「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・12・26

2005-12-26 07:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「正月になっても、門松を立てない家が多い。国旗を出さない家が多い。町中かけ回っているタキシーの運転手は、松も旗も年々へるばかりで、もう正月はなくなったようなものです、と言う。
 戦後はなぜ松を立てないか、旗を立てないかと以前私は問われて、戦前はなぜ立てたか、当時立てたひとと、いま立てないひととは全く同じ人物だと答えたことがある。」

 「門松を立てないで、屠蘇を祝わないで、百人一首をとらないで(以下略)、日本の子供に共通の正月はこない。相変りませず、茶の間でテレビを見物しているなら、または勉強を強いられているなら、それはほかの月のほかの日と同じで、去年と今年の間になんの区別もない。
 十年二十年たってそれを回顧すれば、そこには正月さえないのだから、他の年中行事は全くない。ただひたすらのっぺらぼーである。
 門松も国旗も、だれも立てない今、立てよと言うには勇気がいる。これしきのことに勇気がいるとは笑止だが、いるのである。」

 「以前、我々が戸ごとに門松を立てたのは、隣の家が、またその隣の家が立てたからである。町内の全員が立てるのに、ひとり立てないのは、よほどの貧乏人か、よほどのつむじ曲りか、そのどちらかである。今はだれも立てないから、立てるほうが怪しまれる。
 我々はあたりをうかがって、大ぜいのすることを見て、それに従う動物である。隣人が立てれば立てるし、立てなければ立てない。
 ただそれだけのことである。理屈は何とでもつくからその理屈を借りて、たとえば『日の丸』を、戦前は立てないひとを、戦後は立てるひとを『村八分』にする。言葉はひとを動かさない。かえってひとに従う。
 以前立てたひとも、今立てないひとも別人ではない。全く同一の人物であることを、かねがね私は残念に思っている。それを当人に思い知らせることはできないと知りながら、こうして私は回らぬ筆をあやつっているのである。」

   (山本夏彦著「編集兼発行人」中公文庫 所収)
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