天満の研修センターに行くのに、当初は大阪駅から環状線に乗って天満で降りていたのですが、大阪駅から降りてくる客がものすごく多く圧倒されるので、乗り場へなかなか辿り着けませんでした。
それで西梅田から東へ向かって歩いて行くことに・・・
1日目は国道1号線を南森町方面へ歩いていって、天神橋筋商店街を左に曲がって天満に行きました。
2日目は一つ北寄りの道を歩いてみました。
すると、大塩平八郎の墓がありました。
大塩平八郎は1800年当時、大坂東町奉行所の与力で、陽明学の学者でした。
日蓮宗・成王寺とあります。
格之助君の墓というのもありました。
格之助は平八郎の養子で、平八郎が37歳で与力の職を辞すと、その職を継ぎ、大塩の乱で戦死しています。
『救民・大塩の乱に殉じた人々の碑』というのもありました。
そういう人たちを祀るのも、なかなか出来ることではありません。
しかも大塩平八郎の墓より大きい。庶民第一ということでしょうか?
1832年の天保の大飢饉から大塩の乱につながっていきますが、平八郎は「飢饉は天災ではなく人災である」と言っています。
その後江戸時代が終わるまで、幕府に刃向かったということで、大塩たちの墓は造ることを許されませんでした。
それで西梅田から東へ向かって歩いて行くことに・・・
1日目は国道1号線を南森町方面へ歩いていって、天神橋筋商店街を左に曲がって天満に行きました。
2日目は一つ北寄りの道を歩いてみました。
すると、大塩平八郎の墓がありました。
大塩平八郎は1800年当時、大坂東町奉行所の与力で、陽明学の学者でした。
日蓮宗・成王寺とあります。
格之助君の墓というのもありました。
格之助は平八郎の養子で、平八郎が37歳で与力の職を辞すと、その職を継ぎ、大塩の乱で戦死しています。
『救民・大塩の乱に殉じた人々の碑』というのもありました。
そういう人たちを祀るのも、なかなか出来ることではありません。
しかも大塩平八郎の墓より大きい。庶民第一ということでしょうか?
1832年の天保の大飢饉から大塩の乱につながっていきますが、平八郎は「飢饉は天災ではなく人災である」と言っています。
その後江戸時代が終わるまで、幕府に刃向かったということで、大塩たちの墓は造ることを許されませんでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます