今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「正月になっても、門松を立てない家が多い。国旗を出さない家が多い。町中かけ回っているタキシーの運転手は、松も旗も年々へるばかりで、もう正月はなくなったようなものです、と言う。
戦後はなぜ松を立てないか、旗を立てないかと以前私は問われて、戦前はなぜ立てたか、当時立てたひとと、いま立てないひととは全く同じ人物だと答えたことがある。」
「門松を立てないで、屠蘇を祝わないで、百人一首をとらないで(以下略)、日本の子供に共通の正月はこない。相変りませず、茶の間でテレビを見物しているなら、または勉強を強いられているなら、それはほかの月のほかの日と同じで、去年と今年の間になんの区別もない。
十年二十年たってそれを回顧すれば、そこには正月さえないのだから、他の年中行事は全くない。ただひたすらのっぺらぼーである。
門松も国旗も、だれも立てない今、立てよと言うには勇気がいる。これしきのことに勇気がいるとは笑止だが、いるのである。」
「以前、我々が戸ごとに門松を立てたのは、隣の家が、またその隣の家が立てたからである。町内の全員が立てるのに、ひとり立てないのは、よほどの貧乏人か、よほどのつむじ曲りか、そのどちらかである。今はだれも立てないから、立てるほうが怪しまれる。
我々はあたりをうかがって、大ぜいのすることを見て、それに従う動物である。隣人が立てれば立てるし、立てなければ立てない。
ただそれだけのことである。理屈は何とでもつくからその理屈を借りて、たとえば『日の丸』を、戦前は立てないひとを、戦後は立てるひとを『村八分』にする。言葉はひとを動かさない。かえってひとに従う。
以前立てたひとも、今立てないひとも別人ではない。全く同一の人物であることを、かねがね私は残念に思っている。それを当人に思い知らせることはできないと知りながら、こうして私は回らぬ筆をあやつっているのである。」
(山本夏彦著「編集兼発行人」中公文庫 所収)
「正月になっても、門松を立てない家が多い。国旗を出さない家が多い。町中かけ回っているタキシーの運転手は、松も旗も年々へるばかりで、もう正月はなくなったようなものです、と言う。
戦後はなぜ松を立てないか、旗を立てないかと以前私は問われて、戦前はなぜ立てたか、当時立てたひとと、いま立てないひととは全く同じ人物だと答えたことがある。」
「門松を立てないで、屠蘇を祝わないで、百人一首をとらないで(以下略)、日本の子供に共通の正月はこない。相変りませず、茶の間でテレビを見物しているなら、または勉強を強いられているなら、それはほかの月のほかの日と同じで、去年と今年の間になんの区別もない。
十年二十年たってそれを回顧すれば、そこには正月さえないのだから、他の年中行事は全くない。ただひたすらのっぺらぼーである。
門松も国旗も、だれも立てない今、立てよと言うには勇気がいる。これしきのことに勇気がいるとは笑止だが、いるのである。」
「以前、我々が戸ごとに門松を立てたのは、隣の家が、またその隣の家が立てたからである。町内の全員が立てるのに、ひとり立てないのは、よほどの貧乏人か、よほどのつむじ曲りか、そのどちらかである。今はだれも立てないから、立てるほうが怪しまれる。
我々はあたりをうかがって、大ぜいのすることを見て、それに従う動物である。隣人が立てれば立てるし、立てなければ立てない。
ただそれだけのことである。理屈は何とでもつくからその理屈を借りて、たとえば『日の丸』を、戦前は立てないひとを、戦後は立てるひとを『村八分』にする。言葉はひとを動かさない。かえってひとに従う。
以前立てたひとも、今立てないひとも別人ではない。全く同一の人物であることを、かねがね私は残念に思っている。それを当人に思い知らせることはできないと知りながら、こうして私は回らぬ筆をあやつっているのである。」
(山本夏彦著「編集兼発行人」中公文庫 所収)
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