江戸から昭和まで登場する話題多い多彩な群像を一筆がきで描く。
その方法は手紙という記録からその人物の知られざる顔をあぶり出す。
この方は銀座社屋にいた大先輩のコラムニスト。
1969年から『よみうり寸評』を担当。
当時は原稿課という部署があってバイク便が日々著者のお家と会社を往復していた筈。
今回の本は各人の「手紙」を紹介しながらその人物、その人生を味よく寸評された。
「手紙がひとを動かすのは言葉に『こころ』がこもっているからだ。文は人なり。手紙は人の心なり」
とあとがきにあった。
【日本人の手紙】村尾 清一 岩波書店
□江戸時代まで□
●義経が知った静は15歳
義経26歳当時のこと。
静御前が義経を慕って杉戸町にも来たという伝承があるし、JR宇都宮線栗橋駅から徒歩約1分足らずのところに彼女のお墓もある。
義経はなかなかのプレーボーイで平時忠の娘をはじめ白拍子など愛人は24人とあった。
●次男以下は召使とはちときつい
家康の大喝一声で将軍継嗣は順序通り家光に決まった。
よく知られている江戸城本丸御殿での言い渡しの場だが手紙も残っている。
資質より出生序列のほうが体制は磐石とたぬき親父殿は判断したようだ。
●城攻めの石に当たって断って
島原の乱(1637年)に軍監として出陣した宮本武蔵に原城からの投石が当たった。
「拙者も石にあたり、すねたちかね申故」
と延岡藩主に切支丹征伐を断った書状が残っていた。
いま上野の森美術館で吉川英治の小説「宮本武蔵」』を元にした作品「バガボンド」の漫画展が人気になっているそうだ。
●討入りで斬った相手がお題目
赤穂浪士(京都留守居役)で高齢の小野寺十内が愛妻にあてた手紙が残っている。
意訳すると「一人を突き伏せるとその男が倒れざまに念仏を唱えた。老人の罪作りと いうべきです」
●与謝蕪村 出自はなぜか語らない
「春風馬堤曲」 余一日問耆老於故園。
渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。
先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。
因製歌曲十八首。
代女述意。題曰春風馬堤曲。
これはは老蕪村の50年前の心象風景と著者。
私が十代の時だったか、父の書棚にあった佐藤春夫の「春風馬堤図譜」というのを読んだ記憶がある。
これは無声映画のためのシナリオにしたものだった。
●老いらくの恋やむがたき 名は小糸
蕪村64歳当時の艶聞。
相手は連句をともにした若い美形であったとか。
3年後に蕪村は逝った。
●玄白は今年かぎりと花紅葉
蘭学事始を書いた時は82歳。
77歳で歯をすべてを失い、その後は、桜と紅葉を楽しんだ。
絶筆に 「医事は自然に如かず」
●大酒と飽淫は命を斬る斧だ
良寛は手紙でその傾向のある弟を叱った。
落語の「抜け雀」では宿の悪妻を「いのちを削るカンナ」と言うくだりがあるが、酒と女をいましめたのに「斧」というのは、はじめて知った。
この良寛の手紙に
酒をあたためてのむべし/おこるべからず/のみて大食すべからず/こゐをいたすべし/但、よふてかかなぐるべからず/大阪屋どの
というのがあるそうだ。
私など夕闇がせまれば、芋焼酎の湯割りでほろ酔い気分となり、時に自前カラオケで歌って、その鼻歌をカミさんに直されているほうだから、まっ、及第点がつけられるか。
●芭蕉千句 蕪村3千、一茶二万句
元禄の芭蕉、天明の蕪村、文化文政の一茶。上記はそれぞれの作句数。
一茶の句が多いがその本人は「荒凡人の己」と自らを評したことにもよる。
●放浪の末 京伝の弟子となり
馬琴は川越藩用人の3男だったが9歳で父を失い14歳で放浪生活に入った。
その後、山東京伝の弟子となり筆をとった。大作「 八犬伝」は47歳から75歳まで28年をかけた作品。
晩年、両眼失明。
文字がまったく読めない 嫁に字を教えて口述筆記をさせた話は不肖、私も知っていた。
□明治から昭和□
●ネコ死んだ 葬儀にでようと弟子たちは
漱石からのユーモア混じりのネコ死亡通知が弟子や知人にあった。
●正岡の隣に住んでた陸羯南(クガクツナン)
「日本」新聞の社長兼主筆をしていた陸。その社員だった子規。社員がホトトギスを出し、経営難で部数減だった社長が励ます。
子規から漱石にこの事情を書いた手紙には陸の友情に感謝した子規の涙の跡があったそうだ。
激烈な痛みに耐えてホトトギスを刊行していた子規へ、陸羯南の妬まない男の友情が垣間見えるとてもいい話だ。
●金屏風 百首の歌で洋学費
この頃、子ども7人の母親だった与謝野晶子がノイローゼ気味だった夫鉄幹の洋行費用を稼ぐために晶子が打った手。
●瓦斯もなく電気なし 夜はランプでものを書き
藤村は姪との愛欲に悩んだ末、船旅40日の逃避行の場にパリを選んだ。
安宿下宿の女主人は「シマザキはタバコの煙の中でいつもものを書いていた」
●ノラやノラ 失礼ながら3000円
愛していた野良猫のこどもが去り、1か月入浴せず7キロも痩せた内田百が「尋ねノラ」と新聞社に懸賞金つき広告と近所にちらし2万枚を配ったという。
少年時代、父の書棚に「百鬼園随筆」があって読んでみたが、さっぱりそのよさがわからなった。
でも「まあだだよ」という名匠クロサワの映画を知り、門下生たちと百との心のふれ合いを見てこのノラの話も理解できた。
我が家にもいた二代目野良「マック」は、獣医が認めた100歳の長寿を全うして逝った。
★★ いつお帰りになるの
----千通の手紙に書けぬ一言------
これは自分の物ではなく、文中の小見出しをそのままコピーした。
上手い見出しだと思う。 宮本百合子の「十二年の手紙」のすべてを凝集させた表現だ。
昭和20年、無期懲役囚であって網走にいた夫の顕治にあてた百合子からの千通の手紙。
「たった一行、それだけ書けばいいといふことがあった。
しかしまだそれは書けまい。
いつお帰りにのるでせう。
書きたい言葉はその一行である」
播州平野(宮本百合子)
宮本顕治の「敗北の文学」は高校生のとき読んで感動した。
入社して二人の「12年の手紙」を読み、青春の多感な生き方に影響を受けた。
狭く、劣悪な労働環境と深夜勤務の過酷な労働条件を変えようと火の玉になって労組青年運動に走った日が今は遠い。
いま「蟹工船」が若い世代に読まれながら、「団結は力」とする術が出現しない現代との交錯をふと考える。
その方法は手紙という記録からその人物の知られざる顔をあぶり出す。
この方は銀座社屋にいた大先輩のコラムニスト。
1969年から『よみうり寸評』を担当。
当時は原稿課という部署があってバイク便が日々著者のお家と会社を往復していた筈。
今回の本は各人の「手紙」を紹介しながらその人物、その人生を味よく寸評された。
「手紙がひとを動かすのは言葉に『こころ』がこもっているからだ。文は人なり。手紙は人の心なり」
とあとがきにあった。
【日本人の手紙】村尾 清一 岩波書店
□江戸時代まで□
●義経が知った静は15歳
義経26歳当時のこと。
静御前が義経を慕って杉戸町にも来たという伝承があるし、JR宇都宮線栗橋駅から徒歩約1分足らずのところに彼女のお墓もある。
義経はなかなかのプレーボーイで平時忠の娘をはじめ白拍子など愛人は24人とあった。
●次男以下は召使とはちときつい
家康の大喝一声で将軍継嗣は順序通り家光に決まった。
よく知られている江戸城本丸御殿での言い渡しの場だが手紙も残っている。
資質より出生序列のほうが体制は磐石とたぬき親父殿は判断したようだ。
●城攻めの石に当たって断って
島原の乱(1637年)に軍監として出陣した宮本武蔵に原城からの投石が当たった。
「拙者も石にあたり、すねたちかね申故」
と延岡藩主に切支丹征伐を断った書状が残っていた。
いま上野の森美術館で吉川英治の小説「宮本武蔵」』を元にした作品「バガボンド」の漫画展が人気になっているそうだ。
●討入りで斬った相手がお題目
赤穂浪士(京都留守居役)で高齢の小野寺十内が愛妻にあてた手紙が残っている。
意訳すると「一人を突き伏せるとその男が倒れざまに念仏を唱えた。老人の罪作りと いうべきです」
●与謝蕪村 出自はなぜか語らない
「春風馬堤曲」 余一日問耆老於故園。
渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。
先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。
因製歌曲十八首。
代女述意。題曰春風馬堤曲。
これはは老蕪村の50年前の心象風景と著者。
私が十代の時だったか、父の書棚にあった佐藤春夫の「春風馬堤図譜」というのを読んだ記憶がある。
これは無声映画のためのシナリオにしたものだった。
●老いらくの恋やむがたき 名は小糸
蕪村64歳当時の艶聞。
相手は連句をともにした若い美形であったとか。
3年後に蕪村は逝った。
●玄白は今年かぎりと花紅葉
蘭学事始を書いた時は82歳。
77歳で歯をすべてを失い、その後は、桜と紅葉を楽しんだ。
絶筆に 「医事は自然に如かず」
●大酒と飽淫は命を斬る斧だ
良寛は手紙でその傾向のある弟を叱った。
落語の「抜け雀」では宿の悪妻を「いのちを削るカンナ」と言うくだりがあるが、酒と女をいましめたのに「斧」というのは、はじめて知った。
この良寛の手紙に
酒をあたためてのむべし/おこるべからず/のみて大食すべからず/こゐをいたすべし/但、よふてかかなぐるべからず/大阪屋どの
というのがあるそうだ。
私など夕闇がせまれば、芋焼酎の湯割りでほろ酔い気分となり、時に自前カラオケで歌って、その鼻歌をカミさんに直されているほうだから、まっ、及第点がつけられるか。
●芭蕉千句 蕪村3千、一茶二万句
元禄の芭蕉、天明の蕪村、文化文政の一茶。上記はそれぞれの作句数。
一茶の句が多いがその本人は「荒凡人の己」と自らを評したことにもよる。
●放浪の末 京伝の弟子となり
馬琴は川越藩用人の3男だったが9歳で父を失い14歳で放浪生活に入った。
その後、山東京伝の弟子となり筆をとった。大作「 八犬伝」は47歳から75歳まで28年をかけた作品。
晩年、両眼失明。
文字がまったく読めない 嫁に字を教えて口述筆記をさせた話は不肖、私も知っていた。
□明治から昭和□
●ネコ死んだ 葬儀にでようと弟子たちは
漱石からのユーモア混じりのネコ死亡通知が弟子や知人にあった。
●正岡の隣に住んでた陸羯南(クガクツナン)
「日本」新聞の社長兼主筆をしていた陸。その社員だった子規。社員がホトトギスを出し、経営難で部数減だった社長が励ます。
子規から漱石にこの事情を書いた手紙には陸の友情に感謝した子規の涙の跡があったそうだ。
激烈な痛みに耐えてホトトギスを刊行していた子規へ、陸羯南の妬まない男の友情が垣間見えるとてもいい話だ。
●金屏風 百首の歌で洋学費
この頃、子ども7人の母親だった与謝野晶子がノイローゼ気味だった夫鉄幹の洋行費用を稼ぐために晶子が打った手。
●瓦斯もなく電気なし 夜はランプでものを書き
藤村は姪との愛欲に悩んだ末、船旅40日の逃避行の場にパリを選んだ。
安宿下宿の女主人は「シマザキはタバコの煙の中でいつもものを書いていた」
●ノラやノラ 失礼ながら3000円
愛していた野良猫のこどもが去り、1か月入浴せず7キロも痩せた内田百が「尋ねノラ」と新聞社に懸賞金つき広告と近所にちらし2万枚を配ったという。
少年時代、父の書棚に「百鬼園随筆」があって読んでみたが、さっぱりそのよさがわからなった。
でも「まあだだよ」という名匠クロサワの映画を知り、門下生たちと百との心のふれ合いを見てこのノラの話も理解できた。
我が家にもいた二代目野良「マック」は、獣医が認めた100歳の長寿を全うして逝った。
★★ いつお帰りになるの
----千通の手紙に書けぬ一言------
これは自分の物ではなく、文中の小見出しをそのままコピーした。
上手い見出しだと思う。 宮本百合子の「十二年の手紙」のすべてを凝集させた表現だ。
昭和20年、無期懲役囚であって網走にいた夫の顕治にあてた百合子からの千通の手紙。
「たった一行、それだけ書けばいいといふことがあった。
しかしまだそれは書けまい。
いつお帰りにのるでせう。
書きたい言葉はその一行である」
播州平野(宮本百合子)
宮本顕治の「敗北の文学」は高校生のとき読んで感動した。
入社して二人の「12年の手紙」を読み、青春の多感な生き方に影響を受けた。
狭く、劣悪な労働環境と深夜勤務の過酷な労働条件を変えようと火の玉になって労組青年運動に走った日が今は遠い。
いま「蟹工船」が若い世代に読まれながら、「団結は力」とする術が出現しない現代との交錯をふと考える。
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