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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

北野天満宮~其の二 in 京都府京都市上京区

2025年07月18日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

昨日に続いて参道の突き当たりに楼門。上部には平安時代中期の学者・『慶滋 保胤(よししげ の やすたね):大江匡衡(おおえのまさひら)』が『菅原道真公』を讃えた「文道大祖 風月本主」の文言が刻まれています。

楼門の前・左右より神域を守護されるのは、明治39年(1906)建之の浪速狛犬さん一対。口を大きく開けた阿形さんは、某お菓子の髭のおじさんに似てとっても陽気な雰囲気。対する吽形さんは非常に思慮深げな顔つきをしています。

楼門を潜って手水社へ。日本を代表する三大天満宮の一つだけあって、吐龍は無く、撫で牛さんが注ぎ口の上にどっしりと座り、参拝者を見守っています。

当然ですが、こちらにも様々な顔立ちの撫で牛さんがいて、見ている私たちも不思議とゆったり気分。

そんなお牛さまに願いを託す「ひたすらに おすがり申す お牛さま」と刻まれた鳥居。何が何でも!の悲壮感が無く、どことなくゆったりと感じられるのは、すがる相手が「お牛さま」だからかも。

鳥居の奥には何列もの絵馬掛けがあり、そのどれにもびっしりと願いが籠められた絵馬が掛けられています。毎年10万枚以上もの絵馬が奉納されるとのこと、「受験生のみんな、ガンバレ!」

絵馬掛けの近くに鎮座される「末社:一之保神社・奇御霊神社」

「一之保神社」、御祭神は『菅原大神』。「奇御霊神社」、御祭神は『道真公の奇御魂』。

鳥居両脇より神域を守護されるのは浪速タイプの狛犬さん一対。頭上に張り出したたくさんの枝は全部梅の枝。きっと初春の頃にはとても素敵な光景が見られる事でしょう。

通路を挟んだ向かいに鎮座される「白太夫社」。御祭神は『白太夫(度会春彦翁)』。道真公の守役として大宰府までお供した方で、子授け・安産の神とされます。

「火之御子社」。御祭神は『火雷神』。雷除けの霊験をもち「北野のおけら詣」の火縄はこのお社の浄火を移したものです。

鮮やかな色彩に彩られた中門、様々な場所に施された豊富な彫刻の中に、日月星がある事から「三光門」とも呼ばれています。中央には『後西天皇』御宸筆の『天満宮』の勅額が掲げられており、国重要文化財に指定されています。

この美しい三光門を二百年近く守護してきたのは、文化7年(1810)建之の狛犬さん一対。吽形さんのこんなに長い角、多分ですが神殿狛犬以外では、お目にかかった事がありません。

参拝はした筈ですが、撮りこぼした境内社は他にも何社かあったようです。それはこの際目をつぶって・・😅 続きは「北野天満宮~其の三」で

参拝日:2007年12月1日&2009年11月21日


北野天満宮~其の一 in 京都府京都市上京区

2025年07月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

上京区御前通に鎮座される「北野天満宮」。下八社の一社であり、主祭神は『菅原道真公』。学問の神様として受験生たちからは絶大な信頼を得ています。

一ノ鳥居左右より神域を守護されるのは、府内で最も一番大きい・全長約5メートルのブロンズ製の狛犬さん一対。画家『竹内栖鳳』の考案によるもので、昭和9年に建立されました。

鳥居をくぐってすぐ右手に、石の玉垣で囲まれた影向松と名付けられた松が立っています。「この松は、当宮の創建からこの地にあると伝わる御神木。立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があり、現在でも初雪が降った日には、硯と筆と墨をお供えして「初雪祭」の神事を行っています。」HPより

玉垣前の左右より神域を守護されるのは、明治16年建立の狛犬さん一対。頬から顎に架かるたてがみがとても素敵な一対。ちなみに北野天満宮の境内には12対の狛犬が建立されています。

二の鳥居脇より神域を守護されるのは、「文久二年壬戌(1862)之春三月 萩石工:武村唯昌」奉納の萩型狛犬さん一対。台座も含めて4メートル以上の巨大な狛犬さんを初めて見た時はブロンズ製と間違えてしまったほどですが、その美しく滑らかな材質は萩黒石独特のもの。吽形さんの右前足の下には、見事な透かし彫りの玉。また基壇(きだん)には牡丹や松竹梅の精緻な浮き彫り。さらに飾り台には「粛々廟前 双獅護衛」で始まる詩文の刻。防府市にある防府天満宮の狛犬さんと同じ作者によるもの。石工は阿吽で微妙に名前が異なっており、おそらく親子関係ではないかと思われます。

三の鳥居脇より神域を守護されるのは、昭和9年建之の狛犬さん、この形は、関西では比較的よく見かけるタイプ。

天神さんと言えばお牛さま、境内には珍しい石材で作られた神牛さんもたくさんおられます。何かと関わりの深い天神様と牛・・国宝「北野天神縁起絵巻」の序文には、門前にて休む茶色と黒色の牛が描かれています。

続く絵巻物の巻五には、菅公の御遺骸を運ぶ茶色と白色のまだら模様の牛が描かれているとか。この不思議な色合いの巨石が、牛となって奉納されたのも、縁なのかも知れません。

京都三珍鳥居の一つ「伴氏(ともうじ)社・蓮の鳥居」。三珍鳥居とは「京都御苑、旧九条家の厳島神社の鳥居」「右京区、蚕ノ社の三柱鳥居」。そして、国指定重要美術品の「北野天満宮、伴氏社の蓮の鳥居」を言います。

生い茂る木の葉の所為で非常に見え難いのですが、鳥居額を掲げる額束が島木を貫通して笠木に至っているという点。(一番的には貫と島木の間にある)

また両側の柱の台座に蓮の花弁が象られている事。京都三珍の中では一番、珍しさが伝わり難い鳥居ですが、知って見るとそのわずかな違いが唯一である事に気づきます。

太閤井戸の近く、少し外れた場所でひっそりと神域を守護される狛犬さん。むっつりと寡黙な吽形さんと、いかにも楽しそうな阿形さんの対比が面白い一対。嘉永5年(1852)の建之ですから、どちらかというと古参の部類です。

梅の小枝の留蓋はおそらく狛犬さんが居た辺りで見つけたものだと思います。天満宮に梅といえばもはや鉄板物の組み合わせ、素朴ですが、美しい造詣です。

広大な境内、京都府で一番数が多いといわれる狛犬さんたち。続きは「北野天満宮~其の二」で。

参拝日:2007年12月1日&2009年11月21日


御苑の春・近衛邸跡の糸桜 in 京都府京都市上京区

2025年07月17日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市上京区にある「京都御苑」。私たちは深く考えず、ずっと「御所」と呼んでいましたが、その御苑に咲く糸桜がとても綺麗だという評判を聞き、出かける事に。京都に越してきて10年・・・なんと初めての訪問です。ちなみに駐車場の入り口は、禁門の変の舞台となった蛤御門・・いきなりの歴史の舞台にビックリ!!

一歩足を踏み入れて驚いたのは・・とにかく広い。地図とかで広いと言う認識はあったのですが、実際にその場に立って感じる広さが半端じゃない。

御苑内は京都府警や皇宮警察が常に見回りをしていて、御所の塀に近づくとセンサーが反応し、すぐに御苑内全体に聞こえるような大音量のスピーカーで「近づかないように!」と、注意されます😓  この程度で?と思う距離でも指摘されるので、本当に要注意(経験者:談)

でもってとにかく広い!闇雲に歩いていても目に入るのは築地塀だけ。たまに由緒ありげな門とか見かけても、迂闊に近づきすぎると危険😅

御所の東北角は鬼門にあたり、そのため壁の角を切り取った「鬼門封じ=缺(か)け」が成されています。「角=ツノ=鬼」、角を取ってしまえば鬼は出られないという判じ物みたいな話ですが、京都府八幡市に鎮座する「岩清水八幡宮」社殿の「鬼門封じ」にも同じものが見られます。

「鬼門封じ」の凹み部分の庇には、鬼門を封じて結界をはる役割を与えられた猿が浮き彫りにされており、この辻は「猿ヶ辻」と呼ばれています。で・・何故猿なのか? 猿は山王権現日吉社の神使い「神猿=まさる=魔が去る」・・というわけで御幣を担ぎせっせと鬼門を守っている次第。

猿ケ辻の北側、黒い塀に囲われた一角は幕末の公家・権大納言中山忠能の屋敷があった場所。その中に「明治天皇誕生の地」碑が有ります。忠能の娘・権典侍慶子を母として、嘉永五年(1852)に誕生された祐宮(さちのみや)親王。明治天皇はここで四年間養育された後、御所に移られました。

さてお目当ての糸桜ですが、これは五摂家筆頭とされる近衛家の邸宅跡にあるという事。かつての庭園にあった池は「近衛池」として残り、糸桜の名所として知られています。

「糸桜」とは、枝垂れ性の江戸彼岸で、いわゆる枝垂桜と同じもの。やや遅れて咲く八重の枝垂桜は八重紅枝垂桜という品種。御苑で一番早く咲き始める枝垂れ桜の大木・・とは言え、あまり早く来すぎるとこんな結果に😔(3月10日時点)

そこでじりじりと待つ事三週間、再度の訪問で見た糸桜・・・それはそれは息を呑む美しさ。昔見た美術館の収蔵品の中に、満開の枝垂れ桜の画があって・・どうしてもその画の前から離れられなかった事を・・ふいに思い出しました。

おや?この木の周りだけ随分とたくさんの人が集まってきていますが・・皆さんがカメラを向けているのは美しい桜・・ではなく・・・

何と、満開の桜の枝でポーズをとる猫さんでした。写真用にセッティングされたものらしく、モデルの猫さんも慣れたもの。物怖じもせず集まった人たちなどアウトオブ眼中😆・・・事情は判りませんが、猫好きの私としてはラッキー。

御苑の桜、最後は学習院跡にある「マツに生えたサクラ」。文字通り松の木に芽吹いた山桜が花を咲かせたのです。一度目は木の枝がわさわさと地面から・・

傍らの説明に「この倒れた木は「桜松」と呼ばれ親しまれています。桜松は、クロマツの樹上十数メートルの所にヤマザクラが生育していたものです。1996年4月17日にマツが枯れ倒れてしまいましたが、サクラはマツの空洞を通り地上まで根を下ろしていたため、今も多くの花を咲かせ続けています。当時、マツの樹齢は約100年、サクラは約40年と推定されていました。」二度目の「桜松」。それはとても不思議な光景でした。

御苑内に鎮座される「白雲(しらくも)神社」。御祭神は『市杵島姫命』。御所の弁天さんとして親しまれています。

「旧西園寺家の鎮守社、元仁1年(1224)、西園寺公経が北山殿造営の際に建立した妙音堂に由来するとされる。その後幾多の変転を経て、近古には赤八幡京極寺にもしばらく鎮座され、明和6年(1769)、西園寺邸の移転と共に現在地に移り再興、禁裏御祈祷所と定められた。明治になり、妙音堂は廃祀の危機に合うが地元有志の尽力により存続、明治11年、かつての鎮座地名をとり現社名に改められる。」案内より

この頃は、ご亭主殿も狛犬収集をしておらず、残念ながら画像は無し。当然ですが京都三鳥居の一つ、「厳島神社」の唐破風鳥居も画像に残していません。こうして振り返ると・・・・何と18年も前の事なのだと、改めて時の流れに驚いています。

ふと目をあげた先に見える山、そこだけ樹木のない三角地帯に巨大な「大」の文字。ああ・・・ここからだとこんなに大きく大文字の送り火が見られるんだな・・・

訪問日:2007年3月10日&2007年3月31日


京都御所 春季一般公開 in 京都府京都市上京区

2025年07月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

三月末に「御所さんの糸桜」を見に行った折に見かけた「京都御所 春季一般公開」のお知らせ。壁に近づいただけで指導が入る御所が拝観できるなんて、こんな機会はそうそう有るものでもないという事で、またしてもやって来ました「京都御所」😊

京都御所の始まりは、桓武天皇が794年に平安京に都を移された時。そう、歴史の時間に習った「なくよウグイス平安京」のアレ😄。平安遷都が行われた時の内裏は、実は今の位置よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあり、ここは「里内裏」の一つ「土御門東洞院殿」。里内裏とは、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指します。

現在の京都御所は、1331年、光厳天皇がここで即位されて以降、明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間、天皇のお住まいとして使用されていました。この間、幾度となく火災に遭っており、現在の建物の多くは安政2年(1855)に再建されたものです。

御所の一般公開なんて初めての経験、入所時の厳重な持ち物チェックなども物珍しく、言われるまま、支持されるまま、ただただ人の流れに逆らわず牛歩の如く前に進むのです。が、それも御所内に入ると驚くほど自由に拝観が出来るようになり、それにも驚かされました。という事で一番最初にカメラに納めたのが「翠簾大衝立(牡丹の画)」「翠簾(みす)」は寝殿の中で間仕切りや目隠しとして用いられていた「御簾(みす)」の別名で、特に緑色のすだれの呼び名として使われていました。

続いて、大正4年(1915)に建てられた「新御車寄」。大正天皇即位礼に際し、天皇皇后陛下の為の玄関として建てられたものです。

続く「諸大夫の間」は正式に参内した者の控えの間。身分に応じて異なる部屋が用意されており、各部屋の襖絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれています。

紫宸殿南庭の西側に設けられた朱塗りの「月華(げっか)門」。これは古式にのっとって再建されたものと有ります。

門内には、京都御所の内講を固める6つの門の一つで、向唐破風桧皮葺き屋根:四脚門の「建春門」があります。平安宮内裏外郭の東正面に位置することから「日之御門」とも呼ばれています。

こちらは築地塀の外から写したものですが、下の厳重な柵がなければ前後の区別が付かないですね。

御所南面正門には檜皮葺: 切妻屋根に角柱の四脚門「建礼門」。正面や全体の写真がないのは、人の列が途切れなかった為だったと思います。

建礼門と紫宸殿の間にある丹塗り・瓦葺・切妻屋根の12脚門の「承明門」。紫宸殿の南正面に位置しており、天皇行幸や上皇御即位後の出入りに用いられていました。

承明門の真正面には、即位礼などの重要な儀式を執り行う「紫宸殿(ししんでん)」。京都御所で最も格式が高い正殿であり、『大正天皇、昭和天皇』の御即位礼はこの紫宸殿で行われました。

「紫宸殿」の向かって左には「右近の橘」

「紫宸殿」の向かって右には「左近の桜」

内部は板敷きの広い空間となり、中央に「高御座(天皇の座)」、その東に「御帳台(皇后の座)」が置かれているのが少しだけ見えます。

「清涼殿」は平安時代の内裏で、天皇の日常生活の場として使われていました。この建物は寛政2年(1790)の建築で、平安時代の頃よりは小さくなっているそうです。

平安美女の舞が披露されているのは「小御所(こごしょ)」。将軍参内のとき、休息したり装束を改めたりするために設けられましたが、江戸時代には天皇が幕府の使者、所司代、諸侯などを謁見する為に使われました。

小御所の前に広がるのは、江戸時代初期に作られ、小堀遠州も関わったとされる「御池庭」。特に「欅橋」の欄干や橋脚には非常に凝った装飾が施されており、一見の価値があります。

御所内では最も広い「御常(おつね)御殿」。上段の間、中段の間、下段の間があり、天杯の下賜、吉書初、摂家参賀などの公式行事が行われてきました。室町時代以降は天皇の日常の生活の場として使われ、『明治天皇』も東京へ遷るまで住まわれていたそうです。

もう本当に何もかも素晴らしくて、美しくて荘厳で、そしてとにかく広いのです。ほんの少し見る角度が変わるだけで「あれ?あんな建物見学したっけ?」「え~~~~~??、あそこまだ見てないじゃん!!」きっと知ってる人が見れば、これは○○、あれは▲▲と明快に教えてくれるのでしょうね。

名残惜しくは有りますが、人の波もそろそろ少なくなって来ました。また何時の日かこの感動に再開できる事を願って、お暇です。

訪問日:2007年4月7日


楠公史跡番外編:始の章・笠置山の戦い in 京都府笠置町

2023年04月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

楠公史跡番外編:始の章では、楠木正成は登場しませんが、この「笠置山の戦い」のさ中に、後醍醐天皇は楠木正成なる人物の存在を知る事となります。

鎌倉時代後期の元弘元年(1331)、鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇側と、鎌倉幕府側との間で行われた「笠置山の戦い」の舞台となった山城国笠置山。玄関口でもある笠置駅前では、「笠置山の戦い」を再現した人形が訪問者を出迎えてくれます。

巨岩を敵に投げつけようとしているのは般若寺の僧『本性房』

弓で戦う武将は『足助重範(あすけ しげのり)』。愛知県豊田市足助に鎮座される「足助神社」の御祭神として祀られています。

『足助重範』の後方には後醍醐天皇の姿も見えます。

幕府方75,000の兵に対し、笠置山に立てこもった天皇側3000余の兵力。天然の要塞を地の利として善戦はしたものの、幕府側による山への放火で天皇側は総崩れとなり、笠置山はついに陥落。

側近達と共に幕府側に捕えられた天皇は、隠岐の島へ配流となります。しかしこの頃、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力は、後醍醐天皇の呼びかけに答え、各地で討幕の活動をしていました。翌元弘3年、天皇は隠岐の島を脱出。楠木正成や、その後幕府から離反した足利尊氏新田義貞らとともに幕府を滅亡させることに成功します。その後の経過は、楠公史跡で紹介したように、尊氏の再びの離反により、建武の新政はわずか三年で幕を閉じることとなりました。

「笠置元弘の乱絵巻」

「後醍醐帝笠置山皇居霊夢之圖:尾形月耕」

「後醍醐天皇は笠置寺に行在所を設けたが、自身の周りに名のある武将が少ない事に不安に感じていた。ある夜、思い悩んで寝ているとき、不思議な夢を見た。庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っている。南に設けられた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。すると童子が来てその席はあなたのために設けられたものだと言って空に上って行ってしまった。夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えながら「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、河内国石川郡金剛山に楠正成という者がいるというので、急遽正成を笠置山に呼び寄せたという。」太平記3巻より

ここまで来たのだから後醍醐天皇の行在所遺址まで行きたかったのですが、笠置山山上と言う事であっさりと断念(^^;) 脛に傷はありませんが(笑)足に悩みを持つ身・・笠置駅前に鎮座されていた「栗栖天満宮」も、見上げた石段にため息をつきつつ、鳥居前からの参拝です。

訪問日:2015年9月5日

 


海上自衛隊舞鶴総監部 in 京都府舞鶴市

2021年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

20世紀が幕を開けた1901年(明治34年)10月1日に開庁した「舞鶴鎮守府」。その後いくつかの大きな戦争を経て、今は海上自衛隊基地の要となった舞鶴市。

「海軍記念館」は舞鶴総監部内にある展示施設で一般に公開されており、受付で見学の申し込みをすると見学証を渡されます。ご亭主殿、後ろ姿が心なしか嬉しそう😄

こちらの海軍記念館は、自衛隊員の教育に資することを目的として、昭和39年(1964)に舞鶴地方総監部大講堂(旧海軍機関学校大講堂)の一部を利用して設置されたもの。

展示内容は、旧日本海軍の資料約500点の他、明治34年(1901)に設置された舞鶴鎮守府の初代司令長官『東郷平八郎元帥』に関する資料。撮影禁止のためそうした画像はありませんが、玄関の外から見えた旭日旗と『東郷元帥』の銅像だけは、記念に画像に納めさせて頂きました。

充実した館内展示の見学を終えたら、次は今回の舞鶴車泊旅のメイン「海上自衛隊艦艇 一般公開」。あの憧れの海上自衛隊ミサイル護衛艦(イージス艦)「みょうこう」に乗船するのです😄 申し込み受付をするご亭主殿の横顔がさらに嬉しそう😆

時間が来るまで岸壁内の見学。憧れの自衛隊艦が目の前に聳える様は爽快以外の何者でありません。どれを見てもカッコいい!!😆 ボキャの貧困さをお互いに笑いあいながら、でもやっぱりカッコいい!😆😆!

おお!!「みょうこう」だ。私たちあれに乗らせて頂くんだよね~😆😆

いよいよ乗船。グレーに塗られたタラップの手すりをしっかりと握って、まさしく初めの一歩。見るもの全て、手に触れるもの全てが新鮮で力強く、二人ともまるで子供のように大喜び。

居合わせた隊員の方に質問をすれば、どんなに些細な事も、それはそれは丁寧に答えてくださり、元々、自衛隊の皆様には感謝の気持ちを抱く二人でしたが、今回の経験で更にファンになりました。

乗船している間中、興奮のしっぱなし。どれを見てもこれを見ても、「凄いね~」いわゆるミリタリーオタクではないのだけれど、これはもう全くの別物。

艦上にはためく旭日旗の下で記念写真。もう最高の気分です。ちなみにこの美しい旗を指して戦犯旗なんぞと戯言をぬかす輩がいますが、ふざけるな!!😡 サッカーの試合で負けた腹いせに猿真似をして、日本チームを侮辱した馬鹿が責任逃れにほざいた戯言!それをきっぱりと断罪しなかった日本側!その事だけが今も業腹です!

初めての乗船体験を終え、改めて、自衛隊隊員の方々に心から感謝を伝えたいと思います。この国を守ってくださる貴方方の存在を、どれほど眩しく、頼もしく思っているか・・何度も何度も頭を下げて、そうして風になびく艦上の旭日旗に別れを告げました。

訪問日:2010年7月10日


引揚記念公園 in 京都府舞鶴市平

2021年05月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴と言えば何故か思い出すのが「岸壁の母」の中のこの台詞。「港の名前は舞鶴なのに・・・何故飛んで帰ってきてはくれぬのじゃ?」
昔から年齢詐称を疑われるほど懐メロが好きだった私😅、ある日友人に誘われていったカラオケ喫茶で、岸壁の母を歌ったら、その場にいた見知らぬ高齢のご婦人が、突然声を上げて泣き始めました。おそらくお身内のどなたかに似た境遇の方がいらしたのかもしれません・・・それから何年も立ってこの場所に立ったとき、ふっと、その時の事を思い出しました。

昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は苦難に満ちた復興への第一歩を踏み出します。しかし、その歩みの中に加われない多くの日本人が、中国、ソ連、千島などに残されていました。その数、兵隊350万人、民間人310万人・・およそ660万人余。舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、引揚第一船「雲仙丸」により2100人の引揚者が入港。それを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げだけで、約20万人が舞鶴の地を踏みました。

しかし、極寒のシベリアで抑留されている人々を残したまま、昭和25年、ソ連からの引揚が中断。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として引揚者を受け入れ。昭和33年、引揚者472人を乗せて帰国した「白山丸」が、最後の引揚船となりました。

終戦から13年、舞鶴港は66万人余人の引揚者と1万6千柱の遺骨を迎えいれたとありましたが、全国の引揚者の人数を足しても、100万以上の人々が祖国の土を踏むことは出来ませんでした。終戦から25年を経た昭和45年、平和への願いを後世に伝えようと、引揚港を見下ろす丘の上に引揚記念公園を整地しカリヨンの鐘を設置。昭和63年には、舞鶴引揚記念館が完成しました。

日ソ中立条約を一方的に破棄し侵攻したソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された方々を待ち続けた何万人もの「岸壁の母」。帰らぬ我が子を待ち続ける母の思いを歌い上げたこの歌は、舞鶴市を引き揚げの街として全国に知らしめたのです。

舞鶴湾奥北東部の平湾に、二羽の鶴をイメージして架けられた、斜張橋「クレインブリッジ」。主塔は鶴のくちばしを、ケーブルは羽をイメージして設計されたそうです。

引き揚げの拠点となった舞鶴平湾・・・波一つ無く穏やかな海面を見ていると、人々の慟哭が風に乗って聞こえてくるような気がします。どうぞ、外地に残されたすべての御霊が、懐かしい日本の地にお帰りになられていますように🙏🙏

訪問日:2010年7月9日


赤れんが倉庫群 in 京都府舞鶴市北吸

2021年05月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴の観光案内やパンフレットに、必ずといって良いほど出てくる景色が、明治33年から大正10年頃にかけて旧海軍が築いた「北吸赤レンガ倉庫群」

魚雷庫、兵器廠予備艦兵器庫など旧海軍関連の施設から、トンネルや橋脚などの生活基盤まで、舞鶴では日本が近代化を進めていく為の礎として、様々な赤レンガ建造物がつくられました。それから100年余りの時が流れ、そうした近代化遺産は舞鶴市の観光拠点として現代に復活したのです。

ここは明治36年に建設された「魚雷庫」。現存する日本最古級の鉄骨煉瓦建造物であり、現在は「赤れんが博物館」として煉瓦の歴史や、世界各国の煉瓦などが展示されています。この建物を初めて訪問したのは、2005年10月の事。美しい赤レンガの倉庫群が見たくて、ご亭主殿と初めての片道100k超えのバイクタンデムでした。

美しい曲線を描く赤レンガのトンネル、イギリス積みやフランス積みの美しさ。以来、すっかり煉瓦建築に魅了され、今日に至っています。

こちらは明治35年に建設された「旧海軍兵器廠予備艦兵器庫」、今は「舞鶴市政記念館」として活用されています。

コの字型に三つの倉庫が並ぶ光景は、舞鶴の観光パンフレットではすっかりおなじみとなりました。記念館に並行して建てられた、左の倉庫は、「旧舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫」。現在は「赤れんが3号棟・まいづる智恵蔵」として活用。 奥に見えるのは「旧舞鶴海軍軍需部第三水雷庫」で現在は「赤れんがイベントホール」。そして左右対称で右に長く続く倉庫は、「旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫」、現在は「赤れんが4号棟・赤れんが工房」として活用、ともに重文の指定を受けています。

まるでそのまま絵葉書になりそうな一場面・・・赤レンガに赤いポストはこれ以上ないほど似合っています。これでツタが絡まればパーフェクト😊

北吸浄水場の配水池に上屋、旧軍港引込線北吸隧道、建部山砲台跡に神崎ホフマン窯。海軍工廠として駆逐艦などを建造していた造船所、いくつもの橋梁、いくつものトンネル・・2005年当時は、倉庫群を見るのが精一杯で、他の建造物は次の機会に譲ったのですが、4年経って再訪してもやっぱり見に行けませんでした。最初の時はバイクだったので、暗くなる前に家路に着かなければならなかったという理由。二度目は、予定した場所の全部で、思いがけないほど時間をとられてしまった為。

それでも柵にしがみつきながら眺めていた自衛隊艦、二度目の舞鶴では乗船が出来ました。多分一生の思い出になったと思います😊

海上自衛隊「海軍記念館」の見学と、護衛艦「妙高」の一般公開、明日のブログで

訪問日:2005年10月28日&2010年7月10日


ふらり~舞鶴の町歩き in 京都府舞鶴市

2021年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴市字西の寺町界隈、どこと言う当ても無くのそぞろ歩きで、とても面白いものを発見しました!

細工瓦が大好きな二人、それは何も屋根に乗っかっているものに限ったわけでは有りません。たとえば古民家などでたまに見かける「鍾馗さん」。何と二階の窓の側にずらっと並んでいるではないですか😲

鳩・鍾馗・鳩・鍾馗・鳩と勢ぞろい😲。こちらの鍾馗さん、全く同じ物と思ったのですが、よく見ると左手の拳の位置など、微妙に違っています。

何か問題でも起こしたのでしょうか?神妙に頭を下げる鳩、何となく偉そうに説教でもしているような鳩・・並べた画像がたまたま面白かったので。

大きな寺社などでは鬼瓦が睨みを利かせ、本尊や境内を魔から守ってくれると言いますが、では鬼に睨まれてはじき返された魔は・・・という事で、お寺と向かい合う家では、鬼よりも強い「鍾馗」を屋根に据えて魔を防ぐ・・では、両方に弾き飛ばされた魔はどうなるのか気になるのですが・・。

それはさて置き、もしかしたら他にもあるかなと思って気にして歩いたおかげで、もう一体発見!

鍾馗さん・・・と言うより、おとぎ話に出てくる森の小人さんといった風情😄。確かに鍾馗さんの必須アイテムは揃っているのですが、先の鍾馗さん共々、これは本当に珍しく楽しい発見でした。この一帯は鍾馗さん不毛地帯と聞いていたので、知り合いの鍾馗コレクターさんには朗報だったようです。

折角の寺町散策、素通りもどうかと言う事で参拝させて頂いた「長久山:妙法寺」。総欅造りの本堂は文久二年(1862)の建立だそうです。

続いて「随心山 :浄土寺」。浄土寺は昭和21年(1946)に火災で伽藍を焼失。唯一残されたのが、二層の楼門の上層を鐘楼とした山門。

舞鶴市字南田辺に建つ「田辺城」大手門。「田辺城」は別名を「舞鶴城」とも呼ばれており、大手門は1997年に復興されたものです。

こちらの鬼瓦が何ともユニーク。もしかして角度の所為なのかもしれませんがこの飛び出したおでこ・・・おでこの所為で怖さも半減ですね。

資料館に展示されていた中から一つ。田辺城代々の城主の中では、歴史上一番有名であった『細川幽斎公座像』。彼に関しては一家言がある御亭主殿、まるで見てきたように歴史を紐解いてくれます。

田辺城大手門の近くには「田辺藩校・明倫館」の正門が、市立明倫小学校の正門として今も現役で残されています。

「明倫館正門」の近くに建立された「教練天覧之御跡」の碑。碑文には「昭和8年北陸大演習御統監の天皇陛下は、舞鶴重砲兵大隊教練を天覧された際に、招聘は感激し同隊営庭の中央に設置したが、大東亜戦争の終結により昭和26年戦後復興視察の御巡幸の折、この地に移設し昭和28年に当地に移設の碑を建てた。」

訪問日:2010年7月10日


三柱神社&笠水(うけみず)神社 in 京都府舞鶴市

2021年05月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴市伊佐津に鎮座される「三柱(みはしら)神社」。御祭神は『火産霊神 、奥津比古神、奥津比売神』。境内には三つの社殿が東に面して並び、中央に「三柱神社」向かって左(南)が「粟島様」。右(北)が「稲荷神」と並びます。

「江戸末期の加佐郡旧事記に「三宝荒神 村の西田ノ中森ノ 内ニ有リ」とあり、明治になってから「三柱神社」と改名。粟島社のほこらの中にある天保十一年(一八四〇)の棟札に「粟島」ではなく「淡島明神」と 書かれている。「淡島様」はイザナギ、アザナミ両神の国生みの神話では、一番目に生まれた 「水蛭子」、二番目に生まれた「淡島」。この二つの生命は流産又は死産児の霊で、現在でも 水子地蔵尊が信仰を集めているように、江戸時代には「淡島様」として女性の信仰を集めてい た。」境内案内より

岡崎量産型の後方、社殿前より神域を守護される狛犬さん一対、お小さいながらも独特の風貌をもち、会えて良かったと思わせてくれる存在です。

社殿の左に鎮座されていたことから「粟島社」と思われます。神域を守護されるのは、岡崎量産型狛犬一対。

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舞鶴市公文名に鎮座される「笠水(うけみず)神社」。御祭神は『笠水彦神・笠水姫神』の夫婦神。

「1人の武者修行者が通りかかり笠を置いて一服。そのまま眠って夢を見た…喉が渇き水が飲みたい!地面を杖で叩くとチョロチョロと水の音。武士は笠で水をすくい、心ゆくまで飲んだ。「この地に宮を祀れ。名を笠水と名のれ」と藤の木に彫って旅立った。また丹後風土記には「宇介美都(うけみず)」の訓が振られ、また真清水の湧く所から「真名井」とも記す。」舞鶴の名所旧跡より

社殿の前より神域を守護されるのは、出雲丹下系の狛犬さん一対。小さいながらにもしっかりした顔立ちです。

こちらの建物は社殿から少し離れた場所にあったものですが、中にお社らしきものが鎮座されているように見えます。

さらに木製の神殿狛犬がその両脇より神域を守護されています。もう少し仔細に内部を確認できればよかったのですが、神域故、これが精一杯でした。

社殿の石段に刻まれた石碑には、旧漢字で「十倉村・真倉村」と刻まれています。いずれも江戸期~明治22年に存在した村名で、京街道における田辺領最南端の村の名です。

参拝日:2010年7月10日