「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

HOW COME プルクワ 2007・10・24

2007-10-24 08:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 戦後は子供が何ごとにも『なぜ』と問うのをいいことだと喜ぶ大人がふえた。したがって、

  ホーム・ルームでしきりに『なぜ』を連発する子供がふえた。

  『なぜおじぎをしなければいけないのだろう、尊敬してもいない人に』『なぜ廊下を走るな

  と言うのだろう、急ぐときもあるのに』『なぜ作文を書かせるのだろう、口で言えばすむこ

  とを』『なぜ掃除なんかさせるのだろう、専門の業者にやらせればいいのに』

   なぜと問われても説明できることとできないことがある。なぜ挨拶をしなければならないか

  と問われて、イギリス人を見よ、フランス人を見よ、世界ひろしといえども挨拶しない国民

  はないと、もし答えることができても、答えてはいけないのである。

   子供をしつけるには理屈を言ってはならない。挨拶せよときびしく命じ、もし挨拶しなけれ

  ば罰するがいい、と私が言っても信じないなら、ヘーゲルが言っている。一度理由を言うと、

  そのつど子供は理由を求め、理由が得られないと承知しなくなるからである。

   理由なんかそのつど言えるものではない。この世の中のことは九割以上旧慣によって行われ

  ている。故に『作文の時間だ、書け』と教師は命じればいいのである。なぜ書かなければな

  らないか問うものはなし、もしあっても答えるには及ばないのである。先生が子供たちに意

  見を言わせ、それをディスカッションと称して聞くふりをするのは悪い冗談である。意見と

  いうものは、ひと通りの経験と常識と才能の上に生じるもので、それらがほとんどない子供

  には生じない。新入社員にも生じない。そもそも作文が書きたくないから思いついていう言

  葉は意見ではない。子供は子供なりに身勝手なことを思いつく。それは自分たちに好都合な

  ことだから全員の賛成を得て、多数決だと言いはることがある。こうなってから論破するこ

  とは教師にも困難である。

   未熟な子供が発するなぜは、そもそもなぜではない。これらすべてを承知した上で、なお

  釈然としないなぜが本当のなぜである。早くなぜを連発した子供は、大人になって本当の

  なぜを発することがない。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)




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