八ヶ岳の麓 ログハウスの宿 Tombouctou 徒然記

八ヶ岳の麓、標高1,300mの富士見高原にあるログハウスの宿のオーナー雑記帳
地域情報、ガーデニング、グルメ、お出かけ

40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 テヘラン~アフガニスタン・ヘラート

2013-03-28 18:23:35 | 旅行

シラーズのシシカバブにあたって体調が充分ではないなか、テヘランからアフガニスタンに向かって出発しました。先ずは、イラン北東部のシーア派の聖地メシェッドに向かいました。

テヘランからのメシェッド行きのバスは夜行バスでした。テヘランから、標高3000m級の山が連なるエルブルズ山脈を超えてカスピ海沿岸に出ました。夜中ですが、カスピ海が微かに見え皮膚は湿度でベタツク感じでした。イランにも日本の様な気候の場所が有るとは思いませんでした。

 

翌日の昼ごろにメシェッドに到着、メシェッドでアフガニスタンのビザを取得しました。何とかアフガニスタンに入国できそうである。実は、この年の7月にアフガニスタンでは、国王のザヒル・シャーがイタリアで目の治療中をしている時に従兄弟のダウド元首相がクーデターを起こして王政から共和制に移行しました。入国できるか少し不安でしたが、2週間ほど前に国境が開いたそうでした。

 

シラーズからテヘラン、テヘランからメシェッドと夜行バスの旅は体調不良もあり、かなり疲れており写真は全く撮っていませんでした。

 

メシェッドに宿泊後、イラン・アフガニスタン国境に向かい簡単な検査でアフガニスタンに入国できました。アフガニスタンでは先ずヘラートに向かいました。

アフガニスタンに入国

 

 バスの旅は夜行のことも多く、疲れます

 


ヘラートに到着、ヘラートの主要交通機関は馬車です。クーデターがあったような雰囲気は感じられませんでした。シャー(王様)が変わったぐらいしか思っていないようでした。しかし、この時が王政の終わりで、この後は国内が少しずつ不安定になっていくことになりました。

 

 


ヘラートのメインストリート、ヘラートはアフガニスタンで3番目に人口が多い町です。

 

 

着飾った馬

 

ヘラートの街並み、女性はチャドリを着用していて顔は見えません。トルコやイランとはかなり違いました。

 

ヘラートの靴屋さん

 

ヘラートの町外れにあった古い風車、小麦を挽いていたのでしょうか? ヘラート地方の風車の歴史は古く、中国やヨーロッパの風車に影響を与えたそうです。

 

 ヘラートの町外れにあった古い壊れたミナレット。13世紀のモンゴル軍の侵略の時のものでしょうか?廃墟の中に遊牧民がテントを張っていました。

ヘラートの子供たち

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 シラーズ~ペルセポリス

2013-03-19 22:26:56 | 旅行

 イスファーンからシラーズ郊外のペルセポリスに向かいました。驚いたことに、真夏のせいなのか人が観光客が殆どいませんでした。歴史の教科書にも登場するペルセポリスを独り占め状態でした。

ペルセポリスはアケメネス朝のダリウス1世が紀元前6世紀に建設した都です。その後、紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王の東方大遠征で破壊されてしまいました。この大遠征で、アレキサンダー大王はアフガニスタンのカイバル峠を超えてインドまで到達しています。

 

 人面有翼獣神像

 

 

 この時は一人だったため、三脚でタイマー撮影でした。

100柱の間の入り口の馬の彫刻

 

 

 百人のレリーフ

 

 

ペルセポリス全景

 

1971年にはパーレビ国王が国威高揚のためイラン建国2500年祝賀式典がペルセポリスで行われました。私の訪問した時に式典で使われたと思われる看板が立っていました。式典には日本からも三笠宮が出席されたそうです。

 

 

 

 

ペルセポリスからシラーズに向かいました。シラーズはイスファーンの様な華やかさはありませんが、学問や芸術が花開いた古都です。

 

 シラーズのヴァキール・モスク

 

 ヴァキール・モスクでお祈り中の人

 

 

 シラーズの街角で、何処でも子供達は好奇心が多く、直ぐに寄ってきます。

 

 シラーズの通りの露店、色々な物が売っています。

 

 

 上の写真の女性も下の写真の女性もカシュガイ族の様です。カシュガイ族は遊牧民で黒っぽいテントに暮らしています。カシュガイの女性は着飾るのが好きで、色とりどりのドレスのようなものを着ているので直ぐに判別できます。

 

カシュガイの手織りの絨毯はギャッベとよばれ、大分前から人気が高まっています。元々は遊牧民が使う素朴な物でしたが、最近は高級化しています。素朴な模様と色合いが特徴です。シラーズ周辺にはカシュガイ族が多く住んでいます。

 

 

 私もシラーズで手織りの古いクッションを買いました。今は宿のインテリアとして飾ってあります。縁に白い貝が縫い付けてあるもので、遊牧民がテントの中で使ってものです。

 

 シラーズで買った古い手織りの絨毯クッション

 

シラーズからテヘランには夜行バスで戻ることにしました。夕方、露店でシシカバブを食べバスに乗り込みました。

しかし、途中で腹痛がしてきました。我慢が出来ないのでバスの運転手にバスを止めてもらい、闇夜の砂漠の中で用をたしました。バスに乗り込みましたが、直ぐに下痢が始まります。5、6回繰り返すうちに、ついにバスから降ろされました。もうその時には、脱水症状で意識も朦朧としていましたが、私の荷物も誰かが窓から降ろしてくれました。

降ろされたところは、無人の砂漠の中の小さな小屋で、その屋上で寝袋に包まって朝まで過ごしました。色々と抗生物質を飲んだせいか、また、出るものが無くなったのか、下痢は止まりました。翌日のバスでテヘランまで戻りました。この事件から、暫らくはシシカバブを見ると吐き気がして食事ができませんでした。テヘランの高級スパーで食料品を買ったり、その後は日本人に馴染みがあるチャイニーズレストランで食事をするなど3、4日は現地の物を食べる気がしませんでした。

 シラーズのバスの発着場

 

 


春の気配、ジョウビタキも飛来

2013-03-18 23:30:30 | ガーデニング

このところの暖かさで、バラの鉢をガーデニング小屋から出すことにしました。外に出して鉢の中の土を触ってみると、土は既に解凍していました。少しずつ土を替えていく予定です。

 

 ガーデニング小屋から出したバラの鉢

 

庭の地植えのバラの冬囲いも取り払いました。地植えのバラの根元は、日当たりのあまりよくないところでは未だ凍っていました。日陰では未だスコップも入りませんでした。取りあえず安価な発酵鶏糞とBMマルチサポートとBM熔リンを撒きました。

 

 昨日、今年初めて庭に出て庭作業を開始しました。昨年より1週間ほど早いのですが、今年の桜の開花は非常に早いとのことなどで庭作業を早めました。昨年、庭いじりを開始した時にジョウビタキが飛来したのを確認しました。今年も外に出ていると、なんとジョウビタキが来ていました。写真を撮ろうと試みましたが未だ撮れていません。今年で4年連続のジョウビタキの飛来です。ジョウビタキは通常、日本では冬鳥で、春が来るとシベリアや大陸に渡り繁殖して、冬に日本に戻ってきます。しかし、宿では冬は寒いので日本の暖かい地方に移動していません。春に繁殖のために戻ってきます。日本の本州では、宿が唯一、繁殖が確認できた場所です。今年はどこに巣を作るのでしょうか?

 

 庭にも春の気配がします。クリスマスローズも開花していました。

 水仙も葉が伸びてきました。もう少し落ち葉に隠れていた方が鹿に食べられないのですが。

 

庭のドウダンツツジの茂みの中に野鳥の巣がありました。昨年使ったものの様です。どんな野鳥が使ったのでしょうか?

 

 

 

 

 

 


上田ルヴァン再訪

2013-03-17 21:19:51 | グルメ

先週は確定申告の締切でした。締切の1日前になんとか完成したので気晴らしに出かけました。

天気が良かったので、ドライブがてらに上田のルヴァンに行くことにしました。このところの暖かさで白樺湖経由でも路面の凍結の心配はなさそうです。

途中、八ヶ岳、甲斐駒、中央アルプスの山々が綺麗でした。雪がほとんど融けて春の気配です。

八ヶ岳

 

甲斐駒

 

中央アルプス

 

白樺湖経由で2時間ほどで上田に到着です。上田には北国街道の古い町並みが少し残っています。

 

古民家の一角がルヴァンです。

今回は2階にある喫茶コーナーで休憩です。ランチタイムは終了していたので、3種類ほどの量り売りのパンとコーヒーを買ってランチにしました。ここも富ヶ谷のルヴァンと同じにパンは量り売りです。

ルヴァンの隣は造り酒屋です。岡崎酒造という古くからある酒蔵です。亀齢(キレイ)というブランドのお酒を造っています。同じ名前のお酒が東京でも売っていますが、これは広島の酒蔵のものだそうで、関係はないそうです。こちらの方が古くからあるそうです。吟醸生酒と新鮮な酒粕を購入しました。

酒蔵にはお雛様が飾ってありました。江戸時代のものもありそうです。

 

大きな酒樽の茶室

 

酒蔵の隣には、日本一小さなワイナリーとして雑誌にも載っている『はすみふぁーむ』のショップがありました。上田の隣の東御市にワイナリーはあります。東御市はワイン特区で通常より少ないワイン製造能力でも認可を得ることができるそうです。

ここでは、シードルを購入しました。そのうちに味見してみましょう。

はすみふぁーむのワインショップ

 

 

 

 

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 イスファーン (2)

2013-03-15 22:44:37 | 旅行

イスファーンのイマームモスクは大変美しいことで知られています。下の写真はイマームモスクのイーワンです。イーワンとは3方が壁で囲まれて天井がアーチ状になっている建造物です。

ここのイーワンの天井はムカルナスという凸凹状の立体的な装飾があることが特徴です。ムカルナスはイランのモスク建築の特徴だそうです。タイルの平面的な幾何学装飾とムカルナスの立体的装飾とが連続的に重なり合って宝石のような美しさです。

 

イマームモスクのイーワン

 

イマーム広場で会ったイランの大学生と一緒の写真です。彼らは大学で石油工学を学んでいるそうで、日本の大学に留学したいと言っていました。

当時はパーレビ国王が石油輸出で得てお金で近代化を進めており、イラン国内にも日本企業と協力して石油精製基地を建設する計画が進んでいました。そのことで彼らが日本に憧れていたのかもしれません。その石油基地はイスファーンから更に南下したシラーズ、そこから更に進んだペルシャ湾のバンダル・シャプール(現バンダル・ホメイニ)に建設される予定でした。

しかし、ご存知の方も多いと思いますが、この計画はイスラム革命やイラン・イラク戦争などの影響もあり多大な損失を出して失敗に終わりました。

これに関連したニューズが最近ありました。このプロジェクトは革命後もイランが執念を燃やしていたこともあり、長期間のイラン・イラク戦争の最中でも爆撃されたプラント修理や調査に日本人の派遣が要請されていました。そのような中、イラクが攻勢に出て日本人が危険なイランに置き去りにされた状態になりました。イラクのサダムフセインが撃墜の警告を出しているなか、トルコ航空のパイロットが救出に向かい日本人をトルコまで連れ帰ったという話です。後に、パイロット達に日本政府は勲章を授与いたしましたが、今年の3月にこのパイロットが亡くなったとの記事が出ていました。

 

 イランの大学生と私

 

 

 

 

イマーム広場に隣接して大きなバザールがあります。その中に、ペルシャ絨毯を織っているところがありました。ペルシャ絨毯は大変高価で、バザールでも私たちの様な恰好をしていた若者が買える訳ないという感じで相手にされませんでした。

 

 イスファーンにはいたる所に水が引き込まれていて、夜になると光が反射して大変綺麗でした。

 

余談ですが、その当時のイランではいたる所がライトアップされていました。電球はマツダランプが多く使われていると言われました。マツダはイランの宗教であった拝火教(ゾロアスター教)の最高神のアフラ・マズダに由来する命名だそうです。因みにマツダランプは米国GEの電球のブランド名で日本では東芝がマツダランプとして製造販売していましたが、現在はその名称を使っていません。昔の街並みの写真などにはマツダランプの看板が写っていることが良くあります。

 

 

 

 


40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 テヘラン ~ イスファーン

2013-03-01 20:31:03 | 旅行

イスタンブールからインドさらにネパールのカトマンズに至るルートは別名、ヒッピー・トレイルとも呼ばれていました。私の様にバスを乗り継いでいったり、ヨーロッパの若者だとオンボロ自動車を運転していく人もいました。これらのバックパッカーの人たちの間には情報交換するところがありました。それは、主に安ホテルです。何処の町や場所が良かったとか、どのホテルが安くて良かったとか、ドルの交換レートは何処ではいくらだったとか、色々な情報を仕入れます。このようなバックパッカーの報報を自らのシルクロード横断旅行の経験に基づいて作られたのが、旅行ガイドブックの世界最大手のロンリープラネットの出発点です。創設者たちは私たちと同じ年に旅をしたようです。日本でも、似たようなガイドブックとして『世界の歩き方』が、数年後に発行されました。現在の『世界の歩き方は』のターゲットはもう少しリッチな人たちの様ですが。

当時、テヘランでは、アミール・カビール・ホテルがヒッピーを中心としたバックパッカーの定宿の様でした。大分後の時代でもそのホテルはバックパッカー用として残っていたようです。

そこで、テヘランに到着してそのホテルを探しましたが、なかなか見つかりませんでした。その当時、イスタンブールで仕入れた情報のホテルの名前は、アメリカーナ・ホテルでした。耳で聞いた響きが、アメリカーナで、その当時は親米のイランでは有りうる名前です。今の反米イランでしたら有り得ない名前です。そんな訳で、アミール・カビール・ホテルに宿泊できたのか否かは、今でははっきり覚えていません。しかし、同じようなヒッピー向けの安ホテルで色々な情報を仕入れました。

さて、色々な情報からテヘランから真っ直ぐにアフガニスタンに向かうか、どこか横道をするか迷いました。友人はテヘランからアフガンに直行することにしましたが、私は折角なので旅行者から評判の良いイスファーン、シラーズに一人で寄っていくことにしました。

 

テヘランから南へ300km程のところにあるイスファーンにバスで向かいました。途中、広大なカビール砂漠の西端を通りました。

 


カビール(塩)砂漠の名前の如く、岩塩が遠くに見えます。砂漠と言っても石や礫がゴツゴツしています。

 

 

バスの旅では、オワシスで暫し休憩です。8月なので日中の気温はかなり暑かったですが、湿度がとても低いので日除けしていれば日本の夏より過ごしやすいです。

 

途中、シーア派の聖地のひとつであるコムを通過、現在はゴムと言うらしいです。この町には、後にイスラム革命を主導するホメイニが学び教えた宗教学校があり、現在ではイランの宗教保守派の牙城だそうです。


クムのモスク

 

テヘランからイスファーンまではバスで1日の旅です。バスから降りるとホテルの勧誘の人が寄ってきます。値段と部屋をチェックして現地人向けの安宿にチェックインしました。

 

イスファーンは日本で言えば京都の様な古都です。最盛期の16世紀には『イスファーンは世界の半分』とも言われていたそうです。その当時の建物が現在は世界遺産になっているそうです。有名なものはイマーム広場の周辺に点在しています。 

 

イマームモスク(上)とイマーム広場(下) 

 

 

 

イマーム広場から一寸のところにある チェヘル・ソトゥーン宮殿は、17世紀にアッバス2世によって作られた迎賓館です。「チェヘル・ソトゥーン」とは「40本の柱」という意味ですが、実際の柱の数は20本で、その前にある池に映る20本とあわせた数が名称になっているそうです。

  チェヘル・ソトゥーン宮殿

チェヘル・ソトゥーン宮殿のライオンと少女、 昔は噴水だったのでしょうか?

 ライオンはイランのシンボルの様ですね。革命前のパーレビ国王の時代のイラン国旗には真ん中にライオンが描かれていました。

 

 

 

チェヘル・ソトゥーン宮殿の内部は細密画などの色彩が鮮やかな男女の壁画が沢山ありました。今のイスラム原理主義の人たちは、この様な壁画を許すのでしょうか? 昔のイスラム教の方が許容度が大きかったのですかね。


 

 

そろそろ、関西からのリピーターのお客様がいらっしゃる時間です。

 

 イスファーンの続きはまた、後日にでも。