々と改築されているのも原因だし、外人が多くなっているのも、違和感に関係しているかもしれません。もしかしたらマスクが少なくなったことも関与してとも言えます。しかしここで言いたいのは、これはインターネットのせいではないか、という思いです。インターネットの中に入ると、自分がそこをよく知っているように錯覚してしまいます。それが記憶にたっぷりたまってくると、現実を見ているのに、これは、どこかで見たあれだろう、としてインターネットの経験を取り出してしまうようになる。それがあるのでしょう。
これはインターネットが犯人なのか?違うでしょう。自分が、現実を適当に分かってしまう能力を持っているから、というほうが正解。現代の現実世界では、新鮮な経験ができない。そのわりに、インターネットではバーチャルな情報が拾えます。断片的であるがゆえに、もっともらしい、と思ってしまいます。テレビやインターネット、町の風景などを混ぜ合わせると、もっともらしい、現実らしいものを感じてしまいます。そういうものには、自分の直感が、底のほうでしっかり影響しているはずです。しかしそれは自覚できない。たとえば景気がよくなってきている、とか、不景気が続きそう、とか、空気のような感じです。そこから抜け出せれば、それは見える。しかし、抜ける前は、自覚はできません。
夕べ、数日ぶりにテレビを見ていたら、テレビ朝日で池上潔が昭和百年の歴史を語っていました。日本の学校制度は、占領期GHQの担当者が米国での自分の出身州の制度を持ち込んだからできた、という池上の解説に、スタジオの人々が驚いた顔をしているのが映されていました。社会人の知識は、テレビで作られることをテレビ自身が知っているようです。テレビのトーク番組は、ゲストが笑いで混ぜ返したりして、空気をつくりだします。インターネットの場合は、テレビ風の動画もあり、識者の解説や語りもあり、空気は一定しません。その分、ユーザーは自由を感ずることができます。逆に孤独も感じます。コメントなど書き込む側になれば参加意識も持てる、と同時に責任も感じる。そういうものは感じたくないユーザーは隠れていることもできます。つまり参加の自由とインサイダーの居心地の良さ、のグラジュエーションがあります。それ全体の自由と冷たさがインターネットの特徴でもあります。
悪天候で散歩にも行かず、座りっぱなしだったので、長椅子で腰を伸ばしました。いつも、布団をたたんでおいてあるので寝心地がよい。いつのまにか、夢を見ていました。「課長、業務計画を説明させてください」課長席の前のソファーに座ると、書類を拡げます。「あ、そのコピー、古いよ」と言われて、えっ、とたじろいだところで目が覚めました。たぶん、五十年前の記憶がよみがえってきていたのでしょう。
目が覚めると、もう十時。すぐ寝るしかない。布団を拡げながら寝落ち。風邪薬が効きすぎたのか、年を取りすぎたのか、寝つきがよすぎます。それで、本稿も昨日はパス。ごめん、といたします.
YouTubeで成田 悠輔氏が石破総理大臣と対談しているので、顔を洗う前に出だしを見て、一時停止にしておきました。頭を乾かしてから、再開すると、案の定、徹底激論とかいう大げさなタイトルのわりにふつうの話をしていて、選挙は義務制にしたらとか、有権者を大事に、とか首相は言っていました。中身よりも、テレビに出たがらないように見える人と首相が一対一で対談するという設定が、めあたらしい。YouTubeも役に立っている、と思いました。オールドメディアも緊張するでしょう。
結局、誰かが作っていて、誰かがそれに乗っているから、存在している、はずですが。
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(106 インターネット嫌い begin)
106 インターネット嫌い
さすが同年配ではインターネット好きは少数で、むしろコロナ以来、テレビづけ、一日中テレビ、という人が多いようです。少し昔の老人は、年がら年中、新聞を読んでいましたから、老人の生活が、あまり変わったとは言えません。
筆者も十年くらい前までは、新聞をよく読んでいました。その後、新聞は購読をやめ、五年くらい前からテレビも見なくなりました。老人はインターネットなどするはずがない、と思い込んでいましたので、七十代後期になって、自分がテレビからインターネットに移動するとは思いませんでした。
新聞は読まなくなると、捨てるのが面倒で、月料金も惜しいので買わなくなりました。テレビは(NHK以外)無料なので、捨てていません。社会への窓と思って、数日に一度か二度、覗いています。怪しげな窓ではあります。
近頃、テレビは、ますますつまらなくなった、と思っています。自分が老化して世の中への興味がなくなったのか、テレビ業界が劣化したのか、定かではありません。
テレビは勝手に見せたいものを映してくる。広告もつまらない連呼式がしつこい。インターネットも履歴が記録されて、見たがるもの、あるいは見せたいもの、をかなりしつこく見せに来ます。
近頃は、インターネットも嫌なところが多くなって、勝手な画面が飛び出してきてうんざりします。やめようかと思いますが、テレビに戻るのも嫌だし、新聞は、もう、うんざりなので困っています。新しいAIなどあまり試していませんが、どうせもっと悪いものだろうと思えるので、期待していません。まず、無料であったり、ごく安価な料金であったりするところが怪しい。だましの姿勢が透けて見えます。スポンサーから、あるいは商品やサービスを買ってもらって広告主から収入を得るシステムなのでしょうが、民間商業競争の劣化が激しくなっています。戦争や革命がない現代では、過当競争による資本主義の欠陥が大きくなる一方なのでしょう。かといって、政府事業ではだめなのは、前世紀の社会主義や官僚主義の経験で分かりすぎています。医療やAIなど新しそうな技術にも、すぐには希望を持てません。何か明るい話はないでしょうか?
インターネットでは、YouTubeが、技術も中身もよくなってきています。視聴者が急増していますから、いいものも出るが、悪いものは極端に劣化したものも増える。幼稚なびっくり動画や怖そうな脅し画面などが、当然、はびこっています。個人がよく見るものを多く提供するシステムになってきましたから、自分の趣味が悪くなければ、提供される動画はあまり劣化しません。うっかり面白がって低質なものを続けてみていると、おかしなテーマが増えてきます。しまったと思って、履歴を消去したりします。
報道番組や、政治、経済は、かなり程度が落ちて、見るに堪えないので、しかたなく、英語のMSNなど見ます。こちらの視聴頻度に併せてくるらしく、歴史ものとか、武力紛争などの記事が上がってきます。美人の顔、形が意味もなく出てくるので、それもクリックしていると、ファッション記事まで上がってきます。デザイナーごとのファッションショウの定番も見苦しくはないですが、どれも実にマンネリの時代を反映しています。
ポルノビデオもたまにのぞきますが、今世紀に入ってますますマンネリ化しているようで、前世紀がよくできた時代だったと分かるのが残念です。
こんなマンネリの定型化した文章なら、AIでも書ける。AIのほうがましなものが書けるでしょう。ひょっとして、これ本当にAIが書いているのではないか、と思えます。
写真であってもAIが、もっともらしく修正します。切り貼りなど得意でしょう。そうなると、ふつう程度の能力の記者や作家は、AIのような記事を作るようになってしまう。いや、もう、それでよし、となってきていて、いつAIに取って代わられても、だれも気付かない、となってしまいそうです。インターネットは、すべてAIが作る。テレビも、新聞も、雑誌も、もちろん広告も、AIが作ってしまいます。いつそういう時代に切り替わったのか、私たちは気が付かない。のかもしれません。
私たち、マスコミの消費者は気をつけなければなりません。
同じ産業が過当競争になって、効率化の競争になると、当然、定型化し、マニュアル化して、未熟練ワーカーが低賃金で働ける工程のほうが勝ち残ります。家電、パソコン、スマホ、アパレルから農業、鉱業、漁業まで日本のような高賃金国はだめになっていきます。AIに置き換わるような仕事で高い給料はもらえないでしょう。
マスコミも同じで、楽に記事を書けるようになるほど、質が落ちてきて、面白くなくなるのは当然です。大きな会社が生き残るために保守化して、つまらないコンテンツを量産する。能力のある記者やクリエーターは成長できない環境がシステム化する。そうして全体が沈滞化するけれども、個人はシステムを守るしかないので、システムごとに沈没していく、という図式になっています。沈没するシステムはAIに乗っ取られて、死期を早める。あるいは、死にそうなまま、AIのおかげで延命する。その景色はつまらなくなるしかないでしょう。
将棋は、AIに負けそうではありますが、負けていません。藤井聡太は天才としての戦績を見せています。国民的競技として盛り上がっています。AIに競合する人間能力としても注目されています。
実際、AIに取って代わられて人が消えていく現象は、話としては面白く、よく語られていますが、明快な実例を見ません。自動販売機、鉄道の改札、電話案内、コンビニ会計、など日常生活で出会う風景は、慣れればストレスもインパクトもありません。税務署申告や市役所手続きも、世話係がいて、親切に手伝ってくれますので、問題なし。医療や健康検査もAIが使われているようですが、困ったことにはなっていないようです。見えないところでAIが活用されている人工衛星、交通管制、電力、道路インフラ制御、銀行、警察、軍事システムなどは、日常生活に直接は無関係なので、心配する必要なし。となると、人がいなくなっても通常は大丈夫そう。ただ事故の時が不安、という見えない緊張感が残るくらいでしょう。
電波時計が信用できるか心配、とか、車のノークラッチが怖い、とかいう人はいません。初期のころは、大丈夫かな、という緊張感はありましたが、すぐ慣れる。回りの皆が平気で使っている、となると、その違和感はなくなります。AIは日常風景に溶け込んで、見えなくなります。それで問題はなし。スマホを見よ。ホームドアを見よ。緊張感なしでしょう。ゲームのようなもので慣れてしまえば、AIとの会話など、人格を感じることはありません。ふつうにしゃべっているけれども、鈍感なひとだな、くらいの印象です。気にする気にもなりません。しばらく使っていると、慣れで退屈になり、繰り返して使いたいと思うこともなくなりそうです。
最後の戦争も終わりそうです。平和になると、ニュースは詰まらなくなります。怖いものがなければ、テレビを見る必要もなくなる。まして新聞や雑誌もいらない。本は読む気がしない。となると、友人と雑談くらい、でしょうか?スポーツ、ギャンブル、フィクション、ゴシップ。どれも、繰り返せば、新鮮味はありません。インターネットは、情報を受け渡す。その価値が高いほど、インターネットは面白くなります。
回線や電波で流す情報の中身、つまり音声や文字や動画であるコンテンツがその時の視聴者にとって、面白いか、興味深いか、が問題になります。面白さを競って、視聴者に売りつける。コンテンツの作者、クリエーターのチームは、それで売り上げを伸ばす。あるいは、名声を得てブランドとして名を売ります。チームや会社の場合、リーダーが優秀ならば、何とかなります。そうでない場合、生き残りは難しい。
まずは隣のチームの真似をします。昔は、欧米の真似をしていれば売れる時代もありました。今はそうもいきません。競合社も模倣がすごくうまい。少しでも早く、コスト安く、出し抜かなければ自分が倒れてしまいます。インターネットを駆使して、一日でも早く、新しい、受けそうなテーマをつかむ。すぐ実現するスピードが必要です。それには優秀なスタッフをそろえておかなければなりません。プロジェクトを組んで、新規分野を開拓できれば、すばらしいけれども、なかなか成功はありません。とりあえず、ライバル会社が手を出すものを追いかけて追い抜く。たいていは、そのほうが安全で確実です。
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この扇状台地には、多磨霊園、野川公園、調布飛行場など広く平らな土地が広がっています。野川公園の中を流れる野川を歩いてみると、武蔵野台地の崖から多摩川方向に平地がゆるい傾斜で下がっていくのが分かります。崖線の湧水池は、この武蔵野台地が大都市東京を生んだ原初の姿を見せています。この水源を頼りに人が住み始め、農業が村落を作り、最後に江戸になっていったのでしょう。
野川は、二子玉川で多摩川に合流するので、国分寺崖線は多摩川東岸と重なっています。第三京浜国道の入り口、つまり玉川野毛公園の南端で等々力渓谷へ落ちる崖が国分寺崖線の多摩川最接近地といえます。ここは多摩川の東岸段丘です。北側の武蔵野台地の水を集めて南下する等々力渓谷、矢沢川、仙川などが野川多摩川合流部に流れ込んできて、それぞれの谷を作り町中に急傾斜の坂が多くなっています。年寄りの歩行には不便でしょう。このあたりをデートに使っていたころは若かったので面倒とは思っていませんでした。その後、住むところは東に移って、年も取り、長い急坂を歩く機会はなくなりました。
江戸時代(1653年)に掘削された玉川上水は、羽村から四谷まで武蔵野台地の尾根を通しています。上水から南側は多摩川へ雨が流れ落ちる緩やかな傾斜面となっています。国分寺に住んでいた頃、散歩に行った小金井公園の脇に上水が通っていました。きれいな緑地に整備されています。武蔵野台地は今は立派な住宅地ですが、基本的に畑地で水田の適地ではありません。食糧生産性が低く、昔の人は湧水を求めて崖淵、崖下に集落を作っていたようです。筆者はなぜか、昔の人に似ているのか、いつも崖淵に住んでいます。
多摩川は偉大な川で、海が陸に入り込んでいるところだった、というべきでしょう。蛇行する多摩川を北から南にJR八高線が渡河します。この川原で二百万年前のクジラの化石が発見されました。一九六一年にアキシマクジラと命名された新種を、昭島市は、シンボルデザインに活用しています。多摩川は海だった。二百万年も昔の話です。■
(105 坂の存在論 end)
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池上通りは、大森駅からJR京浜東北線を離れて、南西に進み池上駅に向かいます。大森から南ではJRは直進しますが、ここから武蔵野台地の崖線は(多摩川にさえぎられて)右にカーブして西へ向かい、さらに東急池上線に沿って、北に向かってUターンしていきます。つまり池上通りと池上線(の千鳥町駅まで)はこの台地の崖線に沿って作られている、といえます。
二〇二一年に池上駅がリニューアルしてきれいな駅ビルができた際に、大田区立池上図書館が移転して入居しました。移転前は歩いて五分ほどの池上本門寺山門前にありました。この寺の参道は長く急峻な石段になっていて、まさに武蔵野台地の端です。脇にあった図書館には小学生のころよく行っていました。図書館よりも裏の崖を上って蝉取りなどをしていた覚えがあります。
本門寺の崖の上は五重塔のあたりから平坦な台地になっていて墓地と森が広がっていました。樫の大木の幹にナイフで自分の名を刻みました。大人になってからふと心配になって見に行きました。薄い傷跡があるようですが、まったく読める跡には見えませんでした。
このあたりから武蔵野台地の崖線は多摩川の河岸段丘と重なって西から北に向かいます。千鳥町駅東側の崖まで池上線は武蔵野台地の西端を走りますが、ここから久が原駅に向かって北の高台に上っていきます。崖線のほうは池上線と別れて、左へカーブし、西へ進みます。崖に沿って進むと細い道が(東急多摩川線)鵜の木駅へ降りていきます。降りる道の坂上に、昔大きな空き地があって、雨が降ると泥でぬかるものの、ごく安い料金で近所の人に駐車させてくれていたので使っていました。新婚で借り家住まいの貧乏サラリーマンが、昭和時代の東京で車を所有できたのも、この空き地駐車場のおかげでした。
この空き地がある高台は、多摩川に沿って南下してきた国分寺崖線の南端といえます。武蔵野台地が東京湾に削られた突端です。駐車していた当時は、地形など興味もなく、車が崖のほうへずれ落ちないように気を付けていただけでした。今、グーグルストリートビューを見ると狭い坂道を主婦らしい人が上っていくところが写っています。
ここから北の国分寺崖線は、多摩川の東岸に切り立つ崖になって、尾山台まで平らな台地はありません。多摩川に接する高台になっている東急多摩川駅西の多摩川台公園は亀甲山古墳群が築かれています。古代人も多摩川を見下ろす眺望が気に入っていたのでしょう。東急多摩川駅東の崖は武蔵野台地特有の湧水が絶え間なく湧き出ています。ここは昔、多摩川園という子供には最高の遊園地で、小学生の筆者は、入場料を払わずに忍び込める裏柵の隙間を捜し歩きました。
尾山台西端を通る国分寺崖線は、野川が多摩川に合流する二子玉川のあたりまで多摩川に沿って武蔵野台地の西南崖線を作っていますが、喜多見あたりから北は、多摩川との間に大きな扇状台地を作っています。野川の源流は、武蔵国分寺史跡都立公園の北側日立中央研究所の湧水池です。ここから始まる野川は国分寺崖線にそって扇状台地の北端崖線の下を二子玉川に向かって流れています。国分寺崖上の借り家で長女の幼稚園、小中学時代の子育てをしていましたので、この周辺の野原を遊びに連れ歩いていました。
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鳥居坂の下を東西に走る四車線道路、環状三号線は武蔵野台地の南端崖下を走ります。東に進んで一の橋交差点で麻布通を横断すると、平坦な東麻布の街を抜けて、その先は芝公園の南端をかすめてJR京浜東北線に突き当たります。この環状三号線道路が、武蔵野台地の南東の端部を囲っている、といえます。これが台地の端部であることは、この辺の崖線の勾配を見るとはっきりしています。東京湾側に東に下る崖は段差が数メートルあり、階段が必要なくらいきつい勾配です。ところが下の平地に着くと、海まで真っ平らです。つまり遠浅の砂浜の潮が引いた状態です。あるいは長期的に全体が隆起したか、海面が下がったかという地形変化を推定できます。
ではこの環状三号線より南に武蔵野台地の名残はないか、というと、あります。鳥居坂の坂下で環状三号線を南にまたいで直進し、麻布十番通りを南に横断すると暗闇坂と標識がある細い一車線ぎりぎりのかなりきつい上り坂があり、その先は武蔵野台地の名残の高台を形成しています。この高台は西の六本木ヒルズから続く尾根になっていて、武蔵野台地の東端の崖上といえます。暗闇坂最高部の交差点を直進すると緩やかな登りの一本松坂となって、左の頂上には元麻布ヒルズの高層タワーが立っています。この高層マンションの東は下り崖になっていて下りの中腹が善福寺です。米国の初代駐日公使タウンゼント・ハリスが駐在した寺院です。善福寺の境内が蔵野台地の舌状高台の東端といえます。一本松坂は先の仙台坂上交差点で終わり、そこを左折すると仙台坂という名の下り坂となって幹線の麻布通へ下ります。
善福寺の崖が武蔵野台地の東端である、と先ほど言い切ってしまいましたが、ちょっと不正確です。実際の地形は、この麻布通にそって走る古川が台地東端部を少し削ってしまったために、さらに東に小さな高台が残ってしまっています。仙台坂の坂下である二の橋交差点を直進して二の橋で古川を渡り、その高台へ上る坂を日向坂といいます。その坂の頂上に、一九一三年ジョサイア・コンドル設計により建てられた華麗な綱町三井倶楽部本館があります。そこから東に下る坂は綱の手引き坂と名付けられています。この坂下を南北に走る両側三車線の幹線道路が桜田通りです。その東側には芝の市街地が広がり、真っ平らな土地ですから、この高台が、まさに武蔵野台地果ての東端です。この坂の中腹に二〇一四年竣工したザ・レジデンス三田マンション建替組合の役員を筆者は務めていましたが、竣工まで坂名の由来を知りませんでした。調べてみて、酒呑童子を退治した渡辺の綱が手を引かれたという伝説からきている由緒ある坂名と知り、今は誇りを持っています。
ここの桜田通りの西側は高台になっています。綱の手引き坂から南に行くと慶応大学があります。この大学のキャンパス西側は桜田通りへ下り傾斜していて滑って歩きにくいところでしたが二〇〇〇年に東館が作られて幅広の階段で桜田通りへ降りられます。この慶応三田キャンパス全体が武蔵野台地の東南端であるといえます。
南に延びる武蔵野台地は、東京湾の海蝕によってできた東端の崖にそって昔の東海道が南に下っていきます。昔から江戸つまり東京から横浜に向かう旅人は、西側に、いつも崖を見上げて進むことになっています。現在のJR東海道線や京浜東北線も同じように、武蔵野台地の東端にそって南北に走っています。
一八七七年にエドワード・シルヴェスター・モースは米国から横浜に到着して、新橋に向かう陸蒸気の車窓から、鉄道開通工事跡の切通しの崖に貝塚らしい地層を発見しました。その場所は大森駅の北側、西側に見える崖層です。これはまさに、武蔵野台地の東端です。江戸湾の過去の波打ち際だ、とモースは日記に書いています。モースが後年、館長を務めたセーラムのピーボディ博物館では、モースの日本での博物コレクションが展示されています。筆者は米国滞在時、これを見にセーラムを訪れました。魔女狩りで有名な観光地ですがナサニエル・ホーソーン(緋文字)など文学者の街でもあり、文化的な都市にふさわしい立派な博物館がありました。よく集めてくれたなあ、と思うほど種々の江戸、明治の道具、物品、動植物、写真、など、さすが昔の博物学者はえらかった。日本に来てくれてよかったです。
JR京浜東北線西側の崖は、上野駅から北のほうが険しくて車窓からすぐ分かりますが、東京駅から南のほうは車窓のすぐには迫ってきません。顕著に分かるのは、大森駅の西崖です。大田区の高級住宅街として、田園調布と並んで称される「山王」は、大森駅の西側の崖上の住宅地です。大森駅直近の崖上なので生活には便利ですが、明治大正の昔にこの崖を上る道を開くのは大変だったでしょう。西は武蔵野台地の典型で緩やかな斜面地です。畑作に使われていました。この崖は江戸時代には海を見渡す景勝地として浮世絵にも描かれています。高校生の頃、がけ下の大森駅のバス停から池上通りを通学していました。バスの車窓に映る昭和の商店街は、筆者にとって日本の原風景です。
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(105 坂の存在論 begin)
105 坂の存在論
高い地面から低い地面に降りるためには、斜路を作ります。ふつう坂道といいます。現代の日本語ではスロープといいます。高低差が一メートルくらいならば飛び降りればよい。飛び降りるとひざを痛める恐れがあるので、斜めに土を崩すと良いでしょう。高い地面の端に立って、崖を靴で蹴とばして崩します。泥が崩れて斜めの斜面ができます。
人が通れる幅は最低でも数十センチなので、その幅をシャベルで削るとよい。踏み固めれば、何人でも通れるようになります。勾配は1/8以下、摩擦係数は0.6以下であれば安全、となっています。
一八七四年、海軍水路寮は地図作成の原点として、港区麻布台に天文台を設置しました。ここに据え付けた望遠鏡の基点が日本列島の原点となっています。ロシア大使館とアフガニスタン大使館の間の小さな空き地に石碑があり、その台座に埋め込まれた半球状の金属の中心に十字印が刻まれています(関東大震災後、天文台三鷹移転により装置は移動。現在は人工衛星測地に機能移転)。ここは、東京湾を見下ろす武蔵野台地崖線の正にぎりぎりの端で、境界線の南側は草木に覆われた急斜面になっていて歩けません。少し東に回って桜田通りの土器坂を回り込むと東麻布の平地(マンション密集地)にでますが、その北側は、前に述べた日本原点の下にある数メートル段差の上り崖です。
麻布台の南側は急斜面で下に降りる道はあまりありません。ロシア大使館の西側から南に下る狸穴坂。この坂は西側面も西へ下降していて、マンションが立ち並んでいますが、数十メートル西を南北に走っている麻布通り(地下鉄南北線の地上)から西に上っていきます。麻布台は東京都を覆う巨大な武蔵野台地が東の東京湾に沈む端の崖上になっています。武蔵野台地は、ヤマタノオロチのように東に向かってJR京浜東北線をなめ崩しながら、いくつもの舌を出していますが、かなり長い舌の一つがこれです。
この舌の先端が崖になって、京浜東北線に接しているところは、JR大森駅、品川駅、高輪ゲート駅、上野駅、鶯谷駅、日暮里駅、王子駅など、車窓から西側の崖が見えます。最近は高層ビルで見えにくいですが。
JRは束になって南北に走っていますが、窮屈そうです。JRの西側には線路に沿って南北に道路が走っていますが、西に上る坂道はふつう細くて、二車線道路は各駅に一本くらいしかありません。西側の駅前広場は狭く、東側の駅前が広くてロータリーなどがあります。
麻布台から南に降りる坂の話に戻します。外苑東道路を狸穴坂の西に移動しても南に進む幅広の下り坂はなくて、鼬坂と呼ばれる一車線道路だけがあります。あとその西には、レストランキャンティの脇を下る車も通りにくい下り坂があるだけです。その西は幹線の麻布通になっています。
鼬坂を南に降りていくと車が通れない徒歩通行の下り坂になっていて、鼠坂という標識があります。さらに南に下ると、また車が通れる道になり、その先が狸穴公園になっていて、子供が遊んでいます。
この鼬坂と鼠坂のすぐ西には、麻布通が南北に走っていて、その上を首都高速道路、その地下を南北線が並行しています。この道路は麻布台側の飯倉片町交差点から、南側の一の橋交差点(麻布十番駅地上)まで左にカーブしながら下っています。一の橋交差点には更科そばという老舗があって、正岡子規が「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」という句を残しています。
ここの麻布通の東側は、昔からの麻布永坂町という地番になっています。東側の大邸宅の著名人たちや更科そばの社長さんなどが町名保存を強硬に主張したといわれています。町名整理以前の昔から永坂町だった麻布通西側は六本木五丁目に変更されています。南に下る麻布通沿いの坂はいまも永坂という坂名が残っています。その西側の道路わきに娘が住んでいたことがあって、路上駐車の時は筆者が見張りをしていました。すぐ先にロシア大使館警備の警察官が立哨していたからです。
麻布通(つまり昔の永坂)の西側からはずっと上り斜面になっていて、完全に武蔵野台地が広がっています。麻布通の西数百メートルを外苑東通りから麻布十番通りまで南北に抜ける二車線道路が南に下っていて、鳥居坂と名づけられています。鳥居坂に沿っては、フィリピン大使館、東洋英和女学院、シンガポール大使館などが並んでいて立派な塀や擁壁が続いています。鳥居坂南東端にあるシンガポール大使館の西の擁壁は切通のように切り立っています。江戸時代初期に、ここにあった大名鳥居家の庭を掘削して坂道を作ったのでしょう。かなりきつい坂です。
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〇赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空
リンゴは何にも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
(一九四五年十月「リンゴの唄」作詞サトウハチロー、作曲万城目正)
戦後映画第一号『そよかぜ』(一九四五年十月)の主題歌及び挿入歌。
ラジオはNHKしかなかったから、どの家でもそれがつけっぱなしで繰り返しこの歌を聞いていました。モノクロームの世の中が突然総天然色になった。赤と青。それが現実だと言われれば、そうかもしれないという気がします。しかし昨日までの世界も実際に現実だったのでしょう。戦後、という語が現実ならば、その前は夢ということかもしれない。よく覚えていません。筆者はちょうど生まれていませんでしたから。□
〇「夕焼小焼の赤蜻蛉
負われて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは幻か
十五で姐やは嫁に行き
お里の便も絶え果てた
夕焼小焼の赤蜻蛉
止まっているよ竿の先」□
(「赤蜻蛉」一九二一年三木露風、一九二七年山田耕筰作曲)
あかとんぼ、という語の当時のアクセントが残っています。□
童謡や流行歌は、赤い、という歌いだしから始まるものが多くあります。赤色のイメージが鮮烈だからでしょう。ポリティカルな「赤」が好き、という人もいますが、 嫌いな人も多い。無邪気な子供はそれが好き、ということで、まず使われます。けん玉の色を見れば明らかでしょう。サンタクロースの服も赤です。■
(108 赤い童謡 end)
(108 赤い童謡 end)
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(104 赤い童謡 begin)
104 赤い童謡
〇「真っ赤なお鼻の トナカイさんはいつもみんなの 笑いもの」(一九三九年Robert L. May作制「Rudolph the Red-Nosed Reindeer」一九六四年 新田宣夫訳詞「赤鼻のトナカイ」)。この絵本はシカゴのMontgomery Wardデパートでクリスマスの景品に無料で配布され、数百万部が配布されました。作者のメイはいじめられていた幼少期の思い出を詩にした、といわれています。□
〇「赤い花つんで あの人にあげよ
あの人の髪に この花さしてあげよ
赤い花 赤い花 あの人の髪に
咲いてゆれるだろう お陽さまのように」(一九六四年 「赤い花白い花」中林三恵)
この歌を覚えているのは、一九九四年、第45回国際宇宙会議がイスラエルのエルサレムで開催され、筆者が会長指名委員だったからです。そのとき、五代富文氏を会長に推挙し委員会の賛同を得ました。レセプションの会場でイスラエルの少女歌唱団が歌っていたのが「赤い花白い花」の日本語でした。一週間後、市街地で爆破テロがあり、怖い町でしたが、日本語の歌の響きが特に平和に感じられた覚えがあります。□
〇「赤い夕陽が 校舎をそめて、 ニレの木蔭に 弾む声。
ああ 高校三年生。 ぼくら 離れ離れに なろうとも、 クラス仲間は いつまでも」(一九六三年 丘灯至夫「高校三年生」作曲は遠藤実)
舟木一夫は高校生の制服を着たレコードジャケットでデビューしています。筆者が高校を卒業したのは一九六五年なので、このヒット曲(一九六三年第5回日本レコード大賞・新人賞)は巷に流れていました。若いころのクラス会では、当然、肩を組んで歌っていました。校庭といえば二本の巨木から落ちる銀杏を焼いては食べていたり、脇のプールで筏が転覆してずぶぬれになったり、隣の神社でさぼり昼寝をしていたことくらいを覚えています。この時代の十年後くらいですが、一九七六年森田公一とトップギャランのヒット曲「青春時代」(阿久悠)も歌詞を覚えています。
「卒業までの半年で答えを出すと言うけれど、二人が暮らした歳月を何で計ればいいのだろう。青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うもの、青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」このあと、青春という語を聞いても無関心な大人になりました。□
〇「赤い靴はいてた女の子
異人さんに連れられて行っちゃった
横浜の埠頭から汽船に乗って
異人さんに連れられて行っちゃった」
「赤い靴」(一九二一年 野口雨情 本居長世作曲)
山下公園にある『赤い靴はいてた女の子の像』(山本正道 作)は横浜市の「赤い靴を愛する市民の会」が寄付を募り一九七九年に完成した、とのことです。父方の家は関東大震災で被災後、横浜から東京に引っ越したそうですが、墓地が横浜にあり、筆者も墓参の際、中華街や山下公園に行きました。山下公園の西半分は米軍住宅で金網で囲われていました。祖母は、外人墓地を異人墓といっていました。横浜は外国への出発地でした。明治期には、外国人の養子になって海を渡る少女もいたでしょう。西洋文明、キリスト教、社会主義の理想への憧憬と幻滅。野口雨情は明治大正期日本の若々しい現状肯定と希望を歌詞に託していたのでしょう。□
〇『秋桜 コスモス』は、一九七七年、山口百恵のシングル曲。作詞・作曲:さだまさし。」この年、「気象衛星ひまわり」を打ち上げ、運用開始。『秋桜 コスモス』は、一九七七年、山口百恵のシングル曲。作詞・作曲:さだまさし。」この年、「気象衛星ひまわり」を打ち上げ、運用開始。長女が生まれ、給料も宇宙予算も毎年増え続けて、平和な時代でした。
淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜りに揺れている
此頃涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする□
〇暴虐の雲 光を覆い
敵の嵐は 荒れ狂う
怯まず進め 我等が友よ
敵の鉄鎖を 打ち砕け
自由の火柱 輝かしく
頭上高く 燃え立ちぬ
今や最後の 闘いに
勝利の旗は ひらめかん
起て同胞よ ゆけ闘いに
聖なる血に まみれよ
砦の上に 我等の世界
築き固めよ 勇ましく
(一八八〇年 ヴァツワフ・シフィエンチツキ「ワルシャワ労働歌 原題Warszawianka」日本語版一九二七年鹿地亘)
真っ赤な歌といえます。一九六九年、筆者大学卒業の年、安田講堂は陥落しました。この歌が毎日響いていました。気が付くと鼻歌で歌っていました。機動隊突入の日、湯島の裏通りで野次馬を殴る警官隊に遭遇し、出血した後頭部を押さえながらラーメン屋であんかけを食べて帰りました。□
〇美しき桜貝一つ 去り行ける君にささげん
この貝は去年の浜辺に われ一人ひろいし貝よ
ほのぼのとうす紅染むるは わが燃ゆるさみし血潮よ
はろばろとかよう香りは 君恋うる胸のさざなみ
あゝなれど我が想いははかなく うつし世のなぎさに果てぬ
(一九四九年 「さくら貝の歌」作詞:土屋花情、作曲:八洲秀章)□
〇アカシヤの 花の下で
あの娘が窃っと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
一九六四年 作詞:佐伯孝夫,作曲:渡久地政信。石原裕次郎主演映画。
高校三年生。担任の渡辺先生が、面接で趣味を聞いたので、五球スーパーを作っています、と答えたら、家のが壊れちゃてね、直してもらおうかな、という会話をした覚えがあります。□
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学生運動が盛り上がった一九七〇年代、ボクシング漫画の最終場面で、真っ白く燃え尽きる主人公、明日のジョー(1970-1973 高森朝雄/ ちばてつや)の伝説的画像は現在のインターネットにもよく登場します。日本経済のピークが終わろうとしていました。闘争の果ての死のイメージは終わりの暗示として当時の漫画のシーンによく出ています。
地球侵略軍マゾーンの女性型の指揮官ヌレームは捕虜尋問に引き出されると即時に自爆します(一九七七年 松本零士「宇宙海賊キャプテンハーロック」)。二度目の敗戦といわれた日本経済のその後の凋落を予言するような漫画が当時すでに読まれていた、といえます。
日本は外国からどう思われているか?日本人は毎日コスプレをしている、と思われている、という答えもかなり正解です。
日本人は、毎日、刀を磨いている、とか、毎日寿司を食べている、というのも正解。アメリカ人は、みんな、弱いやつを殴り倒す、という答えが正解であるのと同じくらい、正解でしょう。
どうせそんなものですから、外国にどう見えるかなど、気にする必要はありませんが、日本人論は日本で特に熱心に語られます(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本の社会福祉は世界一、という人もいる。日本人はそう言いませんが。平均寿命を見れば、そうも言えます。
日本はめずらしく大成功した社会主義国である、とも、いう人もいます。これも、多くの日本人はそう思っていませんが。そういえば、最近の記事では、社会民主主義的に成功したはずの北欧諸国が、移民問題で困っているという話も漏れてきます。日本としても無関心ではいられない。社会福祉は正義なのか?民主主義は正義なのか?
教育は正義であるべきなのか?右翼左翼問題が嫌いでよいのか?政治家やマスコミは良い人であれば良いのか?二十世紀は、勝てば官軍とか、弱者擁護とかモラルがあったらしいが、この世紀ではよく分からない、という人も多くなっています。
『星の王子さま』(Le Petit Prince 一九四三年)は、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの小説です。
人生の職を探している王子は、四番目の星でビジネスマンに会います。La quatrième planète celle du businessman. Cet homme était si occupé qu'il ne leva même pas la tête à l'arrivée du petit prince.ビジネスマンは忙しすぎて、王子が来ても頭を上げられませんでした。アメリカと同じで、日本でもビジネスマンが一番偉いことになっています。それでこそ先進国です。
日本という国民国家は、吉田松陰以来、日常を超えて、戦争を作り、生活を作っていった時代がありましたが、二百年を経て、また日常の中に薄れていくでしょう。それから世界はどうなっていくのでしょうか?戦争は歴史上の記述だけになってしまうのでしょうか?■
(103 日本という国民国家 end)
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一九六二年五月一二日、堀江謙一(一九三八年― )は単身で全長5.83mの小型ヨット(マーメイド号)を操船して兵庫県西宮を出港し、太平洋を横断航行して、同年八月一二日、アメリカのサンフランシスコに入港しました。航海日数は九四日でした(一九六二年 堀江健一「太平洋ひとりぼっち」、拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
当初、大阪入管事務所による「小型ヨットは当然ビザが必要になる」との違法性嫌疑が主なマスコミ報道でした。その後、サンフランシスコ市長が名誉市民として受け入れたとのニュースが報じられると、マスコミは一転して快挙を称えました。
一九七〇年二月一一日、鹿児島県之浦町の東京大学宇宙空間観測所からラムダ4S型ロケットが打ち上げられました。失敗を乗り越えて五度目の打ち上げは成功し、無事人工衛星を軌道に乗せました。日本はソ連、米国、フランスにつぎ、世界で四番目に人工衛星を誕生させた国となりました(拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
大隅半島内之浦の発射場には人工衛星「おおすみ」の記念碑が立っていますが、その隣にプロジェクトの推進者糸川英夫(一九一二年ー一九九九年)の像があります。
糸川教授は当時世間的に全く少数派の宇宙愛好家とマスコミを相手に「ロケットニュース(一九六二―)」を発行していました。筆者がその編集係をさせられていたころは、低調な月刊誌で新聞の宇宙関連記事をスクラップして一枚紙の裏表に印刷してリストに郵送するだけの細く長いミニコミでした。
小惑星表土を世界初で回収した探査機「はやぶさ」が着陸した小惑星の名は「ITOKAWAイトカワ」と命名されました(2003年)。
一九七〇年二月、内之浦から打ち上げられた日本最初の人工衛星が長楕円形の初軌道を回っているころ、筆者は通信衛星用大型ロケットを開発する宇宙開発事業団(NASDAのちJAXA)の初代社員として開発計画を作らされていました。麻布台にあった本社企画課の隣室は役員室で、理事長の留守にソファーで居眠りをしていて叱られました。理事長は、新幹線を開発した島英雄氏でした。大柄の老人で、日本最高の技術者として貫禄のある人でした。新幹線は美しさでも姫路城と並ぶ日本の技術遺産でしょう。
占領軍改革の成功と朝鮮戦争特需に支えられて急成長した戦後日本経済は一九七〇年代には世界最高(一九七九年 エズラ・ボーゲル「Japan as Number One: Lessons for America」)と称賛されますが、この時期、国内でも日本人論は最高潮に盛り上がります。
この時代、若輩だった筆者はNASAやヨーロッパ宇宙機関での会議で、生意気にも世界戦略などを語ったりしていましたが、欧米人たちが殊勝に聞いてくれているのでかえって心配になった覚えがあります(その当時、パリやヒューストンで集まった非公式国際委員会「International Lunar Exploration Working Group:筆者やNASA有志などが提唱」が半世紀を経て、アルテミス計画の種火になりました)。
日本人は忍耐強い、計画的である、用意周到に実行する、不言実行である、などなどと褒めながら、彼らも半分は本気でそう信じていたようです(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本国家論で語り始めた本章は、結局、現代に近づくほど、日本人論になってしまいそうです。吉田松陰からはじめて、深く掘っていこうとすると、明治維新以降の話だけではとても見極められない。この国民の根っこがどこまで続いているのか。GHQが教育委員会を利用して切った、とかいう人もいますが、全然切れていません。
たとえば、小学校の校庭にある二宮金次郎を捨てる。捨てても、小田原駅構内に移設されています。小学生の夢は金次郎であるべきなのか?この人(二宮 尊徳 一七八七年―一八五六年)は勤勉努力の結果、江戸時代の農村に組合(の原型)を作り銀行(の原型)を作り会社(の原型)を作って江戸時代農村の経済を活性化しました。日本資本主義の祖父(父は渋沢栄一)と呼ばれています(拙稿89章「資本主義の夢」)。この人の根っこがまた、この国民なのではないでしょうか?
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