「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

何も持たでぞあらまほしき 2005・04・10

2005-04-10 07:00:00 | Weblog
 今日は、吉田兼好「徒然草」から。カッコ内の現代語訳は中野孝次著「すらすら読める徒然草」(講談社)からの引用です。

 「身死して財残ることは、智者のせざるところなりよからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は心を止めけんとはかなしこちたく多かる、まして口惜し『我こそ得め』など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし後は誰にとこころざす物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき
 朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。」(第百四十段)


 (自分の死んだあとに財産が残るようなことは、智慧ある者はしないものだ。死後、この人はまあつまらぬ物を蓄えておいたものだわかるのもみっともないし、かといって立派な物なら、きっとこれに執着して死んでいったことだろうと思われて、これまたはかない。遺物がどっさりとあるのは、何にも増して感心しない。

 『自分こそ遺産をもらう資格がある』などと言い張る連中が現れて、遺産を争っているのなど、まことに見悪い。これは誰それにやろうと決めているものがあるならば、生前に形見分けしておくのがいいのだ。

 そういうわけである。だから物は、朝夕なくてはならぬ物だけがあればいい。そのほかの余計な物は、何も持たずにいるのこそ望ましい姿だよ。)


 シンプル・ライフの勧めです。物に煩わされぬ生活、物にとらわれぬ精神の自由を尊ぶことは大事ですが、実行はなかなか難しいものです。ひとたび贅沢の味、快適な暮らしを知ったら、それから抜け出せなくなりがちです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・04・09

2005-04-09 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「株というものは、儲かるときもあれば、損するときもある。儲けるつもりで買って、損したからといって、当てがはずれただけである。世間には生憎ということがあって、これはその生憎である。どうしてくれると店につめよるのはお門ちがいである。」

 「お察しの通り私は株屋をばかにしている。近ごろ世間はばかにしないようだが、間違っている。」

 「欲ばって損したものを、欲ばらないものは笑う資格がある。笑って、自分の内部にある欲ばり根性を封じるのである。それは、すんでのことで踊りでて同じことをしようとした根性である。」

  (山本夏彦著「二流の愉しみ」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

核家族 2005・04・08

2005-04-08 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、新潮社刊「ひとことで言う 山本夏彦箴言集」から、次の「ひとこと」です。

 「核家族になったせいである」

 山本夏彦さん(1915-2002)のコラムの中で、この「ひとこと」が、どのような文脈で用いられたものであるかを、本書は「コラムの抜粋」の形で次のように紹介しています。詳しくは、原典である山本夏彦著「美しければすべてよし」を見る他ないのですが、あいにく手許に見つかりません。

 「今最もスキンシップを必要としているのは老人である。昔は五十六十でたいてい死んだが、今は七十八十でも死なない。そんなになが生きして無事な人は希で、次第に恍惚に近くなる。わが子の間をたらい回しにされ、結局多く病院で死ぬ。

 なぜ一緒に寝てやらないのかと、昔の人は怪しむ。同じ座敷で寝てやれば老人は安堵する。深夜家のなかをさまよい歩くことはなくなる。老人は幼な子に返って、ひとり寝るのがこわいのである。本当は同じ布団に寝て、背をなでさすってやるのが何よりなのである。

 血を分けた親子だものついこの間までたいていの子はそれをしたのに、今しないのは核家族になったせいである。核家族にはそもそも老人がいない。したがって死はもとより身近に老人を見ることがない。見ないからただ恐ろしい。

 老人はすでに半ば死んだ人である。眠っているのを死んだのではないかと、寝息をうかがうことがあるくらいである。生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのに、こんなに死ににくくなった時代はない。」

  (山本夏彦著「美しければすべてよし」所収の「老人の日がまた来る」という題のコラムです。)


 山本夏彦さんが、昭和56年(1981年)ご自身が66歳の頃に書かれた文章です。二十数年後の今日でも全く古さを感じさせません。20年後に読んでもきっとそうでしょう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会の教科書 2005・04・07

2005-04-07 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、新潮社刊「ひとことで言う 山本夏彦箴言集」から次の「ひとこと」です。

 「世界ひろしといえども、自国を悪く書く教科書はない

 山本夏彦さん(1915-2002)のコラムの中で、この「ひとこと」が、どのような文脈で用いられたものであるかを、本書は「コラムの抜粋」の形で次のように紹介しています。詳しくは山本夏彦著「美しければすべてよし」を見る他ないのですが、あいにく手許に見つかりません。

 「アメリカの社会の教科書には、広島長崎の原爆は早く戦争を終らせるために投下した、朝鮮戦争は共産主義国がしかけた、と書いてあるという。同じことをソ連の教科書には、原爆はアメリカがソ連を威嚇するために落した、朝鮮戦争はむろん韓国がしかけた、韓国はアメリカの傀儡だと書いてあるという。

 八年前(筆者注:昭和57年3月25日号「週刊新潮」掲載の「互いに鷺を鴉という」と題した〈夏彦写真コラム〉が書かれた時点から8年前)北朝鮮は三十八度線の地下を南へ向けて三.五キロも掘って、いつでも攻めこめるようにした。韓国はくやしがって世界に訴えたが、北は南が自分でトンネルを掘って北が掘ったと言いふらしていると逆襲した。もし南北朝鮮がこれを教科書に書くとすれば、それぞれサギをカラスと書くだろう。

 以上世界ひろしといえども、自国を悪く書く教科書はないそれが健康というもので、故に健康というものはイヤなものであるそれなのにひとりわが国の教科書だけは、日清日露の戦役まで侵略戦争だと書いて良心的だと思い思わせている。」

  (山本夏彦著「美しければすべてよし」所収の「互に鷺を鴉という」と題するコラムです。)
  

 ロシアでは、今でも東西冷戦時代、旧ソ連時代の教科書と同じ内容のものが使われているのでしょうか。ナショナリズムに対抗するに、ナショナリズムをもってしてはダメで、いきり立つものと争うのは無益であり、柳に風と受けながすに限ります。

 今、隣国で「反日」デモが起っています。若い人々が運動の中心になっているようですが、大日本帝国の植民地時代、旧日本軍による占領時代を体験したことがない世代である筈の彼らの活動の動機は、永年の教育の成果である「帝国主義『日本』復活に対する危惧の念」がきっかけであるとしても、より多くは国内の政治・経済の現状に対する不満に根ざすものではないかと筆者は疑っています。天安門事件の経験を教訓に「敵は本能寺にあり」です。

 一方、時の政権が、国内の政治・経済に深刻な問題状況を抱えているときに、国外に仮想敵国を求め、不満の矛先を他に転じようとするのは、古今東西いつの時代においても、行われてきたことです。漠然とした「テロリスト集団」では「仮想敵国」になりにくい。ここは「日帝」であり、「米帝」であり、「中国の覇権主義」であり、「北朝鮮のテポドン・ノドン」でなければならないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・04・06

2005-04-06 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、新潮社刊「ひとことで言う 山本夏彦箴言集」から次の二つの「ひとこと」です。

その1「戦争には勝敗はあるが、正邪はない

 山本夏彦さん(1915-2002)のコラムの中で、この「ひとこと」が、どのような文脈で用いられたものであるかを、本書は「コラムの抜粋」の形で次のように紹介しています。詳しくは、原典である山本夏彦著「その時がきた」を見る他ないのですが、あいにく手許に見つかりません。

 「戦争に勝敗はあるが、正邪はない。戦勝国と敗戦国はあるが、その間に正義がわりこむ余地はない
 古往今来勝者は敗者を存分にした。殺すか奴隷にした。敗けた国は臥薪嘗胆して今度は反対に勝つと、同じ復讎を復讎した。こうして何千年来戦争はあった。これからもある。
 清盛は頼朝を助けたばっかりに、あとで殺しておけばよかったとくやしがったが及ばなかった。頼朝は義仲を殺した。義経を殺した。
 戦さに始めて正義をもちこんだのはアメリカ人であるアメリカ人は報復を報復でないように見せたがった東京裁判なんて前代未聞の偽善である。」

  (山本夏彦著「その時がきた」所収の「昔は喧嘩は両成敗だった」と題するコラムです。)


その2「発端を打消すことはできない」

 この「ひとこと」についての「コラムの抜粋」は次のとおりです。

 「大東亜戦争は侵略戦争でないというのはちとムリである。せまい日本にゃ住みあきたという歌が昔からある。日本人は広い海外に進出したいとかねがね願っていた。はじめ北米南米に移住したが、排日で移民はできなくなったから満州へとめざすようになった。五族協和というのは美名で、支配下におきたかったのである。
 めでたく満州国建国にこぎつけたが、建国一周年のニュース映画では、満州国皇帝溥儀の面前で、まず大日本帝国万歳次に天皇陛下万歳、最後に満州帝国万歳をとなえていた。
 そのあとハルノートをつきつけられてやむなく勝算おぼつかない日米戦に突入した。それによって欧米の旧植民地が皆々独立したのは日本のおかげだが、その発端は侵略である。あれはうそから出たまことみたいな独立で、うそから出ようと独立は独立だから感謝している国はあろうが、だからといって発端を打消すことはできない。」

  (山本夏彦著「その時がきた」所収の「ひとくち話 戦争まで」と題するコラムです。)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・04・05

2005-04-05 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、良寛禅師が、越後の国与板の町年寄で酒造業を営む山田杜皐(やまだとこう)という人にあてた手紙の文面です。文政11年(1828年)旧暦11月12日に、今の新潟県三条市、栄町を中心に起った大地震の後、大きい被害が出た与板に住む友人にあてた慰めの手紙です。

 「地しんは信に大変に候 野僧草庵ハ何事なく 親るい中 死人もなく めで度存候
  
   うちつけにしなばしなずてながらへて
       かゝるうきめをみるがはびしさ

  しかし 災難に逢時節には 災難に逢がよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候 
  是ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候
    かしこ」


 文中の歌は、地震で出し抜けに死んでしまえばよかったのに、死なずになまじ生き永らえたため、このように辛い有様を見ねばならぬ、悲しいことだ、の意。
 その歌の後の文章にはインパクトがあります。

 災難というものはいつ人に降り掛かってくるかしれない、が、災難に見舞われぬ人はなく、あなたとてその例外ではないだから災難に襲われたときの心得をお教えしておくが、それは、なまじ逃れようとじたばたしないで、真正面から災難を受け取るのがよい、ということにつきる逃れようとあがいたりしては、災難は大きくなるばかりだ、というのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・04・04

2005-04-04 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」のキーワードは、花。


  「花ニ逢フコト、アト幾回(いくたび)ゾ」 (蘇東坡)


  「吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」

  「吉野山 さくらが枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな」 (西行)


  「色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける」 (小野小町)


  「散らであれかし桜花 散れかし口と花心」 (閑吟集)


  「命二ツ 中に生たる 櫻哉」

  「花ざかり 山は日ごろの あさぼらけ」

  「さまゞゝの事 おもひ出す 櫻かな」 (芭蕉)


  「菜の花や 月は東に 日は西に」

  「ゆき暮て 雨もる宿や いとざくら」

  「みよし野ゝ ちか道寒し 初ざくら」

  「うたゝ寝の さむれば春の 日くれたり」 (蕪村)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨是今非 2005・04・03

2005-04-03 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「世の中には笑われておぼえることが多いのである。」

 「教えるということは才能であるまたは技術であるその才能のないものが教えると、教わるものは迷惑する。」

 「非は常に他人にあって、みじんも自分になければ、経験が経験にならない。」

  (山本夏彦著「毒言独語」所収)


 「いきり立つものと争うのは無益である。」

  (山本夏彦著「変痴気論」所収)


 「小学生のホームルームと、大学生のディスカッション(討論会)との間に、差別があろうかそこにあるのは、八百長だけではないか弁論討議のたねは、みんな今朝の新聞に出ていた彼らはこれを思想の交換、または言論の自由と称している私は『ぱくぱく』と称している。」

 「人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。」

  (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)


 「私には耳から聞いた言葉を、口から吐く悪いくせがある。だからそれを自ら禁じようとして、そのせいか、自ら禁じようとしない人を見るとかッとなる。
  この世は自分で考える一握りの人と、その力がなく、すべて他人の考えを自分の考えだと勘違いする大ぜいの人とから成っている。」

  (山本夏彦著「変痴気論」所収)


 「何事によらず、この目下大流行のもの(筆者注:民主主義の思潮のこと)ならうろんである。はやりものはすたりものである。」


 「昨是今非という昨日までよかったことが、今日からは悪いことになるというほどのことである昔から世間によくあることだと、先生は生徒に教えればいいと私は思うが、先生は思わない。」

  (山本夏彦著「二流の愉しみ」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向田邦子 2005・04・02

2005-04-02 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「この人(向田邦子)のコラムはすでに一度読んだものばかりである。それなのに再び単行本で読んで初めて読む心地がする。前に気がつかなかったことをあらたに発見する。だから一両年たったらもう一度読みたい。そのときも全く新しく読む気がするだろう。こうしてみると文章の才というものは天賦のものらしい。向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である。この人のコラムはこの週刊誌の宝である。」

  (山本夏彦著「恋に似たもの」所収)

 向田邦子さんを誉めた山本夏彦さんのこの文章は、元々「諸君!」昭和55年11月号に掲載されたものであると、山本さんご自身が別のコラムの中に書いておられます。文中で言われている週刊誌というのが「週刊文春」であることは、当時同誌を購読していた筆者も知っていました。
 向田邦子さんが不慮の死をとげる十ヵ月余り前の誉め言葉で、「突然あらわれてほとんど名人である。彼女のコラムはこの週刊誌の宝である」と山本さんには珍しくほとんど手放しで誉めておられます。余程気に入っておられたのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜山 2005・04・01

2005-04-01 07:00:00 | Weblog
 どなたの作かは存じませんが、株や相場の世界で「金言」と言われている言葉のひとつだそうです。
 生い立ちはともかくとして、フレーズそのものを昔から気に入っています。 

  「人の往く 裏に径あり 花の山


 他人と群れ、他と同じ道を行きたがる者が個性を持ったためしはありません。

 わが道を行く、自分がこれでいいと納得出来ればよく、人知らずして慍みずではありますが、自分のことを

 知ってくださっている、評価してくださっている人がいるということは心休まる有り難いことです。

 勤め人をやめて一番よかったことは、「気のすすまぬことはやらぬだけ」を貫くことが出来ることです。


  「高臥 閑行 自在の身」。
 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする