国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

なぜか時折本を読みたくなる

2010年03月24日 | 休業のお知らせ
今日のNHKの21時のニュースでは、
いよいよ日本でも電子書籍が流行るかもしれないということで
出版業界がいろいろと動いていることを特集していた。
アップル社が新しい電子書籍の端末を売り出そうとしているし、
世界的には電子書籍が当たり前になってきているようだ。

僕としてみれば「やっぱり本は紙媒体だろう」と思っていたのだが、
電子書籍が流行り始めそうな兆しが見えてくると
やっぱり否応なしに興味がでてくる。
何せ電車の中でも重たい本を持ち歩かずに、
簡単に読むことができるからこれは結構楽だろう。
まぁ、すぐには買わなくてもその内にやっぱりそうした物が必要になってくるのだろう。
楽しみ半分、残念半分な複雑な気分である。

最近はダン・ブラウンの『ロスト・シンボル』に始まり、
ボブ・ディランの自伝ときて、ビートルズの歴史を読んでいる。
他にも数冊並べ読みなのだが、
「ゴンクールの日記』とか村山槐多の詩集やらがたまってきたため
今日はちょっとジャズを聴くのを休んで本に没頭したいと思う。

またのご来店をお待ちしております。

早く日曜日がこないかな。何かいいことがあるわけではないけど…

2010年03月23日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
巷では3連休だったため、昨日などは随分と道路も混んでいたようだが、
残念ながら年度末に向けて忙しい僕は、
仕事が終わらずヒーヒーと書類とにらめっこをしていた。
その甲斐があってかどうにかこうにかメドを付けることができて
ほっとしている状況である。

さて、最近はボブ・ディランを中心に聴いてきたいたため
そろそろジャズに戻るかと思い、
今日手に取ったのはバリバリのハードバップだ。

ブッカー・アーヴィンの『ザ・ソング・ブック』である。
ブッカー・アーヴィンという人、ジャケットを見てもらえば分かるが、
ちょっと怪しめのサングラスのおっさんである。
この人のテナーはイカしている。
鋭くつんざくような音がコルトレーンだとすると、
アーヴィンのテナーは、速くとも充分にゆとりのある音色である。
聴くにしても細かいところにまで集中をしなくとも
自然と耳に入ってきて馴染んでいく。
集中力を高めれば、アーヴィンの奏でる音がほんわかと柔らかくも
どっしりと地面に根ざした樹木のようにズンと迫ってくるような存在感がある。
ときおりこうした濃いサウンドが何よりも心地よく
まるで肩の疲れを揉みほぐすかのように欲しくなるのだ。

ピアノのトミー・フラナガンがどの演奏でも脇をしっかりと支えている。
「カム・サンデイ」のアーヴィンとフラナガンの掛け合いは、
「あぁ、早く日曜日がこないかな」という今の僕の心を刺激する。
そう、こんなゆったりとした休日が僕は欲しいだけなのだ!
と、思わず絶叫したくなる。
ドラムのアラン・ドウソンが叩くメリハリのあるドラミングもいい!
ピシピシとしっかりリズムが刻まれ、自然とスイングしてくる。

有名でなくともジャズには良い演奏がたくさんあるのだ。
まぁ、それを追い求めていくのは大変だけど、
それがまた楽しいのだ。

時代によって作られた「おふざけ」アルバム

2010年03月22日 | マスターの独り言(ジャズ以外音楽)
このアルバムはビートルズの最高傑作のみならず
ロック史に燦然と輝く名盤としても名高い。
『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
そのタイトルは長く、覚えるのも一苦労である。
ジャケットにはたくさんの写真やら蝋人形やら、
はたまた楽器やらがまんべんなく並べられ、
加えて中央に並ぶ4人のメンバーは奇抜な衣装に身を包んでいる。
花で「BEATELES」などとご丁寧に字を作り、
その周りを福助やらインド人形やら
「ローリング・ストーンズ」のシャツを着た人形やらが囲んでいる。
今ならCGで簡単なジャケットであるが、
当時はそんな技術もなく全てを並べた状況で撮った写真である。

正直、僕はこのアルバムのどこが20世紀を代表するアルバムなのか分からなかった。
ビートルズの曲ならもっといいものはあるはずだ。
しかも「サージェント軍曹」という架空の人物の作ったバンドという
何やら珍妙な設定であるにもかかわらず、
1曲目のタイトル曲と
2曲目の「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・不ロム・マイ・フレンド」ぐらいしか
その設定が生きていない。
3曲目の「ルーシー・インザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」など
もろビートルズの曲というかレノンの曲だろう。
そこから12曲目のタイトル曲の「リプライズ」までどーでもいいような曲が続く。
(もちろん6曲目の「シーズ・リヴィング・ホーム」など胸打つ曲もあるのだが…)
この「どーでもいい」というのが、また奇妙なもので
7曲目の「ミスター・カイト」(タイトルが長いので省略する)
10曲目の「ラブリー・リタ」
11曲目の「グッド・モーニング・グッド・モーニング」など
「え、ビートルズってこんな曲もやってたの?」という
ベスト盤だけでは絶対に知り得ないような不思議で奇妙奇天烈な曲がそろっているのだ。

どこら辺が「20世紀最大の名盤」なのか?
何度も聴き返している内に1つだけ分かったことがある。
「真剣さ」がないのだ。
「ペパー軍曹のバンド」といったり、「ダイヤモンド持って空飛んだ」といったり、
「なかなかよくなってきた」とか、「サーカスの演目は」とか
「64歳になっても」とか、「可愛いリタは駐禁取り締まりだ」とか
「おはよう。おはよう」とニワトリの声を入れてみたり、
とにかく「真剣」という言葉が似合わない。
そもそもジャケットだってあまりにも大仰すぎで面白すぎる。

ボブ・ディランと対比してみると歌詞に対しての真剣さや暗さ、重みというものが無く、
むしろ「そんなモン考えたってしょうがないじゃん」という
明るいカラフルな色合いの世界が広がっているのだ。
だからこそ最後の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の持つ意味が重くなってくる。

一曲一曲が独立しては存在することはない。
この『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の中でこそ
全ての曲が密接に結びつき、明るさと共に「おふざけ」としての意味が生まれてくるのだ。

コンセプトアルバムの先駆けであるという。
本当に音楽が好きで、歌詞の持つ重さに引きずられるよりも
より楽しく、ビートルズらしい1枚を作りたかったのではないか。
少なくともポールはそうであった。
多くの曲はポールが中心となり作られているのがその証だろう。

このアルバムが分岐点となり、
やがメンバーはそれぞれの歩く道を見つけていく。
それは1つの時代の終わりを象徴しているのかもしれない。

ヴィルヘルム・ハンマースホイとエリック・ドルフィー (後)

2010年03月21日 | マスターの独り言(曲のこと)
1964年6月2日
オランダのヒルベルサムのファーラー放送第5スタジオで
ラジオ番組用の演奏収録が行われた。
番組は生演奏が通常であったのだが、
メインミュージシャンが
放送日にパリに行かなくてはならないため
日程を合わせられず、事前収録ということになった。
その25日後の27日、
そのミュージシャンはベルリンに新たにできたジャズクラブに出演。
ところが公演中に体調が悪化し、翌日に緊急入院。
翌29日にあっけなくも帰らぬ人となってしまった。

エリック・ドルフィー。享年36歳。
ジャズ界をまた違った方向へ導いたかもしれないミュージシャンは
あまりにも短い生涯を駆け抜けるように終えた。

6月2日に収録した音源はやがてレコードとなり全世界へと広がる。
アルバムのタイトルは『ラスト・デイト』
ドルフィー、公式の最後のアルバムである。
(ちなみにこのアルバム以後、パリでの吹き込みという物も存在している)

ヴィルヘルム・ハンマースホイとエリック・ドルフィーはどこか似ている。
あの白く無機質な部屋は、
僕に『ラスト・デイト』の5曲目に収録された
「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」を思い起こさせた。

ドルフィーのさえずる小鳥のような柔らかなフルートの音色から始まる。
バスクラやアルトのようにスリリングな音色ではない。
ただどこまでも美しく、でもどこか冷めている。
クネクネとフルートの音色は熱を帯び、ぐっと急降下をしては身を持ち直したり、
ワザと楽器の擦れる音を入れたりしながら、
やがて小鳥が飛び立つがごとく、天上に向かい羽ばたいていく。

一流のミュージシャンは音に自分の感情を込めすぎない。
日本の書画が美しいのはその空間に想像の余地があるからである。
ミュージシャンが楽器で語りすぎれば、それはミュージシャンの独白だ。
だが、本当に心を打つものは、
その空間にこそ「何か」があると聴き手に、鑑賞者に訴えてくる。

ドルフィーのラスト録音だとか
最後に意味深に「空に消えていった音楽は二度と取り戻せない」という
別録りのドルフィーの言葉が入っているだとか
そういう物がなくとも
この「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」は最高なのだ。
この日のドルフィーには何が見え、何を考えていたのだろう。
この曲を聴くとき、僕はいつもそう考えてしまう。

ヴィルヘルム・ハンマースホイとエリック・ドルフィー。
孤高の鬼才たち。
彼らは必要以上に何かが見えていたのか。
僕たちが普段見ている中に隠れている何かを見つけ出すことができたのか。
それを僕らは知る余地もない。
ただ言えることは1つだけ。
2人が残したものは僕たちに絶えることのない疑問と新たな感動を与え続けてくれる。

ヴィルヘルム・ハンマースホイとエリック・ドルフィー (前)

2010年03月20日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
最近のテレビのつまらなさには辟易とさせられてしまうが、
僕の唯一の楽しみが土曜の22時からテレ東でやっている
『美の巨人たち』だ。
毎週、1枚の絵に視点を当てて、
小林薫さんの落ち着きあるナレーションで、その絵を読み解いていく。
画家の心情かもしれない。
絵に隠されたミステリーかもしれない。
『ダヴィンチ・コード』ばりのメッセージかもしれない。
絵もまたその表情からは分からない何かを隠している。

さて、今日の取り上げられた画家がヴィルヘルム・ハンマースホイであった。
この名前を聞いてピンときた人は
なかなか絵を見に行っている人であると言えよう。
最近注目され始めた画家で
もしかすると何かで見たことがあるかもしれない。

僕がハンマースホイについて知ったのは全くの偶然で
一時期毎週のように美術館通いをしているときにチラシで知った。
僕はオランダの画家が好きで、当然ながらフェルメールも含まれるのだが、
そのチラシの絵を見ると白を基調としたまるでフェルメールのような室内の絵である。
生意気にも僕は
「名前なんか覚えるよりも絵を見極める目が大切なんだ」と思っているため、
何となく記憶に残るその展覧会を観に行こうと決めてたのだ。

2008年の秋だったと思う。
上野の国立西洋美術館でヴィルヘルム・ハンマースホイの展覧会が開かれた。
その頃は名前だってそんなに知れ渡っていたわけではない。
有名な画家の絵で大量に押し寄せる観客がいるわけでもなく
結構静かなものだったと思う。

絵はほとんど室内のものだった。
人はいても画家の妻の後ろ姿だけが描かれる。
もちろん若い頃からの主要作品もあったのだが、
何よりも目を惹くのはその白い部屋だ。
フェルメールのようといったが、似て全く否なるものであった。
微妙にずれた影や調度品は静かな部屋に不安定な感情を呼び起こす。
室内には誰かいたのか?
それとも誰もいなかったのか?
一斉に開け放たれたドアは一体何なのか?
なぜ画家の妻は溶け込むようにはっきりと描かれないのか?
また、なぜ常に黒い服装なのか?
疑問は山のようにわいてくる。

何もない虚脱感と圧迫感。それでいながらその不安定さが愛おしい。
美しくもおそろしい絵の群れであった。
普段は展覧会のカタログは購入しないのだが、
(高くて、結構邪魔になるためだ)
全くの知らない画家なのに即決で購入をしてしまった。

あれから日本でも少しずつその名が広がりつつあるのだろう。
(一部の間だけかもしれないが)
そして今日、『美の巨人たち』を見て、
再びハンマースホイの絵と出会ったとき、
ふとあるジャズミュージシャンと僕の中で浮かび上がってきた。
それは僕の大好きなエリック・ドルフィーである。