今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「昭和八年の夏、初めて東京に防空演習があったとき、『関東防空演習を嗤ふ』と題して、社説でこれを嗤った新聞があったと聞いた。風のたよりで、うわさはどこからともなく聞えてきた。
むろん、東京の新聞ではない。東京の新聞なら、すぐ日本中の事件になって、ながく語り草になったはずである。ならないところをみると、地方新聞だと分る。軍人たちは立腹して、その新聞社の屋上すれすれに、飛行機をとばして威嚇したという。在郷軍人たちはその新聞の不買運動をおこしたという。
うそかまことか、そんなうわさだった。戦争が続くかぎり、うわさは絶えない。けれども、これは根のないうわさではないように思われた。とにかくそれを書いた大記者はいて、それを載せた新聞はあるように思われた。
桐生悠々がその人で、信濃毎日新聞がその新聞だと知ったのは、戦争がすんでからである。正宗白鳥は悠々の友の一人で、東京新聞にそれを書いた。
初めて関東防空演習が行なわれた昭和八年は、どういう年か。昭和六年には満州事変がおこっている。翌七年五月には五・一五事件がおこっている。翌八年三月、わが国は国際連盟を脱退している。
このとき悠々は、軍人を恐れざる政治家はいないかと書いている。中央の大新聞が、五・一五事件を論評することを避けたから、ひとり忌憚なく書いたのである。
昭和八年は、陸海軍人に阿諛するものがあって、直言するものがない時代である。ひとり言うものは槍玉にあげられる。防空演習を嗤うという一文は、こういうとき出たのである。」
「初の防空演習はこの年の八月九日から行なわれたというのに、驚くべし当時の大新聞はその報道をしなかった。ひとり悠々は八月十一日付けで論じた。
――防空演習は敵機が首都の上空に侵入したのを迎えうつ演習だという。上空に至るまでに、わが軍がそれを阻止できなかったとすれば、その戦さは負けである。侵入される前に撃退すること、それが防空である。燈火は消すに及ばない。昨今の航空機は、離陸した何時間で、どこの上空にあるかを正確に知ることができるから、電気がついていようといまいと同じである。暗ければかえって下界の狼狽は増す、云々(大意)。
ざっと右のような意見である。昭和八年の夏のある日、これを読んだ読者の驚きは察するに余りある。このたぐいのことは誰もかげでは言う。表では言わない。まして活字にはしない。すればうしろへ手が回る。」
「あの戦争中、終始軍部に抵抗した新聞人はこの人ひとりである。大新聞の大記者たちは抵抗どころか、迎合した。悠々を助けないで見殺しにした。」
「ジャーナリストというものは、読者の反響をあらかじめ心得て書くものである。防空演習を嗤えば、読者はどのくらい喜んで、軍部はどのくらい怒るか、読者は何もしてくれないが、軍部は直ちに報復するだろう。先方がこの手で攻めてくれば、当方はこの手で防ごうと、秘術をつくして、我に勝算があるとみて、はじめて書くものである。」
「悠々という人は、いったんの怒りにその身を忘れる人ではないかと、同じくいったんの怒りに我を忘れる私は思うのである。だから再び同情に耐えないのである。」
(山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)
「昭和八年の夏、初めて東京に防空演習があったとき、『関東防空演習を嗤ふ』と題して、社説でこれを嗤った新聞があったと聞いた。風のたよりで、うわさはどこからともなく聞えてきた。
むろん、東京の新聞ではない。東京の新聞なら、すぐ日本中の事件になって、ながく語り草になったはずである。ならないところをみると、地方新聞だと分る。軍人たちは立腹して、その新聞社の屋上すれすれに、飛行機をとばして威嚇したという。在郷軍人たちはその新聞の不買運動をおこしたという。
うそかまことか、そんなうわさだった。戦争が続くかぎり、うわさは絶えない。けれども、これは根のないうわさではないように思われた。とにかくそれを書いた大記者はいて、それを載せた新聞はあるように思われた。
桐生悠々がその人で、信濃毎日新聞がその新聞だと知ったのは、戦争がすんでからである。正宗白鳥は悠々の友の一人で、東京新聞にそれを書いた。
初めて関東防空演習が行なわれた昭和八年は、どういう年か。昭和六年には満州事変がおこっている。翌七年五月には五・一五事件がおこっている。翌八年三月、わが国は国際連盟を脱退している。
このとき悠々は、軍人を恐れざる政治家はいないかと書いている。中央の大新聞が、五・一五事件を論評することを避けたから、ひとり忌憚なく書いたのである。
昭和八年は、陸海軍人に阿諛するものがあって、直言するものがない時代である。ひとり言うものは槍玉にあげられる。防空演習を嗤うという一文は、こういうとき出たのである。」
「初の防空演習はこの年の八月九日から行なわれたというのに、驚くべし当時の大新聞はその報道をしなかった。ひとり悠々は八月十一日付けで論じた。
――防空演習は敵機が首都の上空に侵入したのを迎えうつ演習だという。上空に至るまでに、わが軍がそれを阻止できなかったとすれば、その戦さは負けである。侵入される前に撃退すること、それが防空である。燈火は消すに及ばない。昨今の航空機は、離陸した何時間で、どこの上空にあるかを正確に知ることができるから、電気がついていようといまいと同じである。暗ければかえって下界の狼狽は増す、云々(大意)。
ざっと右のような意見である。昭和八年の夏のある日、これを読んだ読者の驚きは察するに余りある。このたぐいのことは誰もかげでは言う。表では言わない。まして活字にはしない。すればうしろへ手が回る。」
「あの戦争中、終始軍部に抵抗した新聞人はこの人ひとりである。大新聞の大記者たちは抵抗どころか、迎合した。悠々を助けないで見殺しにした。」
「ジャーナリストというものは、読者の反響をあらかじめ心得て書くものである。防空演習を嗤えば、読者はどのくらい喜んで、軍部はどのくらい怒るか、読者は何もしてくれないが、軍部は直ちに報復するだろう。先方がこの手で攻めてくれば、当方はこの手で防ごうと、秘術をつくして、我に勝算があるとみて、はじめて書くものである。」
「悠々という人は、いったんの怒りにその身を忘れる人ではないかと、同じくいったんの怒りに我を忘れる私は思うのである。だから再び同情に耐えないのである。」
(山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)