「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

おさけははたちになつてから Long Good-bye 2024・06・20

2024-06-20 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 シュークリーム 」とした

 小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私が初めてシュークリームをたべたのは 、
  明治四十年頃の事であらうと思ふ 。その
  当時は岡山にゐたので 、東京や大阪では 、
  或はもう少し早くから有つたかも知れない 。
   第六高等学校が私の生家の裏の田圃に建
  つたので 、古びた私の町内にもいろいろ
  新らしい商売をする家が出来た 。夜にな
  ると 、暗い往来のところどころにぎらぎ
  らする様な明るい電気をともしてゐる店が
  あつて 、淋しい町外れの町に似合はぬハ
  イカラな物を売つてゐた 。
   私は明治四十年に六高に入学したのであ
  るが 、その当時は私の家はもうすつかり
  貧乏してしまつて父もなくなり 、もと造
  り酒屋であつたがらんどうの様な広い家
  の中に 、母と祖母と三人で暮らしてゐた 。
   夜机に向かつて予習してゐると 、何が
  食ひたいかと考へて見ると 、シユークリ
  ームがほしくなつて来る 。その時分は 、
  一つ四銭か五銭であつたが 、さう云ふ高
  い菓子をたべると云ふ事は普通ではない 。
  しかし欲しいので祖母にその事を話すので
  ある 。祖母が一番私を可愛がつてゐたの
  で 、高等学校の生徒になつても矢張り子
  供の様に思はれたのであらう 。それなら
  自分が買つて来てあげると云って暗い町
  に下駄の音をさせて出かけて行く 。
   六高道に曲がる角に広江と云ふ文房具屋
  があつて 、その店でシユークリームを売
  つてゐる 。祖母はそこまで行つて 、シユ
  ークリームを一つ買つて来るのであるが 、
  たつた一つ買つて来ると云ふ事を私も別に
  不思議には思はなかつた 。祖母の手から
  そのシユークリームを貰つて 、そつとそ
  の中の汁を啜つた味は今でも忘れられな
  い 。子供の玩具に本当の牛を飼つて見た
  り 、いい若い者の使に年寄りがシユーク
  リームを買ひに行つたりするのが 、いい
  か悪いかと云ふ様な事ではないのであつて 、
  こつてい牛は今では殆んど見られなくなつ
  たが 、シユークリームをたべると 、いつ
  でも祖母の顔がどことなく目先に浮かぶ様
  に思はれるのである 。  」

  引用おわり 。

  文学的才能の萌芽らしきものを見せ始めた一人息子に

 期待を寄せる母と祖母 、父親不在家庭にあって 、十五 、

 六歳になった ひとり息子 が 、幼い頃そのままに 、母 、

 祖母に 、傍若無人で 、大人をなめきった態度 、行動を

 り続ける 。

  とてもやばそう 。だけど 、現代でもありそうな家庭情況 。

 ( ´_ゝ`)

  1889年(明治22年)生まれの「 榮造 」少年が 十五歳か

 十六歳のときの 1905年(明治38年)に父親が亡くなり 、

 実家の造り酒屋 志保屋が倒産 、経済的に困窮したらしい 。

 それでも 、地方の旧家の常で 、恒産があったのか 、日々

 の暮らしはなんとかなったらしく 、ひとり息子だった榮造

 少年は 、翌 1906年(明治39年)に 、博文館発行の文芸雑

 誌「 文章世界 」に小品を投稿し、「 乞食 」が 優等入選 し

 たりしている 。

  そして 、1907年(明治40年)には 、岡山中学校を卒業し 、

 第六高等学校( 現在の岡山大学 )に入学 。三年後の1910年

 (明治43年)、第六高等学校卒業 。上京し 、東京帝国大学

 文科大学に入学( 文学科独逸文学専攻 )。1911年(明治44年)、

 療養中の夏目漱石を見舞い 、門弟となったようである 。

 ( ´_ゝ`)  

 ( ついでながらの

   筆者註:この随筆の巻末に 、百閒先生の旅のお供

    をされた ヒマラヤ山系君 こと 平山三郎さんが

    書かれた「 解説 」があり 、その解説文の中に

    百閒先生について こんな記述があります 。

    「 ひとりッ子で我侭の仕放題 、おんば
     日傘で育てられた 、お祖母さん子で
     ある 。」

     こんな場合 、大抵 ろくな大人には育たない 。

     百閒先生が ろくな大人 だったのかどうかは 、

    寡聞にして 筆者は存じ上げません 。それでも

     お酒も 、煙草も 、若い頃から切らしたことが

    ない というほど嗜まれた 百閒先生は 存外 長命

    で 、81歳で 、老衰で 、亡くなったそうです 。

     随筆を読みますと 、ご長命の理由が仄見えて来

    ます 。そう感じられる普段の生活習慣をいくつか

    挙げてみます 。

     引用はじめ 。

    「 朝の支度は 、起きると先づ果物を一二種食ふ 。
     梨や林檎は大概半顆宛 、桃は大きくても小さく
     ても一つ食べる 。桃の身は濡れてゐて辷(すべ)
     り込むから食つてしまふのである 。それと同時
     に葡萄酒を一杯飲む 。大変貴族的な習慣で聞き
     なりはいいが 、常用の葡萄酒は日本薬局方の所
     謂赤酒である 。問屋からまとめて買ふので一本
     五十二銭である 。」

    「 郵便や新聞を見終る前に 、ビスケットを噛つて
     牛乳を飲む 。これで朝食を終るのである 。」

    「 何の邪魔も這入らない時は 、十時頃から仕事に
     かかる 。さうしてお午になると蕎麦を食べる 。
      大体秋の彼岸から春の彼岸までは 、盛りかけ一
     つ宛を半分宛食ふ 。春の彼岸から秋までは盛り
     二つを一つ半位食ふ 。夏の方が朝が早いのでそ
     れ丈腹がへるらしい 。学校を止めて以来ずつと
     その習慣を変へない 。」

    「 午後ずっと仕事をしてゐても 、私は間食は決
     してしない 。ただひたすらに 、夕食を楽しみ
     にしてゐる 。」

    「 私は親譲りの酒好きなのであらうと自分でも
     さう思ふのは 、酒の味がうまくて堪らないの
     である 。酔つた気持も悪くないが 、しかし
     あまり度を過ごすのは好きではない 。それは
     私が気を遣つて自制するのではなく 、いい加
     減のところまで行くと 、酒の味が悪くなるの
     で 、さうなると 、もうあまり飲む気がしな
     い 。」  ( 専ら日本の麦酒と清酒で 、火酒は滅多に飲まれなかったらしい 。)

    「 夕食の膳では酒を飲む 。酒も決して外の時間
     には口にしない 。間でお行儀のわるい事をする 
     と 、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからで
     ある 。酒は月桂冠の罎詰 、麦酒は恵比須麦酒
     である 。」

    「 夜は大概仕事をしない 。おなかのふくれたと
     ころで寝てしまふ 。」

    「  毎月八日と十七日と二十一日の三日をお精進と
     定めて 、魚も肉も食べない 。野菜を煮る汁に
     も鰹節をつかはない様に云ひつけてある 。味の
     素は精進料理につかつて差支へない物と思ふけ
     れども 、味の素を入れた料理は上つすべりがし
     て 、塩梅の妙味と云ふものがなくなるから 、
     ふだんから使はせない 。口先だけうまくて 、
     ペンキ塗の御馳走だからいかんと申し渡してあ
     る手前 、お精進の三日だけは味の素をつかつ
     てもいいと云ふのも沽券にかかはるので 、昆
     布のだしなどで我慢する 。それで煮物も平生
     よりはうまくない様だが 、それだけ味が変は
     つて 、如何にも今日はお精進であると云ふ様
     な気がする 。  」

    「 いつでもその翌日は精進落ちを布令する 。
     牛肉の網焼をさせたり 、蒲焼を取つたり 、
     四谷見附の三河屋から牛の舌を持つて来させ
     たりする 。それで一月に三日は大つぴらに
     御馳走を食ひ散らす口実が出来てゐるが 、
     更にその機会をふやすために 、謝肉祭の故
     智に祖(なら)つて 、お精進の前晩にも 、
     平生あまり食はない様な御馳走を要求する事
     にしようかと考へついた 。この次の十七日
     のその前の晩は 、うつかり過ごさないやう
     にしようと心掛けてゐる 。  」

     引用おわり 。

     バランスよく 、規則正しく食べていらっしゃる 。

      理にかなった 食生活 。

     へべれけ になるまでは 、のまない 。

     筆者の想像するところ 、百閒先生 何よりの健康法は 、

    ストレスを内に溜め込まず 、爆発させて発散するか 、

    ひとにストレスを転嫁することにあった と思います。

     随筆の中に 、次のような記述があり 、老衰 という

    より 、年来の痼疾から来る 心不全 で亡くなったよう

    にも思えます 。ご寿命だったのでしょう 。

    「 私の動悸と云ふのは 、普通の人の動悸とは
     大分違ふのであつて 、もう二十年来の持病
     である 。発作が起こると脈搏は二百位にな
     るが 、しかし呼吸は普通であつて 、煙草を
     吸ひながら 、話しをする事が出来る 。すぐ
     治まれば何でもないが 、長く続くと変な気持
     になつて 、死にさうに思はれる 。それで夜
     なかでも夜明けでも小林博士の許へ行く様な
     事になるのだが 、診察室で苦しい胸を押さへ
     て 、待つてゐるところへ 、外の廊下に小林
     博士の足音が聞こえると 、その拍子になほ
     つてしまつたと云ふ様な事が何度もある 。
     発作だから 、なほつたら後は何ともない 。
     よる夜中お騒がせしてすみませんでしたと
     お詫びして帰つて来る 。小林博士の玄関ま
     で来てなほつた事もあり 、自動車がその近
     所へ曲がつた時になほつた事もあり 、苦し
     くなつて 、小林博士の許へ行かうと思つて 、
     自動車に乗つた途端になほつた事もある 。
     普通の心臓病ではないのださうであつて 、
     病名は Paroxysmale Tachykardie 発作性
     心臓収縮異常疾速症と云ふのである 。
      しかしさう云ふ風にうまい工合になほら
     ぬ時もあつて 、二百前後の脈搏が何時間
     も続き 、十何時間も続き 、二十何時間も
     続き 、一番長かつた時は 、三十六時間半
     続いた事がある 。 」

      ( 文中に出てくる小林博士は 、百閒先生の掛りつけのお医者さんで 、医学博士の小林安宅先生 のこと )

     晩年の 1967年 (昭和42年)、芸術院会員に推薦され

    も固辞

     辞退の弁は「 イヤだから 、イヤだそうです 。

 

 

  和名はショウキウツギ( 鍾馗空木 )です 。

           毛に覆われた実を 、悪魔を追い払う髭の生えた神様「 鍾馗 」の
           顎ひげになぞらえたことから、ショウキウツギという和名がついたそうです

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