ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔12 七五の読後〕 【囲碁史 探偵が行く】 福井正明 日本棋院

2012年04月10日 | 〔12 七五の読後〕
【囲碁史 探偵が行く】 福井正明 日本棋院

古い棋譜が今に残り、それを通じてのいろいろな挿話が集められた。面白かった。

● 戊辰以後 碁の家元も右左
戊辰戦争で徳川家が解体され碁界の庇護がなくなった。
惨憺たる棋士の生活で家元も右往左往。
そうした中、明治12年に村瀬秀甫(本因坊秀甫)らによって方圓社が設立された。
方圓社は明治、大正時代の囲碁界の中核組織となった。
これは大正13年の碁界大合同による日本棋院設立まで続いた。



● 郵便碁 8ヶ月かけ大熱戦
この方円社が活動の一環にとりくんだものに郵便囲碁がある。
いまの県代表クラスのアマ三戸与彰(岩手県南岩手郡在住)が4子局で村瀬秀甫に挑んだもので、明治16年6月から郵便囲碁がはじまり、なんと双方8ヶ月かけ、117手の棋譜を今に残した。



● 慶喜公 殿の力量アマ四段
静岡での慶喜。
この十五代最後の将軍はフランス語は学ぶ、自転車には乗る。
戊辰戦争後でも、ひまと金があるから多彩な趣味は百貨店なみの。
渋沢栄一なども、将軍のお世話をし苦労した一人たが彼の著作によると
この「逃げの将軍」の棋風は堅実。実力はアマの四~五段とか。

● 十六代 県代表の腕を持ち
川 家達は、徳川宗家16代当主。
趣味の囲碁はアマ・トップクラスで、大正15年に喜多文子五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。


● 獄舎でも1頭地を抜く巨怪王
「読売新聞中興の祖」として知られる大正力は戦前、大政翼賛会総務であったことを咎められA級戦犯として須鴨プリズンにあった。
実業家・正力松太郎は囲碁二段。
当時の初段は現在の五段相当だそうで、それが二段だから相当に強い。
岸信介も強かったらしい。
 死刑執行で明日をも知れぬ巣鴨プリズン雑居房で彼らは囲碁対局を楽しんだ。
一局だけで18日間の打ち碁をする。
碁石も碁盤も辛酸日々のなか、すべて手作り。
巨魁の棋譜がこの本に残された。
先の慶喜のを含め、並べてみた。

● 満州で棋院を起こした孤高棋士
師匠の本因坊秀哉(田村保寿)が引退、その家元が存続していれば本因坊を名乗れた人とのこと。
宮坂二(シンジ)は秀哉引退翌年の1938年に満州に渡り満州棋院を設立した。
日本棋院はこれを傘下組織としたが、宮坂は従わず両者は対立。
敗戦後は宮坂は伊豆下田に引き揚げ、日本棋院にも復帰せずに、地元で囲碁を教えた。

● お玉ヶ池 千葉の隣も大人気
伊藤松和は49歳で本因坊秀策とともに御城碁に初出仕、幕府より十人扶持を受けた。
神田お玉ヶ池の千葉周作道場の隣に教場を開きおおいに賑わったという。
天保四傑の一人として数えられた幕末の強手だとされる。
明治11年 78歳で没。

● さかなくんを育てた碁打ちはすごい人
剛打、剛腕の棋風で知られる宮沢五朗。
酒も強そうなお顔はよくテレビでもみかける。
このご子息が「さかな」くんであることはこの本を読むまで知らなかった。
父は囲碁を教えたそうだが、ご子息は人柄がよすぎ相手の少年の好手に拍手、拍手で碁打ちには向かなかったそうだ。

西湖でのクニマスの発見に貢献した「さかな君」は、いま東京海洋大学客員准教授。

●ダメ詰まり狙って勝つは不逞奴
一礼してから打ち碁がはじまる。勝負世界のガッツポーズは敗者への労わりがない。
頭脳スポーツの囲碁・将棋の世界ではこれはない。礼を重んじる。
でもわれわれの世界では一礼後の試合でダメ詰まりで勝負をひっくり返されることがある。
「ダメですよね、」と確認したあとにこういうことが起こるときがたまにある。
プロでも同様なことがあったとは、この本ではじめて知った。






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