国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

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そんな仮想の音楽喫茶

どーも「モード」は難しい

2009年07月28日 | 他店訪問
先週の土曜日に「いーぐる」で連続講演会があった。
村井康司氏による「(拡張された)モード・ジャズ名曲選」
というタイトルでの講演である。
よく「いーぐる」の連続講演会にお邪魔をするのだが、
とにかくタメになる。
というよりも、自分の知らないことを教えてもらう喜びを
大学を出て○年だが改めて感じる。
しかも「いーぐる」の講演会では、
必ずそれを裏付ける音源が用意されている。
「いーぐる」で納得いく説明を受け、
そのままそのCDを集めたことも度々だ。

今回は特に村井さんによる「モード・ジャズ」についての話。
そもそも「モード・ジャズ」となると、
本などでその言葉はよく見かけ知っている。
でも僕自身がどれほどその内容まで理解をしているのかは怪しい。
これは僕に限らず多いのではないだろうか?
最近になってようやく「コード進行」についてなんとな~く分かってきたため、
ここで一緒に「モード」も勉強してしまおうってな気持ちで参加をした。

まずは「モード」代表のマイルスの『カインド・オブ・ブルー』から
「ソー・ホワット」から聴く。



僕はこの曲は聴くたびに思うのだが、それほど盛り上がりもなく
全体が抑えて演奏されていることを感じる。
つまり面白味がないのだ。
もちろん聴き所はあるが、それでも熱狂とはほど遠い。

村井さんは言う。
「モード」とは、音階のつながりであると。
ここまでは本にもよく書いてあることだし、「???」である。

従来ここまでの音楽は西洋音楽が主流であり、
マイルスは西洋音楽の呪縛から離れようとしていたのだと。
西洋音楽の代表表現が「コード」でドラマチック的である。
確かにパーカーなども「コード進行」に則ってアドリブを吹いている。
一方で西洋音楽ではないものもたくさんある。
日本の雅楽やアフリカの音楽、東欧やインドなどの音楽など。
それらは元々「コード」で縛られていたわけではない。
マイルスは「コード」ではなく、そうしたイスラム圏や東欧の響きを求め、
和声の響きから脱却しようとした。
それが「モード」なのだ。と、いうことだそうだ。

まぁ、考えてみると僕たちは、
「音楽」という授業で知らぬうちに西洋音楽を基本的に学んでいる。
譜面にも「コード」があり、学校の先生も「コード」で伴奏をつける。
つまり自然と西洋音楽的なものを耳に覚えてしまっているわけだ。
「モード」は、そうした和声の響きから、
もっと自由にメロディーラインを創り出そうとしたものだ。
と、僕は受け取ったのだが……

その後、アフリカのサムピアノの演奏やパキスタンの宗教曲、
ブルガリアの合唱を通して、
「モード」がいかに他文化を吸収していったのかを聴いた。
ウエイン・ショーターやハービー・ハンコック、チック・コリアたちが、
その「モード」をより発展させ、
「モード」と「コード」を組み合わせてさらなるジャズに取り組んでいった。
それが日本では「新主流派」と呼ばれるようになっていったわけだ。

「モード」というと方法のように感じていたが、
そこには他文化への憧憬があり、
またより自由な響きを求めていったということだろうか?
あくまで村井さんの話を僕が受け止めたものであるため、
ご本人の意図とはずれているかもしれないが、
少しだけ「モード」の輪郭線が見えてきたような気がする。

帰りにI-Podからジョーヘンの「アワ・シング」が流れてきた。
確かにその響きは、それまでとは違うジャズの響きを持っていた。
……ように感じた。

ちなみに「モード」についてもっと正しく知りたいなら
村井康司氏の『ジャズの明日へ』(河出書房新書)を一読することをお薦めする。

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