
『最近のコは誉めないと伸びない』そんなことをよく聞く。話しの流れで、そのあとに続く部分が大事な場合は、ついつい聞き流すのだけれど、『最近のコは・・』の方に力点がある内容だったり、慨嘆だったりすると、反発心が湧いてくる。
つい先頃、ほぼ半世紀ぶりに会う人も多くいた同窓会に出席した。私はそれくらい昔のコだ。その席の思い出話しで、恐かった教師の体罰に話しが及んだら、つぎつぎと『こうやられた、あーやられた』の具体的なことが噴出した。もうほとんどそれらの教師は亡くなっているけれど、我ら皆が決して奴らを許していない。
要領が良いコ、悪いコ。顔色を読むのが出来るコ、出来ないコ。何でもこなせる器用なコ、何をやらせても直ぐにはやれない不器用なコ。気に入られ方を身につけているコ、まずい方にばかり行ってしまうコ。
私も定規の角でコツンとやられた話、げんこつで後頭部をいきなり殴られた話、出席簿で顔を張られた話を披露した。やられたことなどないと思われたコが『あの頃の先生ってみんな頭を叩くのよねー、今なら考えられない暴力教師が多かったわねぇ』と言うのでありました。 つづく
(ボクたちの)輪に入らない、入れない人も中にはいるんでしょうから・・・
>暗黙の了解があったように思う
運良く、ある線を踏み越えなかった人達が生き残るというのはどの世界、いつの世でもあることではありますし、楽しく話せる場を保つ我慢と暗黙の了解もできているのでしょう・・ね。
昔をなつかしむ気は当然ありますが、昔を美化するのは、時にはとても危険なことだと思っております。
イラクのフセインに関しては単純に語れないのでご容赦を。
ただ、経済があらゆる事態を引き起こしているのだと思います。
巨大資本の武器製造シンジケートやコングロマリットの利益のためには、ねつ造による紛争や戦争なんて簡単に引き起こされるということではないでしょうか?
あの頃の事は今では楽しく話せる。
当時は暴力教師がたくさんいて革靴で腹を蹴るとか往復びんた、お腹の肉をわしづかみされた生徒を見ることは日常茶飯事だった。力のバランスを学び誰につくと安全か?心地いいか?喧嘩もルールがあって血が出ない程度の暗黙の了解があったように思う。
話は飛ぶがフセインがいたほうが現在よりは秩序は安定していたかも知れません。