ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

太閤園の庭園

2012-01-11 05:00:00 | 大阪にて

制限時間があったのかどうか、それは知らないのですが、2時に近づいてデザートも出、2回目の獅子舞も回ってきたので、飲まない子女達の腰はもう浮き始めています。順番に出されたものがサッサと片付けられなくて、飲んでばかりいる私などを全く腰が重くて放っておいては、きっといつまでもいつまでも座っているだろうと思われたのかどうか、誰かが「お開きに・・・」と席を立ちだしたものですから堪りません。飲み代抜きで10000円の料理、私の出入りしている店なら飲み代入れても5回は通える勘定ですから、後ろ髪を惹かれる思いで席を立ちました。

             

ロビーまで戻ると、またまた獅子舞に鉢合わせ、今年は獅子舞に・・・獅子舞というより縁起物に縁があるのかも知れません。何せ今年は私の5順目の干支、辰年ですものね。辰=龍は十二支のうちで唯一想像上の動物ですが、私は正真正銘のヒト、想像上の人間ではありません。

             

私が獅子舞の人たちと喋ったり写真を撮ってる間に、他の人たちはサッサと太閤園の中にある庭園を歩いています。庭園には日本の古くからあるものが並べられているのですが、これは唯一欧調のもの、教会でしょうね。私は入っていませんが、中にも入れます。

                  

園内にあった道標、裏側に“安政四年 十一月造立”というような文字が読めますが、四と年の字の間が空き過ぎ、十と月の間の一の位置が狭すぎなので、素人の私にはよく判りません。写真にあるのは表側、方向が普通の道標のように右○× 左×○ではなく、指差しを描いているので文化の高さが窺がえます。向かって左方向が京橋・八軒屋、右は読みにくいですが片側は桜ノ宮だろうと思います。庭園の中なので位置関係が難しいのですが、もともとここに立っていたとは思えません。

             

何処から買って来たのか(拾って来たのかも)知りませんが、たくさんの置石や石仏が散りばめられています。この『鬼石』と書かれた石は一見後ろの大きな石だと思うのですが、立札には室町時代とも添え書きされていて、このような石に年代など必要なのでしょうか。室町時代に出来た石でありますまいに、だとすると鬼石はその前の妖怪の顔みたいな造形物なのかも知れません。造形物に自然物である『石』という名を付けるのは甚だ誤解を呼ぶと思うのですが、どうでしょう。

             

風神雷神と書かれた立札が二つの像に対して其々一つづつあります。どちらかが風神であり雷神なのでしょうが、俵屋宗達による風神雷神の屏風絵からすると、両方とも同じような布を持っているので、双方とも風神なのではないかと思うのです。つまりこの像は一対ではないのでは・・・という気がしてきます。両方とも室町時代の製作らしいので、時代と共に風・雷の神様のイメージが変わっていったのかも知れないのですがね。

             

半周ぐらい廻ったところに鳥居がありました。この先何か祠でもあるのかも知れませんが、社殿は無いでしょうね。そのようなものがこのような商業施設にあっては、無神論の私としても甚だ不敬だと思ってしまいます。順路としては左側に道を取ると思うので、初詣はお預けにして、左へと道をとります。

                  

園内至る所に燈籠があるのですが、今まで気が付きませんでした。灯篭にも形式があるらしいのです。これには四方形元禄燈籠と書かれていました。

                  

こちらには春日燈籠という名前が付いています。

             

この池の端にあるのが雪見燈籠だそうです。

             

『紹鷗の塔』とある室町時代だとする立札、武野紹鴎はなるほど室町時代の茶人ですが、何処に室町時代の作だとする証拠があるのでしょう。この写真では分からないでしょうが、像の左右にはびっしりと文字が刻まれています。この中に紹鴎の名が刻まれているのでしょうか、何分素人の私には読めませんが、刻まれた像は坊さんですし、実際室町時代の建立物であるとすれば、紹鴎自身が生きている時にこのような物を作るのか?という疑問があり、室町時代のものなら紹鴎のものではなく、紹鴎のものならもっと後の時代のものだと思うのです。

この太閤園には結婚式場として紹鴎の間というのがあり、そのための語呂合わせ、こじつけであるような気がしてなりません。

             

この庭園には大きな池があり、数か所に橋が架かっています。このような曲がりくねった欄干の無い橋は、酔った私に渡れるのかとお思いでしょうが、何とも危険はありませんでした。

                  

この橋には石橋などと名前が付いていますが、ただの石の橋ではないですか。石の橋が石橋ならば、立札にわざわざ書いて貰わなくても分かります。時代が桃山~江戸になっていて、作られた年代なのか、架かっていた年代なのかよく分かりません。作られた年代なら期間が長すぎて曖昧ですし、架かっていた年代なら江戸か明治かいつか取り外されたのでしょうし、その後どう保存されていたのかという疑問も出てきます。

             

もう出口近くになって山門でもないのに石造りの仁王像がありました。実に素朴な仁王像ですが、年代は江戸時代とあります。右の像の下部はツツジの木で覆われているので、実際には別の台座になっているのかも知れません。顔や形からして一対のものなのは間違いなさそうですが、高さが違います。

             

およそ30分、よい腹ごなしになりました。

庭園を巡ってきたらこの出口、もちろん中からの写真ではなく出てからのもの。太閤園は昔は大きなお寺だったのかも知れませんね。

             

門に向って右横は太閤園のエントランスになっていました。

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