「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

薬喰 ( くすりぐい ) Long Good-bye 2024・06・14

2024-06-14 05:27:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 薬喰 」とした小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私の家は造り酒屋だつたので 、酒倉が穢れる
  と云つて 、子供の時は牛肉を食はして貰えな
  かつた 。四脚の食べ物は 、一切家に入れなか
  つたのである 。だから本当の味は知らないけ
  れども 、大変うまいものだと云ふ話は 、学校
  の友達などからも度度聞いて居り 、又たまに
  夕方など 、人の家の前を通り過ぎる拍子に 、
  何とも云はれないうまさうな 、温かい匂が風
  に乗つて流れて来ると 、ひとりでに鼻の穴の
  内側が一ぱいに拡がる様な気持がした 。
   田舎の町外れに 、叔母さんの家があつて 、
  古風な藁屋根で 、入口には障子戸が嵌まつて
  ゐた 。私があんまり丈夫でないから 、薬喰
  に牛肉を食べさせようと云ふ内緒話が 、そこ
  の叔母さんと私の母との間にあつたらしく 、
  ある日の夕方 、私は母と一緒に 、俥に乗つ
  て叔母さんの家に出かけた 。
   家に帰つたら 、決してだれにも云つてはな
  らぬと云ふ事を 、よくよく云ひ含められた上
  で 、茶の間の畳の上にうすべりを敷いたとこ
  ろに坐ると 、叔母さんが 、竹の皮包みの中
  から 、白い脂の切れを取り出して 、焼けた
  鍋の上を 、しやあ 、しやあと引いた 。薄青
  く立ち騰る煙の匂を嗅いだだけでも 、もう堪
  らない程うまさうに思はれた 。
   牛肉をどのくらゐ食つたのか覚えてゐないけ
  れど 、後で口の臭味を消すためだと云つて 、
  蜜柑を幾つも食べさせられ 、なほその上に 、
  お酒を口に含んで 、がらがらと嗽ひをした後
  で 、叔母さんの鼻先に口の息を吹きかけて見
  て 、大丈夫もうにほはないと云ふことになつ
  て 、それから寒い夜道を俥に乗って 、家に
  帰つて来た 。みんなが顔を見る様な気がして 、
  落ちつかなかつたけれど 、その時初めて覚え
  た不思議な味は 、寝床に這入つた後までも 、
  秘かに思ひ出して見て 、何とも云はれない 、
  いい気持がした 。」

 「 何年かたつ内に 、私の家は貧乏して 、三代
  つづいた酒屋を止めたから 、その後は 、大つ
  ぴらで牛肉が食へる様になつた 。それからこ
  の方三十年 、機会ある毎に貪り食つても 、ま
  だ食ひ足りないのである 。 」

 引用おわり 。

  上記が 、団塊世代の親の世代の人 、即ち 明治 、大正 、

 昭和を生きて来た人が 、書かれた文章であると考えますと 、

  日本人一般の 肉食の歴史は 、随分と浅いような 気がしますね 。

   ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註:「 1889年(明治22年)5月29日 、岡山市(現在の
       中区)古京町一丁目百四十五番地に 、父:久吉 、
       母:峯の一人息子として誕生 。実家は裕福な造
       り酒屋『 志保屋 』で 、先代の祖父の名から
       『 榮造󠄁 』と命名される 。岡山市立環翠小学校
       (現在の岡山市立旭東小学校)、岡山高等小学校
       (現:岡山市立岡山中央小学校)を経て 、岡山
       県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等
       学校)入学 。

        1905年(明治38年)、父・久吉死去 。実家の
       志保屋が倒産し 経済的に困窮する 。『 吾輩は
       猫である』を読み 、夏目漱石に傾倒する 。
       1906年(明治39年)、博文館発行の文芸雑誌
       『 文章世界 』に小品を投稿し 、『 乞食 』が
       優等入選する 。

        1907年(明治40年)、岡山中学校を卒業し 、第
       六高等学校(現在の岡山大学)に入学 。1908年
       (明治41年) - 担任の国語教師・志田素琴の影
       響で俳句を始め 、句会を開く 。俳号は地元の
       百間川にちなんで『 百間 』とする 。

       東京帝国大学時代
        1910年(明治43年)、第六高等学校卒業 。上京
       し 、東京帝国大学文科大学入学(文学科独逸文学
       専攻)。1911年(明治44年)、療養中の夏目漱石
       を見舞い 、門弟となる 。小宮豊隆 、鈴木三重吉 、
       森田草平 、野上豊一郎らと知り合う 。

        1912年(大正元年)、中学時代の親友であった
       堀野寛の妹 、堀野清子と結婚 。1913年(大正2年)、
       夏目漱石著作本の校正に従事 。長男久吉生まれる 。

       作家として
        1914年(大正3年)、東京帝国大学独文科を卒業 。
       漱石山房では 芥川龍之介や久米正雄を識る 。長女
       多美野生まれる 。1916年(大正5年) - 陸軍士官
       学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。

       ( 後 略 )」

        以上ウィキ情報 。

        随筆の中で 、実家について百閒さんは こんな風に書いて

       いらっしゃいます 。

         「 父の代に家が貧乏したのは 、父が酒飲みで
         あったから 、お酒の為にしくじつたのである
        と 、母や祖母から聞かされてゐたけれども 、
        当時の父よりも年を取つた今の自分の判断で
        考へて見ると 、父の酒のために家が傾いたと
        は思はれない 。寧ろさう云ふ風になつた家運
        の挽回成らずして 、そのために父が酒を過ご
        すことも多かつたのではないかと思はれる 。
         しかし私がまた酒飲みになつて 、父の轍を
        踏む様な事があつてはならぬと云ふ心遣ひか
        ら 、祖母は私に 、一人前になるまでは決し
        て酒を飲むなと戒めた 。それだから私は学
        校を出るまで 、麦酒の味は知つてゐたけれ
        ども酒は余り飲まなかつた 。
         卒業してから暫らくすると 、陸軍教授を拝
        命したので 、私は曲りなりにも 、一人前に
        なつた様である 。」  ) 

 

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