車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

倭文(しとり)神社~Ⅱ~ in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「倭文(しとり)神社」の主祭神は近年まで「大国主命」の娘の『下照姫命』とされていました。農業や医療の技術に長け、大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励みました。そんなおり、天照大神は天稚彦という神を遣わし出雲の国譲りを要求しました。ところが天稚彦は下照姫命と恋に落ち、復命することはありませんでした。しかし幸せな日々は続かず、天稚彦は天照大神から遣わされたキジを射殺したことが原因で、天照大神により射殺されてしまいました。下照姫命は夫の死、国譲りによる出雲との別離などを乗り越え、一匹の海亀によりここ伯耆国宇野の海岸に導かれました。そのまま現社地に住を定め、当地で死去するまで安産の指導、農業開発、医療普及等に努めたとされています。氏子である宮内に住む人々は下照姫命の従者の祖先だとされており、さらに周辺にある亀石、宮戸弁天、出雲山といった場所は縁の深い地である、とされております。」公式HPより

境外参道に祀られる「安産石」。その昔、お産が命がけだった時代、何度も難産に苦しむ婦人が、神社に安産の願掛けをしました。やがて迎えた満願の日、婦人は『下照姫命』のお姿を夢に見た後、何時もの様に参拝しました。その帰途、婦人は岩の前で簡単に出産をし、それよりこれを「安産岩」と称するようになりました。昔はこの岩を削って飲むば安産と伝えられていたそうで、岩の一部は大きく抉られています(^^;)

境内を進むと巨大な岩があり、たまにこれを「安産岩」と紹介しているのを見聞きします。多分境内にある岩という事で勘違いされるのでしょう。

参道脇にある「国・史跡 伯耆一宮経塚」は、古来『下照姫命』の墓と考えられていましたが、大正4年の発掘で経塚である事が判明。仏像や銅経筒、銅鏡、瑠璃玉などが出土しました。

これらの出土品は一括して国宝に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています。その出土品の銘文からも、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であった事が判明しています。

鳥居を出て暫く歩くと、古代の磐坐信仰を思わせる「夫婦岩」が結界の中に鎮座しています。大小の岩は、夫婦神である『天稚彦命』と『下照姫命』のお姿を映しているのかもしれません。

町指定天然記念物「宮内井戸の椿」

「この椿は井戸の側にある事から井戸の椿と称せられている。井戸は以前より区民の飲用水となっている他、伯耆一宮倭文神社参拝者にとっても身を清め、のどを潤す憩いの場所として古くから親しみを持たれ大切に保存されている。目通り周囲一・五五メートル、枝張りが密にしてよく繁茂し、南北十メートル、東西八・八メートルで樹齢はおよそ二百年とされる」

これは、たまたま車の中から撮ったもので、後に立ち寄らなかった事を後悔した場所。古来よりこの一帯を、伯耆一宮の七弁天と称し、付近の水辺七ヶ所に弁天さんが祭られていたと云いいます。この『宮戸弁天』もその一つとされ、今現在に祠が残っている唯一の神域となっています。もとは小島で、『下照姫命』がこの場所で魚釣りを楽しまれたと・・伝説は語り継いでいます。

『下照姫命』にちなんだ伝説といえば・・東郷湖畔にある「出雲山」。この地に留まられることになった『下照姫』は、故郷である出雲を懐かしんで度々この高台へと足を運ばれました。

それをみた村の人々は、『下照姫』の寂しい心をくんで、この山を出雲山と呼ぶようになりました。

参拝日:2012年4月19日&2016年10月21日

 


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