「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・02・18

2005-02-18 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、作家の井伏鱒二 さん(1898-1993)の「厄除け詩集」の中にあるという次の詩です。


  コノサカヅキヲ受ケテクレ

  ドウゾナミナミツガシテオクレ

  ハナニアラシノタトヘモアルゾ

  「サヨナラ」ダケガ人生ダ



 昔から何度か目にしているこの詩が、中国・唐代の詩人 于武陵 の「 勧酒 」と題する五言絶句の翻訳(戯訳)であることを思い出させてくれたのは、詩人高橋順子さんの日本経済新聞紙上のコラムでした。


 横書きには適しませんが、原詩 と 読み下し文 は、以下の通りです。

 勧酒 ( さけをすすむ )     于武陵 ( うぶりょう )

  勧君 金屈巵      君に勧める 金屈巵(きんくっし).
  満酌 不須辞     満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず.
  花発 多風雨     花発(ひら)けば風雨多く.
  人生 足別離     人生 別離足(おお)し



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死期は序を待たず 2005・02・17

2005-02-17 07:00:00 | Weblog

   今日の「お気に入り」は吉田兼好「徒然草」第百五十五段から。


   「生・老・病・死の移り来ること、また、これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり、死期は序を待たず。

   死は前よりしも来らず、かねてうしろに迫れり。人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、

   覚えずして来る。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。」


  作家の中野孝次さんの現代語訳はこうです。


   「だが、人間の生れる、老いる、病気にかかる、死ぬこと、すなわち生老病死の移り変るさまの速いことといったら、

   これは自然の季の変化どころでない、もっともっと迅速だ。なぜなら、四季にはなんといっても春夏秋冬というきまった

   順序がある。変化は速いといってもその順序に従って行われる。が、人間の場合、死はそんな順序などにかまわずいきなり

   やってくる。しかも前からやってくるとばかりは限らない。後からだってやってくる。人はみな自分もいずれは必ず死ぬ、

   人間は死ぬべき存在だということは知っている。が、大抵は誰も、自分の死ぬのは今日明日のことではないと思いこんでいる。

   死がそんなに急にやってくるとは思っていないものだ。ところが死は、そんな人の思惑をこえて、いきなりそこにやってくる。

   その死のやってくることの急なことはちょうど、沖の干潟はまだはるか向うまで水につらなっていないから、潮のくるのは

   まだまだ先のことだなと思っていると、沖の干潟は変わらないのに、なんと自分の背後の磯のあたり、はやもうみるみる潮が

   満ちてきているようなものだ。」
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日暮れ道遠し 2005・02・16

2005-02-16 07:00:00 | Weblog



   今日の「お気に入り」は吉田兼好「徒然草」第百十二段から。


   「人間の儀式、いずれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、

   心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生(しょう)既に

   蹉跎(さだ)たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心を得ざらん人は、物狂ひとも言へ、

   うつゝなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。」


   作家の中野孝次さんの現代語訳はこうです。


  「人間界の儀式は、どれをとってもしないですませられるようなものはない。世間の習慣、価値観、決り事を無視できないで、

  いちいちそれを守ろうとしたら、やらずにすませられることなど何一つない。が、万事そんなふうにしていたら、こうあれかし

  という願い事も多くなる。したくないこともせねばならず、身も苦しくなる。心の安らかな折とてもない。そして、そんなふうに

  生きていたら、一生はつまらぬ小さな事どもにかまけ、妨げられているうちに、空しく暮れてしまうのだ。

   だが、見よ、はや日は暮れかけたのに道は遠い。わが人生は、がたがたし、すでにケリはつき、これだけのものとわかった。

  今こそ世間とのもろもろの縁を断ち切るべき時だ。もはや約束も守るまい。礼儀も考えまい。すべての義理を欠いて、己れの心

  一つに生きよう。この自分の決意を理解できない人は、あいつは気が狂ったとでも何とでも言うがいい。正気ではないのだ、

  人情というものがないのだとでも、何とでもそしるがいい。非難されようが自分は気にしない。誉められても耳に入れまい。」



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存命の喜び 2005・02・15

2005-02-15 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、吉田兼好「徒然草」第九十三段から。

 「『されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、

  いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つことなし。生けるあいだ生を楽し

  まずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざ

  るにはあらず、死の近きことを忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし』

  と言ふに、人、いよいよ嘲る。」


 作家の中野孝次さんの現代語訳は概ねこうです。

 「『だからだ、人がもし本当に死を憎むのなら、生きてある今を愛せよ、というのだ。いのちあって今を生きているこの

  喜び、これをこそ毎日楽しまないでどうする。ところが愚かな者は、この最高の喜びを忘れて、骨折ってわざわざそれ

  以外の楽しみを求める。生きてあるというこの自分に備わった財(たから)を忘れて、危険をおかしてわざわざ自分の

  外にある財を求めるが、そんなことをして欲望の満足する時のあるはずがあろうか。生きているあいだ生を楽しまない

  で、もう死ぬという時になって死を恐れる。こんなバカらしい話があろうか。人がみな生を楽しまないのは、死を恐れ

  ないからだ。いや、死を恐れないのでなく、死が近いことを忘れ、自分はそうすぐには死なぬと思っているからだ。

  しかしまた世の中にはひょっとして、自分は生死というような境界は超越しているという者もあるかもしれない。その

  人は本当の悟りを得ている人と言うべきだ』と言ったところ、人々はますます嘲った。」



       
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一事を励むべし 2005・02・14

2005-02-14 07:00:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、吉田兼好「徒然草」第百八十八段の一節です。中野孝次著「すらすら読める徒然草」からの引用です。


  「されば、一生のうち、むねとあらまほしからんことのうちに、いづれかまさるとよく思ひくらべて、第一のことを案じ定めて、

  そのほかは思ひ捨てて、一事を励むべし。一日のうち、一時のうちにも、数多のことの来らんなかに、少しも益のまさらんこと

  を営みて、そのほかをばうちすてて、大事を急ぐべきなり。いづかたをもすてじと心にとりもちては、一事も成るべからず。」


  中野孝次さんの現代語訳はこうです。


  「だから、一生のうちで、主にこれをやってみたいと思うことがいくつかあったら、そのうちどれが大事かをよくよく考え較べて

  みて、これが第一と思うものを決めて、ほかのことはすべて思い捨てて、その一事にはげまねばならない。一日のうち、一時の

  うちにも、さまざまのことが起るだろうが、その中で少しでも価値のあることを行い、それ以外のことは捨ててしまい、自分の

  大事を為さねばならない。どれをも捨てまいと欲を出したのでは、一事だに成就しないであろう。」


 「『閑』のある生き方」の中で、中野孝次さんは、同じところをこんな風にも訳しておられます。


  「だから、一生かけてしようと思う事で、何よりもこんなことをしたいものだということがいくつもあったら、その中でどれが

  自分は本当にしたいのかとそれらをよくよく較べ、検討した上で、これが何より第一だというものをしっかり思い定めよ。そして

  ひとたびそうと決めたら、そのほかのことは全部捨てて、その一事に励むがいい。一日が経つうち、いや一時が経つうちにも、

  いろんなことが君に襲いかかってくることだろうが、それらの中で少しでも自分の思い定めたことに役立つものを選んで行い、

  そのほかは全部捨てて、とにかく君が大事とすることを急ぐべきだ。あれもこれも、どれも捨てまいと執着していたのでは、

  一つの事でも為しとげるのはおぼつかないぞ。」


  「徒然草」の同じ段に次のような一節もあります。1月4日付けのBLOGの中に記した文章です。中野孝次さんの現代語訳と

  ともに再録します。


  「一事を必ずなさんと思はば、他のことの破るるをも傷むべからず。人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の

  大事なるべからず。」


  「一事を成し遂げようと真に思ったら、それ以外のことが全部瓦解しても苦にすべきでない。人に嘲られても恥ずべきではない。

  他のすべてと引き換えでなければ、一つの大事は成らないのだ。」


   二十代、三十代の若い人たちにこそ是非読んで貰いたい一節です。

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2005・02・13

2005-02-13 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、吉田兼好「徒然草」「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」で始まる第百三十七段の一節です。中野孝次(1925-2004)著「すらすら読める徒然草」からの引用です。

 「若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかには思ひなんや。」

 中野孝次さんの現代語訳はこうです。

 「若いと言わず、強健と言わず、思いがけずやってくるのが死期である。今日までこうやって死を逃れてきたのは、思いもよらぬ幸運、不思議と言っていい。そのことを思えば、自分は当分死なないだろうなどと、のほほんと構えていていいわけがないのである。」
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2005・02・12

2005-02-12 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、作家の中野孝次さんの著書にある文章です。

 「……書物というものは、それがかって書かれた時代にどんな読まれ方をされたにしろ、後世においてまでそのとおりの読み方がなされるとは限らない。一冊の著作のうち死ぬべき部分は死に、生きるべき部分は新しい光によって照らしだされ、書物は時代とともに違った生命を持って生きつづけるものだ、……」

 「古典文学の読み方」について、中野孝次さんは「過去は今を生きる生者のためにこそある今が過去のためにあるのではない。」、「『かってそれがあったがままに正確に認識すること』ではなく、今を生きる人間にとってそれが何を意味するかを問うことが第一義なのだ」という考え方を永年実践されてきました。「断章取義」の方法で書かれた中野孝次さんの著作は、古文、漢文を読む素養に乏しい戦後生まれの私が、その昔の高校時代に親しんだ「古典」を再読するきっかけになり、また「人生の午後」を生きる上での行動指針となりました。
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2005・02・11

2005-02-11 07:00:00 | Weblog
 「新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出る。」

 山本夏彦さん(1915-2002)の「本が出すぎる」というタイトルが付いたコラムの一節です。

 同じコラムの中で、
 「人間の知恵は諸子百家に、ギリシャローマに尽きている。けれども同じことでも同時代人が同時代を例にとって書いたものを読むのはまた格別である。だから本は出てもいい。読みたければ読むがいい」と言いつつ、「この現状は狂気である。足の踏み場もない。これでは版元も取次も近くつぶれる」と断じておられます。
 
 「新しいものはすぐ腐る奇をてらってもじきあきられる)」ということもあり、値段の高い新刊書を慌てて買い求めることがめっきり少なくなりました。じっくり読むに値する程の書物であるならば、文庫本になって出てきた後で読んでも遅くはないような気がします。

 戦後生まれには取り付きにくい「古典」を現代に甦らせてくれる古い世代の作家が何人かおられるのは有り難いことです。最近は、その方々の助けを借りて、専ら「古典」に親しんでいます。 
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2005・02・10

2005-02-10 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム「自分のなかなる他人」の一節です。「ああ玉杯に花うけて」という一高の寮歌で始まる文章の中にあります。

「友の悲運にかけつける足は我にもあらず勇むのである、わが喜びに友は一度は喜ぶが、再三再四かさなると面白くなくなる。
 友の不運はひそかに嬉しいものだというと、滅相もないと怒る友に似たものがある。だから誰も言わない、栄華の巷低く見て、ウソつけと言うものもない。
 故に友の幸運が何度重なっても喜んでくれる友こそ友である。俗に金銭の貸借は友情を失うからしないという友があるが、それは貸さないということを飾って言ったのである。
 真の友なら貸す機会が与えられたことを喜び、貸したことを忘れる。形成逆転してこんどは、貸し手が借り手に回ると、以前の借り手は喜んで貸して貸したことを忘れる。
 かくの如き友は求めて得がたいから、にせの友を本ものの友だと思って、それも出来るだけ大勢にかこまれて死にたいのである。花環ぐらいはくれるだろう。この世にそれ以外の友があろうか。
 誰の心のなかにも他人がいる。私はそれを自分のなかなる他人と呼んでいる。どんな人にもいる。老若を問わず。第三者を見るときは、その他人の目で見て辛辣なことをいう。それなのに自分のことになると皆目見えなくなる。それが健康というもので、健康というものはイヤなものである。」

 長い引用になりましたが、山本夏彦さんのコラムの中で、気にいっているもののひとつです。
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やきもち 2005・02・09

2005-02-09 07:00:00 | Weblog

   「この世は嫉妬で動いている」

   「やきもち」というタイトルが付いた山本夏彦さん(1915-2002)のコラムの冒頭です。


   「この世は嫉妬で動いていると、少年のころから私はみていた。そしてその嫉妬の念が薄弱なのが

   自分の欠点だと思っていた。

    尋常な人なら嫉妬するところを私はしないから、相手もしないだろうと、うかと思ってそうでないこと、

   動機は嫉妬だと知って驚くことがある。もうなれっこになった。」


   山本老人は、「安部譲二」と「中村武志」のお二人を例に引いているのですが、とくに「中村武志」に

  文壇の長老「内田百閒」がやきもちを焼いたという解説は秀逸です。


  「中村武志は初対面から三年経て訪ねて、以後百閒が死ぬまで通って犬馬の労をとったが、あまりとったので

  犬馬だと思われてしまったようだ。中村が同業者としてあらわれたのでさえ面白くないのに(目白三平とは何

  たるネーミング!)たちまちベストセラーになり大金が舞いこんだのがやきもちがやけてたまらない。」


   中村が書いた最初の自費出版の本に序文をと請われ、百閒老がいやいや書いた文章が、大方の「序文」と異なり、

  「よく見ると悪口である」こと、百閒老がやきもちを焼いていることを読み取ります。


  「年は親子ほど違う。作風も全く違う。百閒が文章道の天才だとすれば、武志は凡庸陳腐だ。嫉妬の対象でさえない

  のに金は魔物である。」と山本老人は見て取りますが、序でに中村武志の作品を切り捨てることも忘れません。
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