八ヶ岳の麓 ログハウスの宿 Tombouctou 徒然記

八ヶ岳の麓、標高1,300mの富士見高原にあるログハウスの宿のオーナー雑記帳
地域情報、ガーデニング、グルメ、お出かけ

お散歩

2013-02-28 20:58:25 | 日記

今日は暖かく、買い物に行く時に車の窓を開けて運転しました。最高気温は8℃程まで上昇しました。

 

買い物で行った八ヶ岳実践大学の農場の直売所から、正面に真っ青の空に八ヶ岳が白く映えていました。

八ヶ岳実践大学の農場直売所の前から望む八ヶ岳、中央は阿弥陀岳。

手前の緑地は雪で真っ白です。この広大な広場は小さなお子様のそり遊びには最適です。

 

 
農場から望む蓼科山と北横岳

 

とても天気が良いので、宿に帰ってから裏の八ヶ岳の小道を散歩しました。

気温が上がってきたので、道の氷が大分柔らかくなって歩きやすくなりました。先週は凍結してスケート場の様でしたが、今回は硬めのシャーベット状態でした。

 

道の氷が柔らかくなったので、鹿が道を横断した跡が良く見えました。


道を鹿が横断した跡が良く分かります。

ここは獣道です。雪が有る時には鹿が通るところが良くわかります。

 

道を横断した後、獣道は林の中に続いていきました。

 


 鹿の獣道

 

鹿の獣道は、宿の周辺でも良く見ることが出来ます。いつも草が踏み倒されているので、夏でも分かり易いです。

 

この時期は散歩すると必ず鹿に会います。今日は山の中の林と別荘地の庭先で会いました。10mぐらいの距離まで逃げないで、こちらを伺っています。

 

 

 

 

 つい数日までは昼間の最高気温がマイナスだったのに、急に暖かくなりました。宿のテラスの雪も全部融けてました。融けて床が見えてきたところに、カブト虫がいました。まさか生きている訳ないよね。触ってみたらやっぱり死んでいました。多分、テラスの落ち葉の裏あたりで死んだのでしょう。雪の中で凍り付いていたからか保存状態は良く、まるで生きているように見えました。


テラスの雪の中から現れたカブト虫

 

この暖かさで氷柱も融けました。

つい先日まであった木にできたシャンデリアの様なツララ、暖かさでもう無くなりました

 

 


今日も 『寒いほどお得フェアー』 は50%引きでした

2013-02-26 22:46:16 | 日記

昨日は食事代金が半額でしたが、今日も『寒いほどお得フェアー』は半額でした。イベントのホームページをチェックしてみたら、ここ1週間はずっと半額でした。昨年は、半額の日が9日だったようですが、今年の方が日数が多かったみたいです。

昨日の半額に気を良くして、買い物がてらにランチに行きました。今日は、小淵沢の延命の湯の隣にある『森樹(しんじゅ)』で『虹鱒の梅酒煮膳』にしました。

通常は1080円ですが、今日は半額の540円でした。虹鱒を梅酒を用いて甘露煮風に煮てありました。虹鱒の生臭さもなく、骨まで軟らかくて美味しかったです。

店内には、半額であることを知っていて入ってきたお客様もいるようでした。

虹鱒の梅酒煮

 

食事の後、隣の建屋の道の駅小淵沢にあるパン屋さん『桑の実』に立ち寄りました。このパン屋さんもフェアーに参加していて、全品が半額でした(但し、5品まで)。おやつの為の菓子パンと今日の夕食と明日の朝用のパンを丁度5品買って帰りました。ここのパン屋さんも天然酵母を用いた個性的なパンを作っています。今日買ったパンでは、ライ麦ベースでナッツやオレンジピールなどがズッシリ入っているものが気に入りました。

 

私がお店に入った時には、他にはお客さんはいなかったのですが、お店の店員の方が『今日は半額ですよ。今月でフェアーは終わりで、半額は今日が最後かもしれませんよ』とアピールすると、あっという間に行列ができました。私も含めて皆さん、半額という言葉に弱いです。明日は少し寒さが和らぐらしいので、半額は今日で終わりかもしれません。

 

 半額のパン屋さん

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 イスタンブール ~ テヘラン

2013-02-25 23:42:07 | 旅行

 フェリーでボスポラス海峡を渡りイスタンブールのアジア側に着いた。ここから延々とインドまでの陸路の旅が始まる。

1973年当時もアジア・ハイウエーという名称はあったが、道路はハイウエーといっても舗装もされていない道であり、バスは乾燥したアナトリア高原を砂埃をあげて進んだ。

 

 乾燥したトルコ・アナトリアのアジア・ハイウエーを進む。

1泊目は、首都のアンカラに夜中に着いて、仮眠所で休んだ。

 

 

大きな町にはバス停留所がある 

 

 乾燥にも強い小麦畑だと思う

 

  

 バスに乗車していたトルコの子供

 

 

アナトリア半島の内陸部は高地性の気候で、8月でも子供たちも長袖であった。

 

日本と比較すると荒涼とした雰囲気のアナトリア(バスの車窓から)

 

トルコの田舎町(名前は不詳)

 

騎馬民族・突厥の末裔のトルコ人、子供も様になっている(東部のエルズルム付近)

 

トルコの東端、イランやアルメニア(当時はソビエト)の国境に近いところに、アララト山が見えました。アララト山は旧約聖書でノアの方舟が洪水から最初に漂着した陸地とされています。標高5137mなので、山頂は8月なのに雪で覆われていました。アララト山の向こう側はソビエト連邦(今はアルメニア)です。ソビエト崩壊後に独立したアルメニアは今でもアララト山はアルメニア領と主張しているそうです。

 

 車窓からアララト山を撮影

 

アララト山を通り過ぎるとイラン国境です。バス旅に疲れてクタクタになったところで、イランの首都テヘランに着きました。この当時は、パーレビ国王の時代で、テヘランは近代化が推し進められていました。

 

 テヘランに到着。イスタンブールかテヘランまで延々とバスに揺られ、睡眠はバス停の仮眠所の旅は疲れました。

 

 

 


今日は寒いので食事が半額でした

2013-02-25 20:58:57 | 日記

このところ宿の周辺の最高気温は、ずっとマイナスです。今日の朝方の最低気温はマイナス17度まで下がりました。昼間も最高気温がマイナス3度ぐらいでした。

今日は午後から用事で山梨県側に一寸出かけました。夕方、帰宅途中に小腹が空いたので、小淵沢の道の駅のレストランへ何か食べようと入りました。メニューに温サラダ・ラーメンというのがあり、さっぱりしていそうなのでオーダーしました。

温サラダ・ラーメン、出来あがったものは普通の野菜入りラーメンでした。


番号が呼ばれたので、セルフサービスのカウンターに取りにいった時、おばさんが何か言っていましたが、最初は良く聞き取れませんでした。もう一度聞くと、『今日は寒いので料金が半額になりました』と言って袋に入ったお金を返してくれました。

 


寒いので、料金の半額を返してくれました

 

ラーメンは、期待に反して温野菜がトッピングされた普通のラーメンでしたが、料金が半額になって得した気分です。

2年ぐらい前から八ヶ岳の南麓でやっているイベント『寒いほどお得フェアー』で、知っていましたが経験したのは初めてでした。半額になるのは清里駅前の午前10時の気温がマイナス5度以下になった日です。因みに今日の朝はマイナス10度だったらしいです。寒いわけです。

0度以下では30%オフ、+5度以下だった10%オフだそうです。

 

2月1日~2月28日の期間なので、もうすぐに終わってしまいますが、来年も実施すると思います。でも、今年みたいに寒いと、ちょっとお店は辛いかもしれませんね。

 

 

食事を終えて小淵沢から鉢巻道路へ入ると、道脇に鹿がいるのを見つけました。夕方は道に鹿が飛び出してくることがあり、衝突すると車も破損し、鹿も怪我をしたり死んだりしますの注意が必要です。特に、今の時期は道が凍結していて、急ブレーキはスリップ事故に繋がります。今日も、小淵沢のリゾナーレの付近の下りのカーブで乗用車がガードレールを乗り越えて林の中に転倒していました。

鉢巻道路の鹿、夕方~朝方まで道を横断することが多いので、車の運転には注意が必要です。

 

今日は小淵沢で車のスリップ事故を見ているので、鉢巻道路を注意深く運転して帰路につきました。家に到着した時、突然、庭から鹿が2頭飛び出してきました。庭で草木を食べていたようです。車を駐車場にいれて車を降りても、まだ直ぐ傍でこちらの様子を窺っています。今年は雪が多いので山で食べものが見つけ難いのでしょう。

 

庭にいた鹿、未だ食べたそうにこちらの様子を窺っています。

 

 

 庭には鹿の足跡が沢山残っています。毎年のことですが、今年は玄関に近いアプローチのところのバラの枝も食べています。

庭の鹿の足跡、

 

庭のコニファーは、冬も葉が緑を残しているので、鹿の餌食になります。コニファーは、鹿の口が届く高さまで葉が食べられて無くなってしまっています。

鹿に食べられて下部の葉が無くなったコニファー


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 イスタンブール (2)

2013-02-23 19:35:20 | 旅行

イスタンブールは古代ローマ帝国の流れを汲む東ローマ帝国(ビザンチン帝国の)の都でコンスタンティノープルと呼ばれていました。その当時の歴史的な建造物としてはアヤ・ソフィア大聖堂が有名です。

 

 

アヤ・ソフィアは最初はビザンチン帝国の国教であるキリスト教(正教)聖堂として建築されましたが、15世紀にオスマントルコに征服されてからイスラム教のモスクに改修されました。イスラム時代はモザイク画は漆喰で覆われていたそうです。漆喰で覆われて幸いです。バーミヤンの仏像の様に破壊されずにすみました。現在は宗教とは切り離されて博物館として公開されています。

 

歴史の教科書では小さな写真でしかなかったモザイク画が、壁や天井に大きく描かれているのを見ると感動しました。

イスタンブールは最初は西から来た東ローマ帝国(ビザンチン)で栄えて、その後東から来た騎馬民であるオスマントルコに征服されて栄えて、まさにシルクロードの東西交流を象徴する街であると感じました。

  

キリストとコンスタンティノス9世夫妻(11世紀)

 

40年前のフィルムカメラ(ペンタックス)で、今のデジカメのように液晶画面で写り具合を確認できなかったわりには、チャンと写っているのに自分でも驚いています。写真が趣味でもなく、殆ど素人に近かったのに。

 

聖母子とヨハネス2世夫妻(12世紀)

  

 聖母子に献上する皇帝(11世紀)

中央に聖母子、

右はコンスタンティノープルの町を献上するコンスタンティヌス1世、

左はアヤソフィアを捧げるユスティニアヌス1世

 

 

オスマントルコ時代のモスクでは通称ブルーモスク(スルタン・アフメットモスク)が素晴らしいです。名前の如く、内部がほんのりと青みを帯びています。このモスクは今でもイスラム教のモスクとして使われています。イスラムのモスクは青い色のタイルが良く使われている気がします。

 

ブルーモスク

 

 ブルーモスクの内部



オスマントルコ宮廷として使われていたのが、トプカプ宮殿です。内部は博物館になっていて、豪華な宝石や陶器がありました。また、1000人もの女性がいたハーレムの跡などもあったと記憶に残っています。

 トプカプ宮殿(上、下)

 

イスタンブールでは食事も美味しく、また衛生的でもありました。イスタンブールを堪能したので、次に目指す都市を何処にするか思案です。色々と交通を調べると、イスタンブールからイランのテヘランまでのバスがありました。料金も安いので、直行バスにしました。

 

現在のイスタンブールでは、ヨーロッパ側からアジア側へ移動するのは橋があるそうです。更に、海底トンネルも作っているようです。

その当時は、橋が無かったのでフェリーでアジア側に渡りました。 

 アジア側を目指してバスでフェリーに乗船、

 

 

 このバスは、ミューハンツアーという名前で、西はドイツのミューヘン辺りから、東はテヘランまで走っていました。ヨーロッパに出稼ぎに行くトルコ人やイラン人などの他、ヨーロッパの若者・ヒッピーなどが安いバス便を利用していました。

 

このバスでテヘランまで直行しましたが、途中で休憩所の様なところで仮眠しながら行きました。2泊か3泊ぐらいの所要時間だったと思います。このバスはベンツで外観は良いのですが、中にあるトイレは何故か使用禁止でした。

 

 テヘラン行きのチケット

 

 

 


今日は天気が良いです。買い物に行く時にキジに会いました

2013-02-23 17:02:31 | 宿のこと

今日、買い物に行く途中に宿の入り口でキジに会いました。一寸車を止めて、携帯のカメラで撮影しました。携帯のカメラの性能も随分と向上したものです。

 

今年の冬は庭でキジを5回ほど見ました。近くに巣があるかもしれません。 

+
宿の入り口でIphoneで撮影

 

でも、一眼レフと比べると差は明らかです。


先週、庭にいたキジ。一眼レフで撮影。

 

今日は、チェックアウトのお客様が早めにお帰りになったため早めに片づけが終わり、チェックインのお客様はご夕食を外でお召し上がりになるので、買い物を終えれば夕方からはほぼ自由時間です。更に今日チェックアウトとチェックインのお客様方は皆様リピーターの方々なので、精神的にもリラックスムードです。

 

今日、買い物で車を運転中、天気があまりにも良いのでドライブにでも行きたくなりました。気温はこのところ最高気温もマイナスのことが多いのですが、日差しは暖かく感じるこの頃です。

 

 

八ヶ岳(携帯のカメラ)

 


甲斐駒と鋸岳(携帯のカメラ)

 

お客様にお出しする食材は蓼科自由農園とAコープ(農協のスーパー)が主な購入先です。蓼科自由農園は民営の道の駅の様なお店で、諏訪地方を中心に信州産の新鮮な野菜の品揃えが良いです。品質も良いので別荘族にも人気で、お土産に買って帰る方も多いです。Aコープにも地元の農家の野菜コーナーがあり新鮮さがウリです。


蓼科自由農園(原村店)

 

 
最近は、隣にレストランとべーカリーも併設されました。ここのベーカリーのバケットはなかなか美味しいです。

 

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 イスタンブール(1)

2013-02-21 20:49:19 | 旅行

イスタンブールでは見どころが多い旧市街で安宿を探しました。トルコ人や欧米の若者が泊まるOtel(トルコの宿の意味)で値段と部屋を見せてもらって決めるのが鉄則です。

その当時の我々が泊まる宿のトイレはトイレットペーパーが無いのが普通で、トイレには水差しが置いてあり、その水を手でお尻にかけて済ませる。このスタイルがインドまで続いた。


イスタンブールのガラタ橋近くの安宿で寛ぐ私。ガラタ橋の傍では魚のフライなどの屋台がありました。

 

 トルコ人は一般的に親日的です。これは、日本が日露戦争で帝政ロシアを破ったアジア人であることが大きいようです。帝政ロシアの南下政策によってトルコは何度も領土を奪われており、ロシアを破った同じアジアの日本に好意を持っています。また、トルコ建国の父といわれる初代大統領ケマル・アタチュルクが明治維新を真似た改革を進めたことも影響しているようです。

道端で夕涼みするイスタンブールの人たち、日本人には好意的です。

 

イスタンブールでは子供からも日本人は人気がありました。その理由は、その当時、流行っていた香港映画の影響で日本人はみんな空手が強いと思っているようでした。空手の格好をすると子供たちは大喜びでした。

 

トプカプ宮殿の警備の兵隊と私、兵隊ものんびりとした時代でした。

 

 


街角の水売り

 

イスタンブールには中東でも最大クラスのバザールがあります。そのグランドバザールは網の目の様になっており香料や衣類、宝石など色々な物が売っていました。アラビアンナイトで出てくるようなバザールでした。ここでは、羊の毛皮でできたチョッキを買い、帰国後スキーに行くときに良く持っていきました。今でも持っています。


グランドバザール

 

 

イスラムの国ではコーランが朝から拡声器で町に流れます。1日に5回ぐらい流れたと記憶しています。

我々の泊まった宿の部屋にもメッカの方向が分かるようになっていて、旅人が持参する小さな絨毯をしいてお祈りをするようでした。

 


夕暮れのモスクのミナレット


くらすわでランチ

2013-02-21 19:03:45 | グルメ

今日は天気が良いので諏訪湖までドライブしました。

 

ランチは諏訪湖畔にあるくらすわにしました。くらすわは養命酒を製造している会社のアンテナショップのようなお店です。1階がショップとイート・イン、2階がレストラン・カフェです。

 

何回かショップとイート・インには入ったことがありましたが、ランチは食べたことがありませんでした。メニューを見てみるとサラダバーがあるのに気が付きました。ゆったり食べるランチの時にはサラダバーがあるお店が好きです。

 

今回は、鶏肉と雑穀米のドリア(1100円)とサラダバー・ドリンク(+300円)をオーダーしました。合計で1400円です。ゆったりランチとしてはまあまあのお値段です。

 

サラダは信州産の新鮮野菜がタップリおいてありました。野菜は生野菜、焼き野菜、温野菜など10種以上ありました。ちょっと変わったところでは、キノコの”はなびら茸”、しゃぶしゃぶのように自分で湯通しして食べます。1階のショップで売っているパンもあります。このパンは何回か買ったことがありますが、結構おいしいです。

 


サラダバー 種類も豊富で新鮮な信州産

 


メインは鶏肉と雑穀米のドリア、意外とサッパリとしていて美味しかったです。

 

レストランは平日で、ラスト・オーダーチョット前に入ったのに混んでいました。地元の人が多いようでした。

値段と美味しさからお薦めのお店です。

 


諏訪湖が見える席もあります。


1階のお土産コーナー、美味しいパンの売り場とイート・インのコーナーもあります。

 


つるし飾り。 信州上田地方で初節句を迎えた女の子の家で飾るそうです。

 

店内には信州に関係するディスプレーもあります。今回はつるし飾りでした。吊るしてあるのは、猿(災いがサル)、唐辛子(悪い男がつかない)、巾着(お金がたまる)などをモーチーフにした布製のオーナメントです。

 

 

腹こなしに、諏訪湖畔を少しお散歩しました。 湖面は氷が未だ結構ありました。

 
岡谷側からはうっすらと雲に隠れた富士山が見えました。

 


諏訪湖からの八ヶ岳(横岳、阿弥陀岳、赤岳、権現岳、西岳、編笠山)

 

 

今日は風が大変冷たくて、手袋をしなかったので手が凍えました。

 


散歩

2013-02-20 19:01:47 | 日記

確定申告の書類を作成中ですが、天気が良いので気分転換に裏の山を散歩しました。宿の裏山は八ヶ岳です。登山道に抜ける小道を散歩しました。

雪が大分残っていて、車の轍の跡はアイスバーンになっていました。この道は急な斜面もあるので、雪が有る時には私は車では絶対行きません。

凍っていない雪の部分を歩きます。

 

昨年の春に生まれた小鹿のようです。

 母親と一緒の様です。

 

今日は、50頭ぐらいの群れで移動していました。キャンという警戒音を発して移動していきました。

 

 散歩から宿に帰ってテラスで休んでいると、ヒガラの群れがバラのアーチに来ました。そのうちの一羽が雨樋に入りました。良く見ると、水浴びをしながら水を飲んでいました。雨樋には屋根の雪が融けた水がたまっています。この雨樋は、雪解けの水が溢れるので中の氷を午前中に私がどけておいていたものです。小鳥にとってはこの時期は融けている水は貴重です。

 

 

 水浴び後の身震いをしているヒガラ

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 イスタンブール~アテネ

2013-02-19 20:01:19 | 旅行

イスタンブールも出航してエーゲ海に向かいます。

ヨーロッパとアジアを隔てるダーダネルス海峡を通過  

 

空も海も真っ青でしたが、写真のフィルムも40年も経つと変色が大きです。

 

エーゲ海は穏やかで、透き通るような青い空と海の間に石灰岩の白い島が浮かんでいました。クルーズ船ではありませんが、大変贅沢な気持ちになりました。

 

 

アテネ郊外の港町のピレウスに到着です。ピレウスは現在もクルーズで有名です。

ピレウス港

 

いよいよギリシャに上陸です。ここまでは、事前に旅程もホテルも予め決めてありましたが、ここからは宿も交通手段も決めて無い、気ままな旅です。先ずバスでアテネに向かいます。

アテネはユースホステルに泊まろうと思っていたので場所は事前に調べておきました。日本国内のユースホテルは利用したことがありましたが、海外のユーズホテルは初めてです。取りあえず空いていたのでチェックインしました。男も女も関係なく多段ベッドの一つを使います。かなり身の回りのものは注意して保管した方が良い雰囲気でした。

アテネについても事前調査なしなので、ユースホステルから歩いて行ける定番な観光地に行きました。

 

 

 

 

旅では食事も楽しみです、現地の食事を食べるのが好きです。アテネでは若者が集まるタベルナでウゾを飲み夜遅くまで歩き回りました。アテネでは皆が夜遅くまで飲食しているのに驚きました。水と混ぜると牛乳のように白濁するウゾをこの時初めてのみました。強い酒だと知らずかなり酔っぱらいました。

タベルナ、覚えやすいですね

 

欧米の若者が多かったです。

 

 

国会議事堂前の無名兵士のモニュメントの衛兵

 

 アテネの公園(多分、シンタグマ広場)、鳩が多いです。

 

アテネに3泊ぐらいしました。その間に、イスタンブールまで戻る交通機関を飛行機に決めチケットを購入しました。エアラインは富豪のオナシスが経営するオリンピア航空でした。

 

いよいよ気ままなシルクロードの旅に向かいます。まずはイスタンブールへ。


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 オデッサ~ルーマニア~イスタンブール

2013-02-18 18:18:04 | 旅行

オデッサから再びソビエト船で出発です。この船の寄港地はオデッサを出航した後、ルーマニアのコンスタンツ、トルコのイスタンブール、ギリシャのピレウスを経由してエジプトのアレキサンドリアに到着します。私たちはピレウスまで乗船しました。

 

オデッサから乗船した日本人は私たち2名以外には高校の先生と若いカップルの合計5名だったと記憶しています。高校の先生をしている方は夏休みを利用してトルコ旅行に行く途中だそうでした。

 

 


黒海を進むソビエト船 私、高校の先生、友人のT氏

 

 


穏やかな黒海の夕暮れ

 

 

最初の寄港地のルーマニアのコンスタンツに着きました。数時間の寄港ですが、上陸して町を散歩しました。


コンスタンツは紀元前から存在する古い都市で古代ギリシャや古代ローマの植民地だったそうです。ルーマニアで最大の港町で保養地です。

 

 ルーマニアの名前が古代ローマ帝国の植民地から由来しているように、ローマ時代の遺跡があります。

 

 

市街地を馬車が荷物を運んでいました。

この当時、ルーマニアの大統領はチャウシェスクでソビエト政府から距離をおいた姿勢が西側にも評価されていました。日本にも正式訪問しています。しかし、共産主義政権の崩壊時はテレビでもその姿が放映されたように惨めのものでした。

 

 

 

 船はボスポラス海峡を通過してイスタンブールに到着しました。船からモスクが沢山見えてイスラムの国に来たと感じました。ここイスタンブールでは、下船せずギリシャまで行ってから、また再びイスタンブールに戻ります。

 

 

 ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は戦略的に重要であるため米国の空母が配置されていました。ソビエトの黒海艦隊への対峙や中東諸国への睨みを効かせるためです。

 

 

イスタンブールを出航して、ダーダネルス海峡を通ってエーゲ海に向かいます。 

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 モスクワ~オデッサ

2013-02-18 00:18:54 | 旅行

モスクワから黒海沿岸のオデッサに向かいます。オデッサまではウクライナを鉄道を使って1泊2日ほどで到着です。

 

車両はコンパト―メントで私の友人とキプロス人とスーダン人の合計4名の個室でした。彼らはソビエトに留学生ている学生で、夏休みで国に帰る途中でした。

 

ウクライナの延々とした穀倉地帯を進みます。黄色一面のひまわりの畑もありました。この当時公開されたソフィア・ローレン主演の映画『ひまわり』もウクライナが舞台でした。

ウクライナ首都のキエフ駅で、友人のT氏と私。T氏とはイスタンブールまで一緒でした。

 

 

最近、60歳台になって暇が出来たため学生時代の仲間と集まることが多くなりました。T氏がいつも幹事をしてくれています。 


 コンパートメントで一緒のキプロス人が隣のコンパートメントの女性のところにいって声をかけました。彼女たちはロシア人の学生でサマースクールに行く途中とのことでした。彼女たちのコンパートメントでロシアのトランプを教えてもらいました。日本のトランプとは数字も枚数も違っていて、良くわからなかったけど楽しかったです。

 

黒海沿岸のオデッサは交易で栄えた港町です。石畳の道の両側から大きな街路樹が心地よい日陰を作ってくれて、町並みはヨーロッパの様な雰囲気でした(でも、この時は未だヨーロッパには行ったことは無いけど)。

 

ホテルも木造の古い趣のあるホテルで、ディナー時には楽団が生演奏してくれました。ここまで来ると日本人は殆どいませんでした。

 

オデッサの街並み

 

 旧ソビエトの旅では新しい町に付くと、インツーリストから手配されたガイド兼通訳が町を無料で案内してくれます。モスクワでは日本人が他にもいたので団体バスで案内されましたが、オデッサでは私と友人の2名だけに1名の案内が付きました。オデッサで付いた案内人は英語を学んでいる大学生とのことでした。

 

彼女の案内は英語でしたが、あまり外国人と英語で話す機会が少なくて会話が上達しないと言っていました。私たちと会話して勉強になったと感謝されました。こんなこと言われたのは、今までも含めてもこの時だけでした。

 

 

 案内は強制的にされます。コースも観光以外に共産主義賛歌の記念碑などを案内されます。多分、外国人への監視も兼ねていたものと思います。

 ナチスに勝利した記念碑、少年少女が守っていました。

 

 オデッサには『戦艦ポチョムキンの反乱』で映画史上有名な場面の階段があります。この階段の場面の撮影技法は後の多くの有名映画にも影響を与えています。

 

戦艦ポチョムキンの反乱の階段


横谷渓谷の氷瀑

2013-02-17 23:24:46 | 旅行

天気が良いので今日の朝は放射冷却で冷え込んで、最低気温がマイナス17度でした。明日は天気があまり良くない様なので、お散歩は今日の午後にすることにしました。

宿から車で20分ほどのところにある横谷渓谷に氷瀑を見に行きました。冬の散歩コースにオススメです。

横谷渓谷へ通じるメルヘン街道からの八ヶ岳

 

横谷渓谷は紅葉が綺麗ですが、冬の凍りついた渓谷や滝もなかなか良いです。横谷温泉の入り口に乙女の滝があります。道路から急な斜面を下りるとありますが、2度ほど滑って尻餅をつきました。

乙女の滝

 

横谷渓谷の遊歩道を進んでいくと、雪が結構残っていますが、踏まれているので靴に雪が入るようなことはありません。トレッキング用の靴ぐらいでも大丈夫です。王滝の方まで行くのでしたら斜面が急になるので、アイゼンなどがあった方が良いかもしれません。

 

 

 川の水の飛沫が凍りついて自然の造形美です。

 

 

横谷温泉の入口から歩いて20分ほどで断崖から滴る水が凍った氷瀑が見られます。気温はマイナス5度以下だと思いますが、1時間半ほど雪の中を歩き回ったので、体はポカポカでした。

 

 

 


氷瀑の脇の川沿いは40cmほどの積雪でした

 

 


動物が川に水を飲みの来たのでしょうか? 大きさから小さい動物の様です。

 

 

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 モスクワ

2013-02-14 23:22:00 | 旅行

 旅行の目的はシルクロードだったので、モスクワのことは殆ど調べてありませんでした。そこで、定番の赤の広場に行ってみることにしました。

赤の広場は、ソビエト各地からレーニン廟にお参りする人で行列ができていました。顔を見るとソビエト国内の色々な人種の人が来ていました。その当時、ソビエトが崩壊すると考えていた人は皆無だった思います。 


レーニン廟の行列

 


赤の広場で写真を撮ってくれと頼まれました。ロシア語で住所・氏名を書いてもらって後日郵送してあげました。 

 


赤の広場の聖ワシリイ大聖堂

 

同級生の母親に琥珀を頼まれていたので、赤の広場に面しているグム百貨店に出かけました。グムは国営の百貨店で大きなアーケードが特徴です。パリのパッサージュの様な感じです。ソビエトでは商品が欠乏していると聞いていましたが、グムの中では豊富な食品をはじめ色々な物が売っていました。政府が特別扱いしていたようです。

国営百貨店グムの内部、とてもお洒落な雰囲気です

 

モスクワで見かけた結婚式の車。この後、これらのカップルに会い、写真を撮ってあげました。

 

 

 

クレムリン

 

 続きはまた後日・・・・・

 

 

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 ナホトカ~ハバロフスク~モスクワ

2013-02-13 22:06:34 | 旅行

 横浜港を出て2日でソビエトのナホトカに到着です。今はウラジオストック港が使われることが多いようですが、その当時、ウラジオストックは軍港で外国人は立ち入りできませんでした。また、当時は駅や空港、港などは写真撮影は禁止されていました。更に、ソビエト国内の移動とホテルはソビエト側が予め決定していて、勝手に変更することは出来ませんでした。

ナホトカで入国検査をした時に、両替したルーブルの金額の証明書を出国時にも必要だと言われました。入国時に両替したルーブル、買い物で使ったルーブル、出国時に残ったルーブルの収支が合わないと、闇ドル交換と見なされることがあるためです。その当時、ソビエトではドルを欲しがる人が多く、闇でドルとルーブルを交換するとかなり高いレートで交換できるとのことでした。但し、かなりの危険が伴ったことは確かでした。

 いよいよ、ナホトカからソビエト国内の移動が始まります。ナホトカからはシベリア鉄道で出発です。


極東のシベリア鉄道の始点、ナホトカ

 

 ナホトカからのシベリア鉄道で極東の中心都市ハバロフスクへ向かいます。途中は森と沼が延々と続くタイガです。時々、駅らしきところで地元のおばさんがバケツに入った小さなリンゴを売りに来ました。日本のリンゴと比べるととても小さかったです。

シベリア鉄道では、車掌さんがジャムが入っているロシアンティーを運んできてくれたことと大きな洋式便器が記憶に残っています。大きな便器の便座は木製だった思いますが、それが私の様な日本人には大きくて便座からお尻が便器の中に落ちそうになりました。

ハバロフスクで1泊して、モスクワに国内線の飛行機で向かいました。交通運賃はシベリア鉄道の方が安いのですが、確か2週間ぐらいかかりました。その間の客車内での食事代金を勘案すると、ソビエト国内線の飛行機利用の方が結果的には安くなりました。しかし、飛行機(多分、イリューシン)は旅客用とは思えないような代物で、椅子を取り外すと軍用機に転用できるような航空機でした。乗っていて少し不安になりましたが、無事モスクワに到着しました。この時初めて時差というものを実感しました。

 モスクワではウクライナホテルという高級ホテルが宿として指定されていました。ホテルは旅行者が選ぶことは出来ません。ウクライナホテルはスターリンが建てた高層ビルの一つだそうで、今も4★ホテルとして使われているそうです。

その当時、高級ホテルのウクライナホテルでもシャワーからお湯が出ませんでした。外観は圧倒されましたが、設備は十分のものではなかったと記憶しています。

外観には圧倒されたウクライナホテル

 


ウクライナホテル客室からのモスクワ夜景

 

 このウクライナホテルは名前のごとくウクライナ方面に鉄道で行くのには便利な立地でした。モスクワの続きはまた明日にでもしましょう。