今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「わが国の軍人が、中国の人民を虐殺した記事を、写真を見ることがある。
わが国の軍人といえば、壮年にとっては自分たちのことである。少年にとっては父祖のことである。骨肉同然のものが、
海外で無辜の民を殺したと聞くのはいい気持のものではない。
よしんばそれが本当でも、本当だと思いたくないのが人情である。だからこのたぐいの記事を読むものは少なかろうと
思っていたら、存外読むものが多くて、たちまち本になってよく売れているそうである。
いうまでもなく日支事変は侵略戦争で、ついでに日露戦争も日清戦争も侵略戦争で、それを子供たちに教えたいと、
教科書中に書いて、文部省から削除を命じられたと、ながながと裁判で争っている編集者がある。
どこの国でもその国の政府は、その国の体制を守ろうとする。それは当然のことで、国は守る義務がある。たとえば、
ソ連はソ連の社会主義体制を守って、反体制の言辞を許さない。まして教科書中にそのたぐいの言葉を挿入したら、
ただではすまないから、そもそも挿入しようという発想が生じない。わが国でそれが生じるのは、わが国が体制を守ること
にかけて、ソ連より怠慢だからである。
またたとえば、イギリスの教科書には、イギリス人の『非』は書いてない。むかしイギリス人が世界中に植民地を持った
のは、南アフリカでは首長に懇望されたからであり、エジプトでは王様の苦しい財政を助けるためであり、インドでは
インド人の幸福を願ったためだという。
どの教科書にもそう書いてあるから、イギリスの青少年は今でもそう信じている。
だれが自分の非を、子供たちに伝えたがるだろう。伝えないでかくすのが自然で、したがってイギリスの教科書は自然で、
健康なのである。自然で健康なことは、しばしば片腹いたいことである。個人がそうだから、国家もそうなのである。だから
私はこの健康というものをなが年見て、ほとんど憎んでいる。
自分の非をあばくのは、自分ではなく他人である。南京で日本人は中国人を殺した。それは戦闘員ではなかった。ここに
証拠がある。証人がいる。夥しい死者を返せ。弁償せよと、中国人が言うならおかしくない。日本人は抵抗すればいいので
ある。言を左右にしてその非を認めまいとすればいいのである。それが自然で健康なのである。
ところが、あばくのは中国人でなく日本人である。日本人が日本人の非をあばいて、非が少ないより多いのを喜ぶのである。
世界中の国民は健康なのに、ひとり日本人だけ健康でないのだろうか。
そんなことはない。げんに日本人の大半は、この種の記事と写真に目をそむける。見るともなしに見て、それがついこの間の
ソンミ村の虐殺でなく、三十なん年前の南京の虐殺だと知ると、あわてて二度と読まなくなる。読まないのは健康な証拠である。
ところが、進んで読むものがある。
読むものは、我々はこれだけの悪事を働いた。中国人が告発する前に、せめて自分から告発したい。それが良心あるものの
義務だと、読み終るが否や読みたがらないものを非難する。
この種の本は、他を非難するためにある。そこには良心と正義が売られている。買い手はたちまち自分は正義の権化になった
気で、他をとがめる資格を得る。どこから得るか考えもしないで得るのである。けれどもこんなに無反省な老若が、健康でない
道理がない。
私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ正義と良心だけは売物に
してはいけないと思うものである。これを売物にすることは、最も恥ずべきことだと私は教わったが、近ごろは教えぬようだ。
これこそ教科書に明記していいことである。
この種の本の筆者は、はるばる中国へ行って、各地を調査して、生き残りに会って、話を聞き写真をとり、たちまち何冊かの
本を書く精力的な人物である。心身共に健康である。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
「わが国の軍人が、中国の人民を虐殺した記事を、写真を見ることがある。
わが国の軍人といえば、壮年にとっては自分たちのことである。少年にとっては父祖のことである。骨肉同然のものが、
海外で無辜の民を殺したと聞くのはいい気持のものではない。
よしんばそれが本当でも、本当だと思いたくないのが人情である。だからこのたぐいの記事を読むものは少なかろうと
思っていたら、存外読むものが多くて、たちまち本になってよく売れているそうである。
いうまでもなく日支事変は侵略戦争で、ついでに日露戦争も日清戦争も侵略戦争で、それを子供たちに教えたいと、
教科書中に書いて、文部省から削除を命じられたと、ながながと裁判で争っている編集者がある。
どこの国でもその国の政府は、その国の体制を守ろうとする。それは当然のことで、国は守る義務がある。たとえば、
ソ連はソ連の社会主義体制を守って、反体制の言辞を許さない。まして教科書中にそのたぐいの言葉を挿入したら、
ただではすまないから、そもそも挿入しようという発想が生じない。わが国でそれが生じるのは、わが国が体制を守ること
にかけて、ソ連より怠慢だからである。
またたとえば、イギリスの教科書には、イギリス人の『非』は書いてない。むかしイギリス人が世界中に植民地を持った
のは、南アフリカでは首長に懇望されたからであり、エジプトでは王様の苦しい財政を助けるためであり、インドでは
インド人の幸福を願ったためだという。
どの教科書にもそう書いてあるから、イギリスの青少年は今でもそう信じている。
だれが自分の非を、子供たちに伝えたがるだろう。伝えないでかくすのが自然で、したがってイギリスの教科書は自然で、
健康なのである。自然で健康なことは、しばしば片腹いたいことである。個人がそうだから、国家もそうなのである。だから
私はこの健康というものをなが年見て、ほとんど憎んでいる。
自分の非をあばくのは、自分ではなく他人である。南京で日本人は中国人を殺した。それは戦闘員ではなかった。ここに
証拠がある。証人がいる。夥しい死者を返せ。弁償せよと、中国人が言うならおかしくない。日本人は抵抗すればいいので
ある。言を左右にしてその非を認めまいとすればいいのである。それが自然で健康なのである。
ところが、あばくのは中国人でなく日本人である。日本人が日本人の非をあばいて、非が少ないより多いのを喜ぶのである。
世界中の国民は健康なのに、ひとり日本人だけ健康でないのだろうか。
そんなことはない。げんに日本人の大半は、この種の記事と写真に目をそむける。見るともなしに見て、それがついこの間の
ソンミ村の虐殺でなく、三十なん年前の南京の虐殺だと知ると、あわてて二度と読まなくなる。読まないのは健康な証拠である。
ところが、進んで読むものがある。
読むものは、我々はこれだけの悪事を働いた。中国人が告発する前に、せめて自分から告発したい。それが良心あるものの
義務だと、読み終るが否や読みたがらないものを非難する。
この種の本は、他を非難するためにある。そこには良心と正義が売られている。買い手はたちまち自分は正義の権化になった
気で、他をとがめる資格を得る。どこから得るか考えもしないで得るのである。けれどもこんなに無反省な老若が、健康でない
道理がない。
私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ正義と良心だけは売物に
してはいけないと思うものである。これを売物にすることは、最も恥ずべきことだと私は教わったが、近ごろは教えぬようだ。
これこそ教科書に明記していいことである。
この種の本の筆者は、はるばる中国へ行って、各地を調査して、生き残りに会って、話を聞き写真をとり、たちまち何冊かの
本を書く精力的な人物である。心身共に健康である。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)