ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔11 七五の読後〕「大名行列を解剖する」 根岸 茂夫 吉川弘文館

2011年07月20日 | 〔11 七五の読後〕
この本を読んで、子どもの頃の鼻歌がでてきた。


1 てんてんてんまり てん手まり
  てんてん手まりの 手がそれて
  どこからどこまで とんでった
  垣根をこえて 屋根こえて
  表の通りへとんでった 
  とんでった

2 表の行列 なんじゃいな
  紀州の殿様 お国入り
  きんもんさき箱 ともぞろい
  おかごのそばには ひげやっこ
  毛槍をふりふり ヤッコラサの
  ヤッコラサ

鞠と殿さま(作詞 西条八十  作曲 中山晋平)

読後、大名行列の供揃いが、映画でいえばエキストラだったというのは想定外の
ことだった。
奉公人を斡旋紹介した口入屋という存在は古典落語の「百川」などを通じて知っていたが、この「人宿」という手配師が大名行列に欠かせぬ重要な役割を演じていたことも理解できた。


● ときの声 先ずは鉄砲、弓部隊
戦国時代の合戦様相。
戦国絵巻はテレビドラマなどで時折見かけるが、その前哨戦は鉄砲と弓、これではじまっている。
武家の供連、はここから成立している。
戦国合戦のシーンは大名行列を理解するカギとも、その源泉ともいえる。


● 馬を降り家来率いて敵陣へ
鉄砲、弓矢のあとは、騎馬武者も、徒歩で家来をひきいて敵陣になだれこむ。
一騎打ちで敵の首級を上げるのが建前となっていた。
前哨戦の鉄砲だけで戦いが決まれば武家階層は不要となったはず。
のちの大名行列の供連れの基本はこの軍役から派生したことが本書でいくたびか強調されていた。



● 軍隊のパレードとなる御行列
大名行列とは戦国時代の軍隊パレードと解しよう。
足軽、長柄の前線部隊、次にお目見え以下で歩兵の槍隊、中小性(小十人)組が主君を囲んで警護し、すぐ後を殿の武具・用品・小荷駄の惣供が従う。
知行高を支給されている騎馬乗り家臣が家来や手回りを率いて騎馬隊を形成する。
基本的な陣形を「備」といい、この順に行軍することを「押」(オシ)と言ったとのこと。
問題は江戸期の行列供揃いが、そろって人宿から斡旋されたエキストラであったことだ。


● 八朔の供揃いまで白きまま
江戸初期。
延宝2年(1674)に、七夕や八朔で江戸城に表敬登城する大名や幕臣のお供に白帷子着用を禁止する令が出た。
記念イベント「八朔」には吉原の遊女までが白に衣替えするということあって、当初は行列を華美、より豪華な武威を誇りたい大名側の意図もあったのかも。

● 槍持ちの供連れてこそ我は武士
「徒士」以上の武家としての生業。
登城、出仕、外出の際には戦場に準じた姿で武威を誇り「通勤」する。
それがかれらのステイタスでもあった。

● 振袖の火事の頃の浪人衆
振袖火事があった明暦3年から万治年間(1658~61)の江戸は、多くの浪人があふれていた。
関ヶ原の戦いや大坂の役で、多くの大名が減封・改易された。
再仕官の道もままならず生活はきびしい。
一季奉公人の群れにも彼らがいた。
幕府の政治は武断政治から、文治政治へと移行し、それに伴い剛毅な武家も次第に文飾の色に染まっていく。


● お目見以下でも四供連れ歩き
「お目見え」以下の身分である幕府徒組の場合でも、外出時には槍持ち、鋏箱持ち、侍一人と草履取りと計4人を引き連れて歩かなければならない。
お供の彼らとは地縁、血縁も無く、給金を払うだけの関係の一季奉公人であることが多い。
背広、ネクタイの単独エリートサラリーマンとは事情がちがう。

本文でも触れてあったが福澤諭吉の「旧藩情」には地方の武家階層のことがとりあげられている。
 
旧中津奥平藩士の数、上大臣(カミタイシン)より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。
その身分役名を精細に分てば百余級の多きに至れども、これを大別して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は祐筆、中小姓、供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、その数の割合、上等は凡そ下等の三分一なり。


● 玄関で槍の錆など改める
戦場の作法は享保期までは続いていたようだ。
それ以後は、供回りもお抱え中間もだんだんに無作法になっていく。
次第にがさつ、無作法の色に馴染み、供先で槍を放り投げる者まで現れる。


● 下馬先は多くの供の待機場所
大名や旗本が江戸城へ登城する際、大手門、内桜田門、西の丸大手門の門前、外側の鍛冶橋、呉服橋、常磐橋が下馬となり、家臣はこの場所で城中に上がった殿様の帰りを待たなければならない。
退屈するほどの長い時間は手持ちぶさたで、それぞれの藩の情報交換などもあったらしいが、この本でも煙草禁止のお触れがあったことも紹介され、弁当屋や煮売屋も大繁盛していたらしい。
幕末には、いなり寿司やそばや甘酒、菓子などもよく売れたとのこと。


● 寛永の頃に人宿看板も 
一季奉公人の斡旋をする家業がなりたち、そのための口入れ宿が出現する。
いまの人材派遣業の原点みたいなもの。
人宿は奉公人の身元証明や引き受けとなって請け状に署名をする。
奉公人が「欠落」(カケオチ)をするとその代理を用意。
過失があれば宿も請け人も連帯して処罰を受けることが原則となっていたが、実態はなかなかどうして、いろいろとトラブルが多い。


● 綱吉の終わり頃から取締り
奉公人の欠落取り締まりが強められたのが、元禄の後、正徳の前の時期である宝永期であったらしい。
奉公人の中には給金先払いをいいことに奉公してすぐ消える。
人宿からもいなくなり、別の宿に変えて訴えを免れたりする。
同様の手口を繰り返すワルも多い。
このため訴訟ごとが多くなり、人宿や人主(身元保証人)にもその責が及ぶ。
宝永5年(1708)にそうした人宿に対して財産没収、手鎖入牢などの厳罰の令が出された
また町奉行所から「人宿」を組合にさせ、連帯責任を明確にし給金の弁償や欠落人の探索なども共同してあたれという下知も出た。
人宿経営は地借、店借の者が多いので奉公人の弁済肩代わりには家主(大家さん)、家持(地主)、町名主までにその責が及んでくる。
彼らには大変迷惑がられた。
武家のほうでは給金が取り戻せて代替があればいいので、不埒な奉公人を成敗してくれるといったようなことはない。
武家の体質も硬派から文治軟弱になっていく時代だ。
なお余談だが、宝永5年の前年には東海・東南海・南海連動型地震である宝永地震(M8.4~8.7)が発生し、富士山の噴火も起きた。

● 奉公人 すねに疵者多くなり
農村から欠落して江戸に生業を求める者が多くなる。
人宿は武家奉公人ばかりでなく小商人、棒手振、日雇い人足までを扱っている。
宝永の奉行所からの人宿組合も3年足らずで、消滅。
お上からのお達しも実情に合わず、人宿も元の鞘に納まったが、問題はなかなか解決しない。
欠落も増え、中間などの酒、博打も常習化してゆく。
幕臣の中間部屋では賭博大開帳が行われた。
このことは他の類書でも読んだことがある。武家には町奉行所もうかつに手は出せない。
宝暦以降は人宿は名目化して現場を掌握している部屋頭などが力を持ち、中間の中には数人の妾や別荘などを持つ者などが現れたというから驚きだ。
この本は小説読本仕立てではない。
記録を丹念に調べたてまとめた本なのだが、その意外さには訴求力がある。

● 江戸中の名主揃ってお白洲へ
人宿をめぐる奉公人への訴訟は依然あとを絶たない。
武家側は給金を取り戻したい。
人宿のほうも組合の廃止で、手代とか名代とかいう闇の斡旋人まで登場し訴訟問題が激しくなる。
その責任のあおりが名主にまでおよんでくるので、これでは、たまったものではないと名主一同打ち揃って奉行所に訴える。
お白洲の砂利は白色。
裁判の公平性をそこに求めた。


● 人宿の202人が呼び出され
享保4年。
奉行所は人宿の202名を召喚し、組合を再結成をさせる。
奉公人の給金取り逃げや欠落が多いのは、人宿が不埒、監督不行き届きなのだと叱りつけ奉公人の職種ごとの給金規定も作った。
組合を11組に編成し相互に監視させその町触れも出した。



● 陸尺が芝居小屋に殴りこみ
ロハで入場をしようとした大名陸尺が咎められたことから170人ほどが大挙して葺屋町市村座に押しかけ大騒動に発展。
幕府もこれを重視、町奉行が出るに及んで陸尺73人を入牢、うち5人が遠島、3人が重追放されたという。
江戸抱えの陸尺が国替えの陸尺を虐めたり、大名の威光を傘にその威を借りてがさつな振る舞いをする者が増えてきた。
下馬先で双方がぶつかり大喧嘩に発展することもあったらしい。
3000石の大久保忠雄の行列が元の日用取とその仲間に鬱憤ばらしに襲撃されるといった信じられない光景もあったと本書にあった。

このこと武家階級の衰退と比例している。
ただ、各藩の参勤交代の場合、国許から出てくる供ぞろいとの関係がよくわからなかった。
そういうことを扱った本があれば、読んでみたいと思う。







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