今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん
( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公
文庫 )の中から「 人垣 」と題した小文 の
一節 。家電の冷蔵庫などなかった 、われらの
父祖が暮らした 、ほんの百年前の時代 の お話 。
引用はじめ 。
「 暫く牛肉のすき焼きをたべない 。鍋の手
順を忘れた様である 。思ひ出すと食べたい 。
しかし明け暮れすき焼の事を考へてゐるわ
けではない 。鼻の先でいいにほひをさせら
れては困るが 、辺りにその気配さへなけれ
ば食はなくてもよろしい 。学生時分の事を
思ひ出して見るに 、人人は近年程牛肉を食
つてゐなかつた様である 。
豚の肉が一般の台所へ入る様になつたのは
もつと遅い 。漱石先生の学生時分には牛肉
が一斤四銭か五銭とかであつたと云ふ話を
聞いた様に思ふ 。そんな古い事は勿論知ら
ないが 、私共が学校を出た当時 豚は極上の
ロースが四十銭位であつた 。二三年前まで
の馬肉の値段よりもまだ安かつた 。
豚は牛肉よりきたならしい様に思はれた 。
お膳のわきで経木や竹の皮の包みを開いて
豚肉の生の肉を見るのは 余りいい気持でな
かった 。学生達に取つては 豚鍋よりもカツ
レツの方が先にお馴染になつた様である 。
当時は ポークカツレツ と云つた 。別に英
語を気取つたわけではなく 、場末の一品
料理店の書出しにさう書いてあつた 。と
んカツと云ひ出したのは極く近年であつて
甚だ下品な音(おん) である 。
学生の時分には方方に一品料理の西洋料
理屋があつてカツレツ 、ビフテキ 、オム
レツ 、コロツケなど懐の小遣の都合に従
つて簡単に食べる事が出来た 。ところが
警保局の丸山保安課長と云つたと記憶する
が 、その人の英断で以て浅草六区の私娼
窟を取り潰した為に 、頸に白粉を塗った
女が市中に散らかり 、それが方方の一品
料理屋へ這入り込んで後の女給の先駆者
の様な役目をし出した 。ナプキン紙でビ
フテキのナイフを拭いたり 、カツレツを
細かく切つてくれたり 、うるさい事にな
つて 、学生が ただ下宿のお膳に不足して
ゐる滋養分を摂取する為には手軽に立ち
寄ると云ふわけに行かなくなつた 。
牛肉のすき焼の方はもとの侭で 、行き
にくいと云ふ事はない 。しかし 一寸腰
掛けで一品料理を食べるのと違ってお金
がかかる 。それはお代りお代りでいくら
でも食べるから さう云ふ事になる 。安上
りのつもりでクラス会を牛肉屋でやると 、
きつと足が出て幹事が困るのであつた 。
大正十二年の大地震の後は諸事軽便にな
つてすき焼も腰掛けで食べられる様にな
つた 。」
引用おわり 。
われわれが目にする 現代の風俗は 、大概 大正時代
には 、その萌芽があつたようです 。ビフテキ なんて
言葉 、すっかり 聞かなくなりましたね 。
カツレツ は cutlet 、ビフテキ は beefsteak 。
幼い頃 、牛肉は生焼けでもいいが 、豚肉は中まで焼き
色がつかないと 、食べちゃ駄目と言われたものです 。
百閒先生の随筆の中には 、牛カツ 、豚カツ について 、
こんな文章もあります 。牛カツにせよ 豚カツにせよ 今
日の隆盛をみるまで 高々 百年 、歴史は浅い 。
「 カツレツと云ふのはビーフカツレツで 、
当今の様なポークカツレツ 、豚(とん)
カツではない 。大正初め頃の話で 、豚
肉が一般の食用になつたのはその後の事
である 。
初めの頃 、御用聞きが来て註文を受け 、
豚肉を誂へられると 、後で経木にくる
んだ豚を届けて来る 。牛肉は従来通り
竹の皮である 。白つぽい経木の包みを
お勝手の板の間へ置くと 、ちょいと 、
その辺へ 、少し離して置いて行つてく
れと頼む 。そこいらの外の物に触れれ
ば 、きたない様な気がした 。豚と云ふ
物の不潔感 、けがれの聯想が 、どうせ
すぐ後で口にするにしても 、何となく
拭ひ切れなかつた様である 。
そこへ行くと 、牛肉は清潔である 、
などと云ふ理窟はない 。小学校の友達
の近所の大工が普請の屋根から落ちて死
んだ 。前の晩に牛肉を食つてゐたので 、
そのけがれの為だと云ふ 。」