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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

三朝(みささ)神社 in 鳥取県三朝町

2017年05月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

三朝町三朝に鎮座される「三朝(みささ)神社」。御祭神は『誉田別尊、大己貴命、素盞鳴尊、武内宿禰命、大山祇命』

創建「大正10年(1921)、三朝地区の氏神「湯村神社(大己貴命)」、外谷地区の氏神「外谷神社(素盞鳴尊)」、砂原地区の氏神「砂原神社(誉田別尊・武内宿禰命・大山祇命)」を合併し「三朝神社」となる。「湯村神社」は三朝温泉を発見した大久保左馬之祐が崇敬庇護した事から「大久保大明神」と呼ばれ、神仏分離令により「湯村神社」と改称。「外谷神社」は当初「牛頭天王」と称していたが神仏分離令により一時排社。明治10年(1877)に湯村神社の境内社として復した。「砂原神社」は当初妙美井山の山頂付近に鎮座し「妙見山正八幡宮」と称したが宝永2年(1705)に字宮ノ上に遷座。三社の合併により村社に列し、大正13年(1924)神饌幣帛料供進社に指定。」

拝殿は入母屋造平入に唐破風、銅板葺、平入で正面1間向拝付。奥に続く御本殿は一間社流造、銅板葺き。出雲のお社を思わせる太い注連縄。

雨の日にも拘らず拝殿内の扉が開けられているのは、参拝される方が多いからでしょうか?私たち以外に人影のない境内。聞こえてくるのは雨の音と、拝殿に吸い込まれていく柏手の音。

境内入り口近く、拝殿前左右より神域を守護されるのは「明治廿一(1888)子春」建立、出雲構えの狛犬さん一対。すっかり角が取れて妙に丸くなった体は、参拝される方に撫で回されたのか、それともラドンの湯気が石を磨いて丸くしたのか(*´꒳`*)

社殿左側に鎮座される唐破風向拝の社殿は「境内社:外谷神社」。

四月も後半なのに今日の雨は殊の外冷たく、指先まで凍え切ってしまいそうですが、参拝前に使わせて頂いた手水鉢には常にラジウム温泉が湧いており、その温かい事! 参拝後に再度、流れ落ちる温泉を手で受けてほ~っと一息。手水舎には「飲泉場:神の湯」の案内があり、飲む事もできるそうです。

生憎の雨で境内をゆっくり見て回るにはいささか足場が悪く・・「三朝の名木」も画像に残し忘れました。ああ、そういえばこの境内は、昭和四年(1929)に製作された映画「三朝小唄」のロケ地になった場所。雑学に詳し過ぎると笑われる私ですが(笑)流石にそれは初耳・・・・(^^;) 歌碑は野口雨情作詞「三朝小唄」の一節で【 泣いて別れりゃ空までくもる くもりゃ三朝が雨となる 】 

参拝日:2012年4月20日

 


ご当地マンホール in 鳥取県三朝町

2017年05月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

東伯郡三朝町(みささちょう)は鳥取県中央部に位置し、県内で2番目に大きな自治体です。国宝の「三佛寺投入堂(三徳山)」や名勝「小鹿渓」を擁し、また世界一といわれる高濃度のラジウム温泉が噴出する三朝温泉街が良く知られています。「町の木:トチノキ」「町の花:本石楠花」「町の鳥:カワセミ」を制定。

キャッチフレーズは「あったかいまち三朝町 三朝温泉、三徳山・投入堂がある三朝町」

明治22年(1889)、町村制の施行により河村郡西竹田村・源村・東竹田村・三朝村・高勢村・賀茂村・竹田村・鼎村・三徳村・小鹿村・神中村が発足。

1896年、郡制の施行により、河村郡・久米郡・八橋郡の区域をもって東伯郡が発足。

1907年、高勢村・賀茂村・竹田村が合併、東伯郡旭村が発足。

1911年、西竹田村・源村・東竹田村が合併、東伯郡竹田村が発足。

1917年、鼎村・三徳村が合併、改めて東伯郡三徳村が発足。小鹿村・神中村が合併、改めて小鹿村が発足。

1953年、三朝村・三徳村・小鹿村・旭村・竹田村が合併、東伯郡三朝町が発足。今に至っています。

マンホールには、「三徳川に架かる三朝橋」「かじか蛙」「河原の露天風呂」に「湯の町みささ」の文字が描かれています。(天神浄化センター展示マンホール)

「河原の露天風呂」

「三徳川に架かる三朝橋」が描かれたマンホール。(温泉街石畳の道に大小設置)

「三徳川と三朝橋」

昭和32年(1957)11月18日制定の町章は「三朝の「み」を中央に図案化して飛躍発展を示し、翼の両端と外、内2本の線を組み合わせて「さ」「さ」とした。また、円は団結と円満、そして町民の和を象徴するものである。」公式HPより

役小角が法力で建物ごと平地から投げ入れたという伝承が語り継がれる「三徳山・投入堂」の模型。標高900メートルの三徳山に境内を持つ山岳寺院の奥院。垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物である事から、国宝に指定されています。が・・多分・・一生縁のない霊場です。

撮影日:2012年4月20日

 


倭文(しとり)神社~Ⅱ~ in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「倭文(しとり)神社」の主祭神は近年まで「大国主命」の娘の『下照姫命』とされていました。農業や医療の技術に長け、大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励みました。そんなおり、天照大神は天稚彦という神を遣わし出雲の国譲りを要求しました。ところが天稚彦は下照姫命と恋に落ち、復命することはありませんでした。しかし幸せな日々は続かず、天稚彦は天照大神から遣わされたキジを射殺したことが原因で、天照大神により射殺されてしまいました。下照姫命は夫の死、国譲りによる出雲との別離などを乗り越え、一匹の海亀によりここ伯耆国宇野の海岸に導かれました。そのまま現社地に住を定め、当地で死去するまで安産の指導、農業開発、医療普及等に努めたとされています。氏子である宮内に住む人々は下照姫命の従者の祖先だとされており、さらに周辺にある亀石、宮戸弁天、出雲山といった場所は縁の深い地である、とされております。」公式HPより

境外参道に祀られる「安産石」。その昔、お産が命がけだった時代、何度も難産に苦しむ婦人が、神社に安産の願掛けをしました。やがて迎えた満願の日、婦人は『下照姫命』のお姿を夢に見た後、何時もの様に参拝しました。その帰途、婦人は岩の前で簡単に出産をし、それよりこれを「安産岩」と称するようになりました。昔はこの岩を削って飲むば安産と伝えられていたそうで、岩の一部は大きく抉られています(^^;)

境内を進むと巨大な岩があり、たまにこれを「安産岩」と紹介しているのを見聞きします。多分境内にある岩という事で勘違いされるのでしょう。

参道脇にある「国・史跡 伯耆一宮経塚」は、古来『下照姫命』の墓と考えられていましたが、大正4年の発掘で経塚である事が判明。仏像や銅経筒、銅鏡、瑠璃玉などが出土しました。

これらの出土品は一括して国宝に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています。その出土品の銘文からも、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であった事が判明しています。

鳥居を出て暫く歩くと、古代の磐坐信仰を思わせる「夫婦岩」が結界の中に鎮座しています。大小の岩は、夫婦神である『天稚彦命』と『下照姫命』のお姿を映しているのかもしれません。

町指定天然記念物「宮内井戸の椿」

「この椿は井戸の側にある事から井戸の椿と称せられている。井戸は以前より区民の飲用水となっている他、伯耆一宮倭文神社参拝者にとっても身を清め、のどを潤す憩いの場所として古くから親しみを持たれ大切に保存されている。目通り周囲一・五五メートル、枝張りが密にしてよく繁茂し、南北十メートル、東西八・八メートルで樹齢はおよそ二百年とされる」

これは、たまたま車の中から撮ったもので、後に立ち寄らなかった事を後悔した場所。古来よりこの一帯を、伯耆一宮の七弁天と称し、付近の水辺七ヶ所に弁天さんが祭られていたと云いいます。この『宮戸弁天』もその一つとされ、今現在に祠が残っている唯一の神域となっています。もとは小島で、『下照姫命』がこの場所で魚釣りを楽しまれたと・・伝説は語り継いでいます。

『下照姫命』にちなんだ伝説といえば・・東郷湖畔にある「出雲山」。この地に留まられることになった『下照姫』は、故郷である出雲を懐かしんで度々この高台へと足を運ばれました。

それをみた村の人々は、『下照姫』の寂しい心をくんで、この山を出雲山と呼ぶようになりました。

参拝日:2012年4月19日&2016年10月21日

 


倭文(しとり)神社~Ⅰ~ in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

湯梨浜町宮内・御冠山の西側中腹に鎮座される式内社「伯耆国一宮・倭文(しとり)神社」

御祭神は『建葉槌命(たけはつちのみこと)』。別名「天羽雷命(あめのはづちのみこと)また、倭文(しず)神」とも呼ばれます。『下照姫命(したてるひめのみこと)、建御名方命、天稚彦命(あまのわかひこのみこと)、事代主命、少彦名命、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)』を配祀。

神社由緒に「創立年代は不詳であるが、社伝によれば『大国主命』の娘『下照姫命』が海路御着船され、従者と共に現社地に住居を定め安産指導、農業振興に尽力されたことから、当神社は安産の神様として県外からも信仰を集め、「一ノ宮さん」と呼ばれ親しまれている。戦国時代に荒廃したが、天文二三年(1554)尼子春久により社殿を造営。後、神領中絶したが、元亀元年(1570)羽衣石城主南条宗勝これを復旧。徳川時代は池田藩主の祈願所となり、明治以降は県社であったが、昭和14年に国幣小社となった。」

鳥居正面に隋神門

随神門の内より神域を守護されるのは、彩色の施された随神様。長い年月の流れが高い身分を示す束帯の色を静かに奪っていくように見えます。

由緒に天文23年(1554)の建築とある社殿。その一つである随神門には実に精緻で見応えのある彫刻が施されています。まずは屋根下の「双龍」、共に宝珠をめぐって睨み合っています。

こちらの一対は、『天照大御神』の神使「鶏」を表しているのではないかと思われます。とは言え、あくまでも「そうではないかと思う」程度なので、さらっと流してください(^^;)

随神門内側の木鼻から、身を乗り出すようにして興味深げに参拝者を見守る阿吽の「獅子」。可愛いのだか恐いのだか、判断に苦しむ顔ですが(笑)、個人的には結構気に入っています。

随神門外側の木鼻には、何でもかんでも愉快でたまらない・・と言った表情の「獏」の一対。「獏」と「像」、よく混同されがちですが、短い鼻で牙があり毛がカールしているのが獏の特徴。

でもどちらも同じように見えてしまうという方には・・耳の穴が見えているのが「獏」。と言うことで、これは間違いなく「獏」と断定しても大丈夫!・・多分(笑)

見返りの獅子と追いすがる獅子の一対は、随神門の内側の天井近くに彫刻されていたもの。

神社彫刻では、どうしても神獣にばかり目がいってしまいますが、花の彫刻も美しいものです。

随身門をくぐりまっすぐ参道の先に拝殿。二度の参拝となった「倭文神社」ですが、2012年当時は早朝過ぎて拝殿の扉は閉ざされたまま。この時は、撮影機材を抱えた「日本海テレビ」の関係者が拝殿の裏手に消えるのを、所在なく見送ったものです(笑)

2016年は、折悪しく鳥取地震のただ中でしたが、拝殿の内から参拝をさせていただきました。あの時は、慌しい中にも関わらず御朱印も書いていただき、本当に有難うございました。

拝殿玉垣前より神域を守護されるのは、文政2年(1819)生まれの出雲構え狛犬さん一対。細く引き締まった足を踏ん張り、天を衝くほどにまっすぐ伸びた尾の何とも見事な事。

文化15年(1818)再建のご本殿。2012年の参拝では、妻下や唐破風に施された彫刻に時を忘れて見入っていました。

妻下:笈形(おいがた)の彫刻は満開の牡丹。

破風の下を埋め尽くすほどの彫刻は、遠目からでもため息が漏れそうな繊細さ。

本殿唐破風の木鼻から、下界を見下ろしている「獅子」、阿吽の表情が違いすぎて笑えました。

位置的なものなのか、それとも本当に意図しているのか、阿形さんの顔って悪魔っぽい(笑)

本殿の屋根下にある木鼻は「像と鶏」。「鶏」に関しては鳳凰の説もあるのですが、どうでしょう?鳳凰ならもう少し頭の部分に装飾があっても良いと思うのですが・・単に簡素化しただけなのかも・・

最後の彫刻は本殿唐破風のこの部分、全体を埋め尽くした「龍」と一緒にいた謎の「神仙」。

「龍」の凝視なぞ物ともせず、「よく見つけたね」と言わんばかりに軽く手を上げてくれるその笑顔に釣られて、笑顔で答える御亭主殿。その感性・・とっても好きです(〃∇〃)

参拝日:2012年4月19日&2016年10月21日

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御神名一口メモ

『建葉槌命(たけはつちのみこと)』=「天羽雷命(あめのはづちのみこと)」「倭文(しず)神」とも呼ばれる。天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物。機織りの祖神。倭文(しどり)氏の遠祖。

『味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)』古事記では『迦毛大御神(かものおおみかみ)』とも呼ばれる。「大国主神」と宗像三女神「多紀理毘売命」の子。鋤を神格化した農耕神。


ご当地マンホール in 鳥取県旧東郷町(湯梨浜町)

2017年05月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

旧東伯郡東郷町(とうごうちょう)は鳥取県の中部に位置し、東郷池に面した町です。町域には山陰最大級の古墳・北山古墳・倭文神社などがあり古代から大和政権との関わりを持つ豪族がいたと推定されています。町内の弥生時代遺跡からは1m程もある鉄刀が出土。また大正4年(1915)12月には倭文神社境内の経塚から康和5年(1103)銘の銅経筒が出土しており、共に「伯耆一宮経塚出土品」として国宝に指定されています。またこの経筒の銘文中に「山陰道伯耆国河村東郷」とあり、平安時代には「東郷」という地名が成立していたことが分かっています。

特産品の梨の栽培は開始から100年以上の歴史を持ち、二十世紀梨の生産量は日本一を誇ります。

明治22年(1889)、町村制の施行により河村郡東郷村・松崎村・舎人(とねり)村・花見村が発足。

明治29年(1896)、郡制の施行により、河村郡・久米郡・八橋郡の区域をもって東伯郡が発足。

1951年、東郷村と松崎村が合併、東伯郡東郷松崎町が発足。

1953年、東伯郡東郷松崎町・舎人村・花見村が合併、東伯郡東郷町が発足。

2004年、東伯郡羽合町・泊村と合併、東伯郡湯梨浜町となりました。

マンホールには町の「木と花:二十世紀梨」の、花と果実が描かれています。(天神浄化センター・展示マンホール)

梨の花を背景に「二十世紀梨」、梨に「とうごう 梨の町」の文字が描かれています。

舗道タイル画「二十世紀梨」

昭和42年(1967)7月26日制定の町章は「外円・内円に、「T」「ト」を二つ組み合わせたものです。」

東郷湖に浮かんで見える東郷温泉

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湯梨浜町はわい長瀬にある「鳥取県天神川流域下水道公社・天神浄化センター」様。2016年の訪問では震災という大変な状況の中、遠方からの来庁である事から、快く展示蓋の閲覧を許可していただき、本当に有難うございました。改めて深く感謝申し上げます。

撮影日:2012年4月19日&2016年10月21日~22日

 


『石工・ 川六』 灘郷(なだごう)神社 in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

東伯郡湯梨浜町泊、日本海を望む高台に鎮座される「灘郷(なだごう)神社」、御祭神は『素盞鳴尊、天宇受売(あまのうずめ)尊、誉田別尊、猿田彦神』。鳥居に刻まれた文字は「文化五年戊辰九月吉日」

由緒に「大正四年に「泊神社(素盞鳴尊)」「石脇神社(天宇受売尊)「小浜神社(誉田別尊)」「筒地神社(素盞鳴尊)の四神社を合併の上、「灘郷神社」と改称し、現在地に遷座。同年、「園神社(猿田彦神)」「水谷神社(素盞鳴尊)」を合併、大正九年、村社に列せられた。」神獣事始めより

境内より見上げる石段。その半ばあたりより神域を守護される出雲構えの狛犬さん一対。

ぐっと低く構えた阿形さん。石工さんの名前も建立年代も不明ですが中々に良い面構えをされています。

対となる吽形さんは、台座と岩肌に挟まれるように突っ伏しています。主のいない台座に刻まれた沢山のお名前は奉納された方達でしょうか?それにしてもお顔に損傷も無い様子、もとの台座にもどしてさしあげる事は出来ないのでしょうか。

石段参道の先、境内入り口より神域を守護されるのは今にも飛び掛からんばかりの姿勢でうずくまる一対。「文久二年 戌五月吉日」、「石工 川六作」の刻。

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両のたてがみの下から覗く前足、研ぎ澄ました爪でグッと岩をつかむ姿は、今まさに獲物を目がけて飛び掛からんとする姿。

そのくせ、妙な人懐こささえも漂わせて。見る位置、見る折々の気持ちによっていかようにも表情を変える。それは決して設計図通りに機械彫りされた狛犬には到底望むべくもない、石工が丹精込めて打ち出した生きた「狛犬」の姿。

ここが最後となる「石工 川六」の狛犬さん。いつかもう一度出会いたい・・だから、キュートな後ろ姿~💗に願いを込めて!!

境内正面に拝殿。左右に狛犬一対、さらにその左右に凝った彫刻が施された一対の灯籠。拝殿屋根の向こうには「泊港沖防波堤西灯台」の姿が。

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御本殿の縁には、辛うじてその姿をとどめる構え姿の狛犬さん。どれほどの年月をここで過ごされたのだろうか? 対となる狛犬さんはもうその面影さえも見当たらない。

拝殿両横の燈籠。笠の上に低く身構える狛犬さん。「明治四十一年三月吉日」の刻。他に石工名らしき文字もありましたが読み取れず。

 

多分・・精一杯威嚇しているのだろうと思うのですが、下から見上げる所為なのか、思わず頭をなでて「よしよし」としたくなる表情(^^;)

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「注連縄に紙垂」が刻まれた燈籠竿部分、「御神搭」の刻。

社殿左に鎮座される境内社「恵比寿社」。御祭神は『恵比須大神』。入母屋造平入に千鳥破風の社殿。その後方にも先と同じように「泊港沖防波堤西灯台」

大国主の御子神で大漁を御神徳とする恵比寿神。暗い夜の海に漁をする船の行く先を照らし、明るい家路を教える港の灯台。どちらも海に生業を求める者には欠かせない存在。それゆえにその白さが眩しくてとても温かい。

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「恵比寿社」雨避板の奥に鎮まられる御本殿。扉には向かって左に雲流。右に松に鷹の彫刻。

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脇障子には琴を抱え龍の背に乗る天女。対の脇障子には、雲間の中、鷹の背に乗る白髭の貴人。

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扉上部には駆ける獅子

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追う麒麟

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参拝を終えて見おろす泊漁港、穏やかな海の色は懐かしい故郷を思い出させて、ほんの少しだけ昔にかえったようなくすぐったさに、何故か照れてしまう・・・

参拝日:2012年4月18日

気高・青谷と『川六』の狛犬を訪ねて参拝した神社は、この「灘郷神社」でひとまず終了。時代と共に積みかさねてきた石工の技が生み出した『川六』の狛犬。時にはこれが同じ人物によって生み出されたものかと驚愕するほど様々に変化を遂げ、その度ごとに新たな感動を与えられました。この素晴らしい狛犬たちに出会えた鳥取の旅、叶うものであれば再訪をと願わずにはいられません。

 


ご当地マンホール in 鳥取県旧泊村(湯梨浜町)

2017年05月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

旧東伯郡泊村(とまりそん)は鳥取県の中央付近に位置し、日本海に面した町です。日本にある「泊村」の中で唯一「とまりそん」という読み方で、他の「泊村」はすべて「とまりむら」と読みます。また、昭和57年(1982)に考案された「グラウンド・ゴルフ発祥の地」としても有名で、プレイの中で使用される用語「トマリ」は、この村の名が由来となっています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、河村郡泊村・久津賀村・三橋村が発足。

1896年、郡制の施行により、河村郡・久米郡・八橋郡の区域をもって東伯郡が発足。

1918年、泊村が久津賀村・三橋村と合併、改めて東伯郡泊村が発足。

2004年、東伯郡羽合町・東郷町と合併して、東伯郡湯梨浜町となりました。

マンホールには、「グラウンドゴルフのクラブとボール」「日本海の波」が描かれています。(天神浄化センター内に展示マンホール)

制定の村章は「泊港を象徴した船の舵と日本海の波を表したものです。」

枡用のハンドホールには、マンホールのデザインがシンボルマークとして使われています。

方位モニュメント

白い砂浜に打ち寄せる波は静かで穏やか・・・マンホールに描かれたような日本海の荒海とは無縁の光景が広がっています。

撮影日:2012年4月&2016年10月21日~22日

 


橋津藩倉・旧橋津警察署・東郷池 in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

湯梨浜町橋津に現存する、県保護文化財指定の「藩倉(はんそう)」。往時の様子を今に伝える「古御蔵(こおくら)」「片山蔵」「三十間北蔵」の3棟。

私たちが見学したのは「古御蔵」

「片山蔵」の二棟。

「寛永九年(1633)国替えにより、池田光仲が岡山から鳥取へ入国し、三二万石鳥取池田家の藩政が始まりました。この辺りは鳥取藩の年貢米を収納する御蔵が設置されていた所です。鳥取藩政資料の中に寛永十二年橋津御蔵の記載があり、藩政の始まりとともに創設されたものでしょう。現存している御蔵は「古御蔵」「三十間北蔵」「片山蔵」の三棟ですが、文化五年橋津御蔵絵図(1808)には御蔵十四棟と計屋一棟が描かれ、建坪六一二坪を数えます。橋津御蔵は、鳥取藩の九つの灘蔵の中で最大の規模で、約五万俵の米を収納し、主として大阪へ廻米され、藩財政を大きく支えていました。」現地案内より

「片山蔵」の色違いの屋根は、後に補修されたものと思われますが、実際のところは不明。

「藩倉」のすぐ近くに建つ白亜の洋風建築は、明治22年に建てられた「旧橋津警察署」

のちに役場、農協として使用、昭和60年代に取り壊された後、公民館として復元されました。

湯梨浜町を代表する周囲約10kmの汽水湖「東郷湖」。長さ2kmほどの橋津川を通じて日本海につながっています。偶然通りかかった湖畔道路から見た「東郷湖のシジミ漁」。それままるで一幅の墨絵のような・・深く心に残る光景。

船から引き上げているのは蜆をすくう為の漁具で「鋤簾(じょれん)」

東郷湖風物詩の一つ「四ツ手網」。「一辺約9mの網の四隅に竹を張り湖岸の小屋から上げ下げできる。目の細かい網を使い、エビや小ブナ、ゾウゴなどを獲った。最盛期には松崎の湖岸沿いに二十四伍の四ツ手網が並んでいたといわれる。」現地案内より

訪問日:2012年4月19日

 


湊(みなと)神社 in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

湯梨浜町橋津に鎮座される「湊(みなと)神社」。御祭神は、水戸(みなとの)神である『速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)・速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)』『北野神菅原道實、少童神』を合祭。

社記に「創立年代詳らかならず。伝え云う伊勢別宮瀧ケ原宮別神霊なりと」。「伯耆國河村郡東郷庄絵図」には「大湊宮」と記される古社。天明4年(1784)の大火で本殿を除く社殿が焼失、天明6年に現在地に遷座されました。

参道石段をひたすら登り・・・

随神門の内より御幣と共に神域を守護されるのは、鮮やかに彩色された「矢大神、右大神」。

随身さまと共に、後ろ足を踏ん張って神域を守護されるのは笏谷石の狛犬さん一対。相変わらずと言うか、凛々しい(笑)お顔。

境内へ続く石段・・・ここで深くタメ息・・もとへ、深呼吸(笑)

石段参道脇に控えて神域を守護されるのは、建立年代不明の出雲構え狛犬さん一対。長い年月が体から様々な固さを取り払い、丸く柔らかい体で参拝者を出迎えてくれます。

〆鳥居の奥に境内

鳥居の内、左右よりより神域を守護されるのは明治2年(1869)生まれの出雲構え狛犬さん一対。阿形さんからお顔を奪ったのは年月?それとも何かの災害?

足の後ろに置かれていた阿形さんのお顔。まだこんなにちゃんと繋がるのに・・・泣きたくなるような優しいお顔。

木漏れ日の中に鎮まる拝殿。

参拝日:2012年4月19日

 


ご当地マンホール in 鳥取県旧羽合町(湯梨浜町)

2017年05月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

旧東伯郡羽合町(はわいちょう)は鳥取県の中央付近に位置した町で、町域のほとんどは羽合平野と呼ばれる平野部にあり、条里制に基づく整然とした区画割りの農地が広がっています。町の東には東郷池があり、北は日本海で海沿いに羽合砂丘(北条砂丘の一部)が広がっています。羽合という地名の由来は古く、正嘉2年(1258)に作られた東郷庄絵図には「伯井田」の地名が確認され、この地名が訛って変化し、羽合になったとみられています。

明治22年(1889)、町村制の施行により河村郡長瀬村・浅津村・橋津村・宇野村が発足。

1891年、 橋津村宇野が分立して河村郡宇野村が発足。

1896年、郡制の施行により、河村郡・久米郡・八橋郡の区域をもって東伯郡が発足。

1953年、長瀬村・浅津村・橋津村・宇野村が合併、東伯郡羽合町が発足。

2004年、東伯郡泊村・東郷町と合併、東伯郡湯梨浜町となりました。

マンホールには伯耆長瀬高浜遺跡から出土した「甲冑形埴輪」が描かれています。(天神浄化センター内:展示蓋。)

「甲冑型埴輪」レプリカ

マンホールに描かれた「甲冑型埴輪」は、学術的価値が高く、国重要文化財に指定されています。「羽合歴史民俗資料館」ではこれらの埴輪が常設展示されており、実際に見る事も出来るそうです。

昭和30年(1958)6月27日に制定された町章は「「ハワイ」を円形に図案化したものです。」 舗道タイル画は旧羽合町:町章」

仕切弁

電気マンホール

撮影日:2012年4月19日&2016年10月22日

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湯梨浜町宇野にある「道の駅・はわい」。地元の農産物や水産物が豊富で、東郷湖を一望できる場所にあり、駐車場も広く、とても楽しく気持ちの良い時間を過ごさせて頂きました。

道の駅から見る東郷湖と山並み

この道の駅では、2012年4月と2016年10月の二度に渡って、車中泊をさせて頂きました。特に2016年の車泊では鳥取地震と遭遇し、避難されてきた地元の方々、救援に駆け付けられた自衛隊の方々が一緒になり、ただ、ただ、皆様方の無事と被害の少ないことを祈り続けて一夜を明かしました。

改めて、その折には本当に有難うございました