車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

飛騨民俗村・飛騨の里 in 岐阜県高山市

2020年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

今日のブログは、まだ私たちが車中泊に目覚める前の話。主にバイクタンデムの後部座席を主たる移動手段としていたけれど、当然、移動距離は限られます。さらに厄介な病気になった所為でバイクの後部座席も無理になり、沈みがちな日々が続いていたある日、車移動で高速を使えば、行きたいと言っていた飛騨だって日帰り出来ると・・・ご亭主殿から提案されました。

初めて走る東海北陸自動車道からの景色、初めて立ち寄るSA・PA。中国道・山陽道しか知らなかった私にとって、窓から見える景色はそれだけで別世界でした。

36個のトンネル(数えた)に驚嘆しつつ、3時間半かけてたどり着いた目的地は、高山市上岡本町にある「飛騨民俗村・飛騨の里」、正式名称は「飛騨民俗村」。この景色を見ただけで、もうすでに感動・感激モード😭

「飛騨の里に移築された茅葺き屋根の民家は6軒。合掌造り家屋と入母屋造り家屋に分けられます。茅葺き民家は飛騨地方でも豪雪地域にあたる北部、旧大野郡白川村・荘川村、旧吉城郡神岡町・宮川村・河合村などに多く見られました。なかでも白川・荘川の茅葺き民家は屋根が合掌した手の形に似ていることから「合掌造り」と呼ばれています。飛騨の里では、旧若山家・旧西岡家の「切妻合掌造り」の建物と旧吉真家に代表される「入母屋造り」の建物を公開しています。厳しい自然と向き合った飛騨のくらしが 合掌造りを生み出しました。」公式HPより

眼前に広がる「五阿弥池」は、昭和初期に新宮地区の水田用の貯水池として造成されたもの。緑の山々を背景にした池の面は、写しこんだ山の緑よりも深い碧に染まっています。池の畔にあるのは、旧高根村大字中洞から移築した水車を利用した粉ひき用の「わらび粉小屋」。当時は、わらび粉の採集、製造時には山中にあるこの小屋に住み込んで作業をしたそうです。後方に見える合掌造りの建物は、白川村大字長瀬より移築された「ハサ小屋」。収穫物の乾燥と作業に使われていました。

切妻造、板葺石置屋根の建物は、岐阜県指定重要文化財「旧新井家」。旧清見村池本の小鳥川沿いに建っていた農家で、江戸時代後期の建造とされています。1階軒下から突出した腕木の先の白い胡粉は高山の町人の中でも「旦那衆」と呼ばれる裕福な家のみに、塗る事を許されたものでした。

画像の左手、切妻造、板葺石置屋根の「旧田中家(国指定重要文化財)」。江戸時代の国学者『田中大秀』は、高山一之町で薬種商を営む「田中屋」の三男として生まれました。財産家だった田中家は商売のかたわら冬頭村(現高山市冬頭町)に田畑を所有し、小作人に貸し与えていました。この建物はそれらを管理する「田舎(でんしゃ)」として用いられていました。

「旧田中家」の手前右にあるのは、高山市一之宮町山下より移築された「旧中藪家(県指定重要文化財)」。軒高が低く、勾配がゆるい板葺石置屋根。 旧中藪家では、囲炉裏のあるオエから作業場のニワまで、床板を張らず、土間のままで生活していました。こうした床形式は「土座形式」といい、江戸時代中期以前に遡るといわれ、飛騨地方の民家の中でも非常に古い形態といえます。この日は、数少ない「クレヘギ」職人である『山口末造氏』による、クレヘギ作りの実演を見せて頂くことができました。( クレヘギは屋根に葺く板葺材)

山の水を引いた洗い場。ここで野菜や食器などを洗っていたのでしょうが、冬場はさぞかし寒くて冷たかったでしょうね。それでも川で直接・・に比べれば格段の設備であったと思われます。

昭和33年(1958)、御母衣ダムの建設によって水没する事になった「旧若山家(重要文化財)」。昭和34年に大野郡白川郷下滝村から高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなりました。

建物の2階は主に「おカイコさん」の飼育場として活用されていたそうで、その広さに驚かされましたが、何よりも、緻密に作り上げられた合掌造りの構造をじっくり見せて頂けたことに感動😍。

飛騨民俗村の建物の中では「旧若山家」の人気が一番高く、内部の見学を終えても人の姿が途切れることはありません。たくさんの観光客がひっきりなしに訪れ、記念の一枚のシャッター係を仰せつかります😅 で、お礼にとシャッターを押してくれます😄

でも流石に裏手に回って来る人はいませんね。良い景色なのに・・

1996年から約3ヶ年かけて飛騨の里に再移築された「旧若山家」。移築に際して当時の風景を忠実に再現するため、家のまわりには石垣、川、段々畑、裏の池などがつくられたそうです。

旧若山家の西側に建つのは、旧河合村大字保から移築した「立保(たてほ)神社拝殿と舞台」。立保神社は鈿女・白山・国作大神社の三社を合祀した神社で、三社の拝殿を集めて建てられました。上を拝殿、下に舞台、もうひとつを神饌殿として使用。飛騨の里に移築した際にこれを楽屋にして、花道でつなぎました。「神様に奉納する神事」は、雪深い地で暮らす人たちにとって、実はとても大切な娯楽の一つでもあったのです。

飛騨北部の豪雪地帯にあった茅葺き入母屋造りの「旧八月一日(ほづみ)家(市指定重要文化財)」。旧大野郡荘川村にあった西願寺の庫裡として建築。室内では飛騨地方で用いられた「ソリ」が多数展示されています。飛騨地方においてソリは、積雪の多い冬期間の最も重要な運搬手段であり、用途に応じて様々な種類のソリが考案され、用いられていました。

屋根部分の破風の中には、「鼻小屋」と呼ばれる小さな屋根付きの出窓が設けられており、屋根裏の採光に使われていました。

旧八月一日家の横に立つ「鐘堂(大正6年建築)」は、揣岸寺(臨済宗妙心寺派・都竹清隆住職)より寄付されたものです。

「旧冨田家(県指定重要文化財)」は飛騨市神岡町杉山、飛騨地方と富山を結ぶ越中東街道沿いにあり、「茂住(もずみ)鉱山」の仕送人として荷物や牛馬の中継を営んでいました。家の構造はチョウナ造りと呼ばれ、中央部分の居住空間を高く抜いて右側に中二階を設けた、茅葺き入母屋造りの飛騨地方北部の建築様式を色濃く伝えたものです。

暖かな日差しが差し込む縁側近くの部屋では、地元の方による「飛騨さしこ」の実演が行われており、小物の販売もされています。

ある種のテーマパークでありながら、ここには確かな人の息遣いが残されています。使い込まれ、鋼鉄のように固くしまったた土間の土の色、わずかに残る柱の小さな傷・・そこには確かに「家族」の暮らしがあったのです。

実りの田の向こうに見えるのは「匠神社」の石鳥居。本殿は旧河合村保にあった「鈿女(うずめ)神社」を移築したもの。覆殿は旧宮川村加賀沢の「白山神社拝殿」、丹生川町からおいでになった「狛犬さん」・・・いずれも飛騨の里のために各地から集められて作られた神社だそうです。

コットン・・コットン・・・水の流れに促されて水車がゆっくりと回っています。静かな山間の村にこれほどふさわしいバックミュージックが他にあるでしょうか。

丘の上に祀られていた小さなお社も・・・・きっと何処からか移されてきたのでしょう。神は人の敬いによって神になると言われます。このお社に鎮座される神が永遠に神であられますように・・

最後の茅葺民家は白川村加須良より移築された「旧西岡家(県指定重要文化財)」。この時は茅葺屋根の補修もしくは修繕がなされており、内部の見学はできませんでしたが、別の意味で興味深い経験が出来ました。旧西岡家があった加須良地区は白川村最北の集落、峠を一つ越えれば富山県五箇山の上平村に至ります。

白川村・・五箇山・・・この時思ったのです。絶対にいつかそこに立って、人の暮らしの中にある合掌集落を見たい。その時から五年の歳月を経て、画期的な医学の進歩に救われ、さらに車中泊という移動手段を見つけた・・。そうして、さらに二年の後、この時の願いは、飛騨民俗村訪問から七年後。2012年5月の白川村、更に10月の五箇山訪問で本当に現実のものになりました。

訪問日:2005年9月24日


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