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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

東尋坊(とうじんぼう) in 福井県坂井市三国町

2016年05月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県北部の海岸線に約1kmにわたって連なる巨大な柱状節理。これだけ大規模な柱状節理は世界的にめずらしく、「柱状節理世界三大絶勝」の一つに数えられる「東尋坊」

また、地質学的にも貴重であることから、国の天然記念物&名勝に指定される「東尋坊」

断崖絶壁&高所は、お子様向けのタワーでも足がすくむという筋金入り高所恐怖症の私ですが、それでもこれほどの名称を見ずに「福井県に行ってきた」なんて恥ずかしくて言えない!😅

覗き込んでみる柱状節理の断崖。何が嬉しいかって、この日がとっても良いお天気だったこと。汗ばむ好天に恵まれ、風もほとんどなく、海も空もきらきらとこの上なく穏やか。見よ!この勇姿😁

この美しい柱状節理、私が写したんだよと義姉に写メールを送ったら「〇ちゃん!!大丈夫?!」と、私の精神状態を気遣う返信が・・・なんでやねん!😫

私だってこれくらいの写真は、頑張ればモノにできるんです!・・・って、ご亭主殿、種明かしは止めてください!

東尋坊で一番高い絶壁はなんと25m。この場所なのか、他の場所なのか不明ですが、とにもかくにもここも十分に高所絶壁・・・スカートの裾をたくし上げて平地に向かう私。ひたすら足元だけを見てソロリ・・ソロリ😨

余裕の笑顔で生暖かく見守ってくれるご亭主殿・・《今夜の夕食・・絶対に!おかず一品減らしてやる!by心の声😠

そんなこんなしていると、真下に「東尋坊観光遊覧船」が着岸。観光案内ではハチの巣岩とかライオン岩とか、海上からでしか見られない絶景ポイントが一杯らしいけど・・船酔いしたら後が困るので、ここはパス。

ところでこの「東尋坊」って、実はお坊さんの名前だって、今回初めて知りました。昔々のお話に登場する「東尋坊」という名のお坊さん。これがまた、周囲に乱暴の限りを尽くすとんでもない悪僧。ある時、恨みを買っていた恋敵に岸壁に呼び出され、おべんちゃらの一つでも言われたのか、勧められるままに酒を飲み、酔ったところを見計らって、崖から突き落とされてしまいました。ところが坊主殺せばの諺にもあるように、それから49日間、海は異様に荒れ狂い、恐れをなした人々はいつかこの地を、お坊さんの名を取り「東尋坊」と呼ぶようになったと・・。当のお坊さん、名前を残されて往生したのか、それとも49日後も変わらず荒れ狂ったのか・・特に後日談は無いようです😅

ラストは有名観光地のお約束。見知らぬ旅行者同士が互いのカメラを預けあっての記念写真。良い思い出になりました。

訪問日:2012年6月15日


白山神社 in 福井県坂井市三国町

2016年05月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

坂井市三国町米ヶ脇に鎮座される「白山神社」。ご祭神は『伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理姫命』

急な石段の先に二の鳥居。その奥に拝殿と雪囲いがされた流造の本殿。

「創立年は定かでない。然し当地は近くより弥生中期の銅鐸や椿塚古墳が発見された大変古い時代からの浦辺であり、今から千年以上の往古、「越前国名蹟考」には、安島郷六か村の一つとあり、即ち雄島の三保大明神を総社とする十か村からなる雄島郷の古社の一社であった。毎年三月二十一日の「お獅子さま」の神事は、そのことを今に伝えている。」境内由緒より

入母屋造りの拝殿前左右より神域を守護されるのは、ご亭主殿一押しの「大正八年七月」建立の笏谷狛犬さん一対。

加賀狛犬を連想させる雅で美し彫り込み。互いに見交わす目線の確かさ。

上等のパフェを連想させる尾の美しさ。流れる鬣はくどさを除外してあっさりと優雅に。ご亭主殿、何度も何度も撫でまわして悦に入っております。

吽形さんの足元に置かれていた謎の石ですが・・どう見ても狛犬さんに見える。これが自然石であるなら、まさしく白山のご祭神に召されたに違いない。そんな突飛な空想がすんなりと受け入れられるほど、それは神獣に近い造形をしています。

同行のj🐣さんに促されて記念の一枚。こういう時は同行者がいると、思い出の写真もより濃く確かになるね。

参拝日:2012年6月15日


みくに龍翔館 in 福井県坂井市三国町

2016年05月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

三国町緑ヶ丘、三国町に関するあらゆる情報を調査収集し、展示紹介する総合博物館として、昭和56年(1981)に開館した「みくに龍翔館」

白亜の洋館は、明治時代にオランダ人工師エッセルの設計により建築された龍翔小学校の外装を模したものとありますが、私が最も惹かれたのは「小学校の外装」という説明。

黎明期に日本の各地に建設された小学校校舎は、私の大好きな分野の一つ。静岡・長野・山口・岡山・広島・島根・愛媛・滋賀・福島・・・どの土地にも往時の姿を保存活用した小学校校舎があり、その都度に感動したものです。ここが「模した建物」であっても、やはりその気持ちは変わりません。

往時の歴史を語るものではありません。ありませんが、往時のたたずまいを確かに伝えてくれる建物。目を閉じて、得意の想像力を駆使すれば、華やかな門をくぐる子供たちの得意げな顔が見えてくる・・そんな気がします。

おや? 入口の前で何やら怪しい女二人。おお、これはもしかしてプロポーズなのか? 昨今流行りのLGBTのプロモーション?・・・なんて思われたら心外なので(笑)、あえてきつく否定します!!単にふざけてただけです!

館内は、北前船資料を中心に、自然、歴史、民俗、文学などがわかりやすく展示構成されているそうですが、私たちは外観のみで満足。向学心の無いこと甚だしい。向学心はないけれど雑学なら・・という事でエッセル氏ってだまし絵のエッシャーのお父さんだよ」。J🐣さんの反応は「エェ~~そうなん?!」。ご亭主殿ときたら「ふ~~~ん

何時ものごとくしょうもないおしゃべりで笑いあう三人。二人の旅も良いけど、気の置けない誰かが一緒だとまた楽しさも格別。

敷地内に植えられていた「愛子萩」。傍らの立て札には、三国町出身の俳人『森田愛子』の庭に植えられていた萩とあり、句が添えられています。彼女のことはここに来るまで全く知りませんでしたが、わずか30歳の若さで生涯を閉じたこと。また『高浜虚子』の写生文「虹」のヒロインとしても知られているそうです 「萩咲くと はげまされつつ 病床に」

訪問日:2012年6月15日


旧森田銀行本店 in 福井県坂井市三国町

2016年05月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

坂井市三国町南本町、元町山車蔵に隣接する「登録有形文化財:旧森田銀行本店」。福井県内に現存する鉄筋コンクリート造としては最古の建物で、設計技師は横浜市開港記念会館や長崎県庁も手がけた『山田七五郎』氏。大工棟梁は地元の『四折豊(しおりゆたか)』氏

かって北前船による廻船業を生業とした豪商:森田家。明治時代になり廻船業の衰退を察知した森田三郎右衛門は、明治27年(1894)に森田銀行を創業し、業種転換を図りました。そうして確かな信用のもと、県内上位の優良な銀行に成長。明治36年(1903)11月に、株式会社に改組。その後、大正9年(1920)に新しい本店としてこの建物が落成します。

外観は西欧の古典主義的なデザインで、外壁には茶系タイルと擬石が用いられて、内部は豪華な漆喰模様。建物は左右対称の構成。

ファサードの意匠にはブロークン・ペディメントが用いられており、それはまるで旭日のような明け行く太陽の輝きを描き出しています。

昭和2年(1927)11月30日:加賀銀行を合併。翌・昭和3年(1928)10月:勝山野村銀行を買収。玄関正面には重厚さを感じさせる社名銘板

ワクワク感を抑えきれずに館内に。1階吹き抜けの営業室から客溜まりにかけての天井には、直径約2メートルの見事なこて絵。柔らかい灯りが、ともすれば大げさに見えがちな鏝絵をほのかに浮かび上がらせ、それはさしずめ夢の世界。

カウンター越しの会話なんて、ATMしか経験ない人にはきっと面倒くさいだけだろうけど、こうして前に立ってみると何だろう?この特別感😊

カウンターの奥に見える部屋は、特別な顧客用の応接室?かと思ったのですが、どうやら重役室らしい。

ああ、その前にもう1か所、カウンターの左奥に立てられた回廊を支える飾り柱。まるで大理石のような柱は、実は芯柱に漆喰細工を施したもの。それをさらに際立たせる鏝絵。・・・見とれてじっと上を見てたせいで首が痛い😅

そうして場違い感が半端ない服装に若干気後れしつつ、それでも一応、立ち居振る舞いは柄になくおしとやか😄。

その後、森田銀行は昭和5年(1930)12月7日に福井銀行と合併、近年まで福井銀行三国支店として営業されていました。1994年に三国町(坂井市)の財産となり、詳細な調査を踏まえて復元保存工事が行なわれ、5年後の1999年7月より一般公開されました。建物は1997年12月に文化庁の登録有形文化財に指定されています。

ラストは敷地の一画に保存展示されていた「森田銀行創建当時の鋳鉄製の煙突の先端部分で屋上に取り付けられていたものです」

訪問日:2012年6月14日


八幡神社(三国神社) in 福井県坂井市三国町

2016年05月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

石段先に鎮座される境内社「八幡神社」御祭神は『応神天皇』

かって森町には特に鍛冶職が多く居住しており、八幡神が武人の神であることから、守護神として崇敬され、古くから「桜谷地主神」として祀られてきました。

今回の参拝で特別印象深かったのが、こちらの拝殿彫刻。がこれまた素晴らしく、一見と言わず二度~三度と見返したくなる秀逸さ。逆巻く波間に相対する龍と嬰児を捧げ持つ人の姿。

金網越しなので今一つ鮮明さに欠けるのですが、応神天皇を抱く建内宿禰の図。

なんといっても秀逸は抜き彫刻の風神・雷神。これまで相当の数の貫彫刻を見てきましたが、風神・雷神というのはおそらく初見。こういう逸品に出会えるのも、歴史ある寺社の所以。

拝殿前左右より神域を守護されるのは「昭和二年(1927)十一月建立」の出雲丹後の狛犬さん一対。仔狛をじゃれつかせる吽形さん。で・・又しても阿形さんを撮り忘れ。ご亭主殿も理由がわからないそうで・・三国神社・・微妙に謎に包まれています😓が、仔狛の可愛いお尻に免じてご容赦を😣

境内右側に祀られる境内社「事代主神社」

社殿前左右より神域を守護されるのは、細部まできっちりと彫り込まれた笏谷石狛犬さん一対。強面なのですが、見方によっては間違いなく「笑ろうてはる」😄

境内社「厩戸神社」

社殿前柵外より神域を守護されるのは「大正十二年(1923)四月建立」の出雲丹後系の狛犬さん一対。吽形さんが仔狛を抱いていないのは、実は意外とまれ。阿形さんのあご下は剥落が進んでいます。

振り返ってみれば、あれもこれもと撮り逃しが多かった三国神社。この後に予定している森田銀行の開館時間に間に合わせなければ・・と気持ちが参拝を焦らせてしまいました。

参拝日:2012年6月14日


三国神社 in 福井県坂井市三国町

2016年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

坂井市三国町山王に鎮座される式内社「三国神社」。ご祭神は『大山咋命(山王権現)・継体天皇』

巻銅板の台輪鳥居のうち、左右より神域を守護されるのは大正四年(1915)十一月建立の出雲丹後の狛犬さん一対。阿形さんは何時ものように、前足の間に仔狛を遊ばせています。親狛にしがみつきながらも、後ろが気になって仕方がないといった風情が、何とも可愛い。

由緒「天文9年(1540)兵庫川より流されてきたと伝わるご神体の大山咋命を祭神として山王宮を建立。港町の発展と共に山王信仰が厚くなった。明治3年(1870)に桜谷神社と改称。明治5年(1872)に水門宮の祭神:継体天皇を合祀、明治18年(1885)三国神社と改称。天保2年(1831)飢饉の際に窮民救済のため、社殿改築及び境内整備の工事が内田惣右衛門の主唱で行われた。これが現存する本殿及び拝殿である。」

石段先に緑に包まれるようにすっくと出迎えてくれるのは、三間一戸・入母屋造り、銅板葺の楼門(県指定有形文化財)。公式Hpによれば「棟梁・森町大工・安右ェ門・23歳。元治元年に釘始・明治3年に完成。和様を基調としながら扇垂木など禅宗様を加味している。」

「楼門の左右の随身像は明治2年・松下町の寄進。作者は当湊の志摩竜斉で、楼門上の光華閣の3字額は慶応4年・第17代福井藩主・松平茂昭公の寄進。」

千鳥破風唐破風付き入母屋造りの拝殿は、由緒にある窮民救済のために改築されたもの。天保11年還宮式 棟梁・寺町大工『八十島四郎兵衛』

拝殿彫刻は正面唐破風の下に懸魚の鳳凰。後方下に母屋の桐花。

虹梁上には大山昨命の神使いである群猿。撮り忘れてしまった迫力満点の木鼻の獏は、彫刻作者『志摩乗時』で、町指定文化財😱。

金網に守られていて不鮮明ですが、じゃれあうもの、のっすりと歩くもの、何かを見つけてはしゃぐもの等々・・実に多彩なしぐさを見せています。ところがこの猿が夜な夜な抜け出して悪さをするようになり、そこで猿の前に柵が張られたと。名人が生み出すものには命が宿る・・という逸話はここでも健在です。

本殿後方軒下でひっそりと参拝者を迎える雄の石猿・・・ぼかしを入れるべきか迷いましたが「まぁ良いか😉

拝殿前左右より神域を守護されるのは「明治四十二年五月中旬建設」刻の、難波タイプの狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を左手にじゃれつかせ、阿形さんは大きな玉を左に押さえています。このタイプは京阪神でよく見かけるのですが、いつ見ても気弱そうで、これで神域の守護が務まるのだろうかと一抹の不安😅

元山王宮跡地「天文九年四七〇年前此の地に流れついた大山咋命(山王権現)を正智院に安置。永禄七年四四六年前此の地に山王宮を建立した。天保十三年現在地に新しい社殿を建立遷宮をした。古文書には旧跡地に大岩をすえ鳥居を建てるとある。元の社殿は現在絵馬堂として移築し残っている。神社境内の中で一番古い建物である・・・」駒札より

鳥居の内より跡地を守護されるのは笏谷狛犬さん一対。本来は灰白色の肌は長い時の中で苔に覆われて不思議な緑に変色。踏ん張る前足も細く削られています。

鳥居の左右より神域を守護されるのはハジメを思わせる笏谷狛犬さん一対。一瞬だけですが(本当に一瞬ですよ!!😅)巨大なカエルさんを想像してしまいました😔

「木立神社」。御祭神は幕末から明治における福井藩の名君『松平慶永公』。公式HPに「明治24年に三国神社内に建立。郷土出身の彫刻師『島雪斎』が彫刻した松平慶永の寿像に太刀一振りと立願文を添えて氏子が祭った。」

社殿前左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんのおなかに背中をぴったり貼り付ける仔狛さんが可愛い😄

参拝日:2012年6月14日

 


八幡神社 in 福井県坂井市丸岡町

2016年05月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

坂井市丸岡町長畝(のうね)に鎮座される「八幡神社」。ご祭神は『應神天皇』。鳥居正面、まっすぐに神橋、拝殿へと続きます。

境内碑文「寛文年中(1670年頃)丸岡藩主本多重昭は長畝八幡に社地九段余歩を寄進して、鬼門除けの守護神とした。元禄10年(1694)に藩主有馬清純は社領百石を寄進し如意山中台寺を八幡宮の別当とした。中台寺は、真言宗で寬海の開山である。維新の際、中台寺から出火して、社殿を焼失したので、そり橋を明治3年に国神神社に移した。10年に至って、現在の境内に再度移築した。」

鳥居を潜った先の参道正面に、明治3年に国神神社に移築されその後再度この社に戻された石の反り橋。

反り橋正面に入母屋造の「拝殿」

拝殿前左右より神域を守護されるのは、日本海を渡ってはるばるこの地に奉納された「大正八年(1919)四月吉日建立」の、出雲丹後系の狛犬さん一対。いつどこで見ても、ゆるぎない強面。いっそすがすがしい程の強面(笑)

境内奥のお社を守護される笏谷狛犬さん三対。

年代不明の笏谷狛犬さん。ストレートヘアーは健在ですが、気比神社等でお見掛けした狛犬さんたちとは明らかに顔立ちが違う。健康優良児のようにふくよかで、いたずら盛りの坊ちゃんを連想させます。

真横からと真後ろから。とって付けたような尾が、笏谷狛犬です!とその来歴を主張。

お社前の小さな二対の狛犬さん。手前の狛犬さんにはきちんと添え石が置かれ、また神殿狛犬と思われる奥の狛犬さんも、ともに下座に降りて、大切な神域を守護されています。そうして狛犬好きは、こうした配慮が格別に嬉しいのです。

長畝「日向神楽」案内

参拝日:2012年6月15日


丸岡城と一筆啓上 in 福井県坂井市丸岡町

2016年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

坂井市丸岡町霞町にその美しい姿を残す「丸岡城」。柴田勝家の甥で養子となった柴田勝豊によって築かれ、江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重が城主福井藩主に。さらに松平忠直の隠居に伴い本多家が独立し、丸岡藩が成立。本多家が改易となったのちは、有馬氏が入封し、以後8代が丸岡藩藩主となりました。

入母屋造りの屋根の上に望楼部分を載せた形式は「望楼型天守」と呼ばれ、戦国時代に多く見られた古風な型式ですが、坂井市教育委員会による2019年の学術調査により、江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建てられたことが判明。また天守台石垣は高さ約6.2mの野面積み、屋根は石瓦で葺かれており、これは現存天守では唯一の事例。二層三階、高さ約12mの独立式望楼型天守は、別名「霞ヶ城」とも呼ばれ、これは、合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説が由来とも言われています。

日本全国に、江戸時代以前に建設された天守が残っている城は十二城。それらは「現存天守」または、「現存十二天守」と呼ばれ、丸岡城は北陸地方に残る唯一の貴重な天守であり、国宝の指定を受けましたが、昭和23年(1948)の福井大地震で天守は倒壊。その後、昭和30年(1955)に部材を70%以上再利用し組み直して修復再建され、国重要文化財に指定されました。

「一筆啓上 日本一短い手紙の館」

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の文は、本田重次が天正3年(1575)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙とされ、日本一短い手紙として有名です。(「お仙」は嫡子:成重の幼名)

「牛ケ島石棺」

福井県史によれば「棺身に遺骸を入れる部分を刳り抜くために、寸法をとった線刻による刻み目が石棺の頭部小口上端に二か所、脚部小口上端に二か所、右長側面上端に二か所残っている(図27)。普通は石棺の仕上げ段階で、丁寧に削り取られて見ることができないものであるが、消し忘れたと思われるたいへん珍しい例である。」と説明されています。

さて、この「しゃちほこに祭」の文字のプレートはどこにあったものだったのか・・・

訪問日:2012年6月15日

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現存天守の12城のうち、「弘前城(青森県)・備中松山城(岡山県)」以外の10城を訪問。この事実に一番驚いていたのは、だれでもない私たち💦

「松本城(長野県)・丸岡城(福井県)・犬山城(愛知県)・彦根城(滋賀県)・姫路城(兵庫県)・松江城(島根県)・丸亀城(香川県)・伊予松山城(愛媛県)・宇和島城(愛媛県)・高知城(高知県)」


えちぜん鉄道:永平寺口駅~松岡駅 in 福井県永平寺町

2016年05月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

永平寺町東古市に位置する「えちぜん鉄道勝山永平寺線:永平寺口駅」

大正3年(1914)2月11日、京都電燈越前電気鉄道の「永平寺駅」として開業。昭和2年(1927)年正月に駅名を「永平寺口駅」に変更。昭和19年(1944)12月1日、永平寺鉄道が京福電気鉄道に合併されて永平寺線となり、「東古市駅」に改称。2003年2月1日にえちぜん鉄道に事業譲渡され、2月20日には再度「永平寺口駅」にと・・・随分と目まぐるしく駅名変更されています。

木造の駅本屋は大正3年の開業時に建てられたもの。私達の訪問時は現役の駅舎だった「永平寺口駅」は、2014年4月11日に新駅舎にその座を譲り、現在は地域交流館として使用されているそうで、貴重な現役時代を拝見できました。

「木造平屋建、屋根は寄棟造瓦葺、正面入り口には切妻屋根。線路側の屋根を葺き降ろしてホーム上屋も兼ね、外壁は下見板張で全体に白いペンキ塗り。」この可愛らしく瀟洒な駅舎は、2011年に「永平寺口駅:旧駅舎」及び「旧京都電燈古市変電所」として、国登録有形文化財に登録されました。

永平寺町松岡神明1丁目に位置する「えちぜん鉄道勝山永平寺線:松岡駅」

「現在の松岡駅は2代目の駅舎で、昭和8年(1933)頃に建てられたとされる。木造平屋建、屋根は半切妻造桟瓦葺で、正面入口に寄棟の屋根を出す。桁行14m、梁間3.7m。外壁は南京下見板張。急勾配の屋根と妻上部に設けられた円形の窓、レールで作られた柱が印象的な駅舎である。」福井の文化財より

まるで双子のような二つの駅舎、違うのはレールで作られた柱の色と妻上部の窓の形状、そして駅名。駅舎の向かって左にホームのある永平寺口駅。対して向かって右にホームのある松岡駅。古き良き時代・・などと懐かしがるほどその時代を知っているわけではないし、ましてこんな瀟洒な駅舎も私の記憶の中にはない。それでも胸の奥がうずくようなこの気持は、やはり古き良きものへの愛着なのでしょう。

薄青と白の一両電車が入ってきた。良くは知らないけれど、多分あれが「モハ5001形電車」なのだろう。このまま一駅でいいから乗ってみたいねって・・言うだけだってわかってるから「そうだね」と気楽に笑って相槌を打っている。

松岡駅の近くで見かけた「黒龍酒造」さん。ご亭主殿、いくらそこで立ち止まられても、寄りませんよ!!

訪問日:2012年6月14日


勝山城址と勝山城博物館 in 福井県勝山市

2016年05月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

戦国時代の天正8年(1580)、『柴田勝家』の一族である『柴田勝安』によって築城された「勝山城」、別名を「袋田城」。現在の勝山市役所付近が城跡中心部の本丸跡だったそうで、市役所前の道路付近に堀が設けられていたと云われています。

柴田氏以降、成田氏・結城氏・松平氏と変遷し、やがて勝山藩の藩庁がおかれ、後に天領に。その後、小笠原氏が城主となって明治維新までこの地を治め、明治時代に廃城となりました。城の建物は全て取り壊され、庁舎脇に僅かに「勝山城跡」の碑が残るのみ。

唯一現存する建物としては、成器堂講堂、演武場、表門、土蔵があるのみ。私達が実際に見る事が出来たのは、「勝山神明神社」の社務所となった「成器堂講堂」だけ。

「成器堂講堂」は勝山藩の藩校で、天保12年(1841)に勝山城三之丸の西側に読書堂として建築。明治44年(1911)に現在地に移築され、外観は藩校当時のままで、勝山市指定文化財となっています。

 同じく、勝山市指定文化財の「毘沙門の金燈籠」。万延元年(1860)に旧勝山町の有力町人28人が世話人となって、本町通の十字路に建立 。その後明治の火災や往来の激しさを受け、昭和になって毘沙門堂の境内に移されました。

勝山市平泉寺町平泉寺。車中からこの建物が見えた時は、単純に「お城だぁ~」と喜び、急遽立ち寄る事になったのですが・・・

駐車場に車を入れて颯爽と中に・・「でもなんか違うよね??」「ああ、なんかぜんぜん違うねぇ^^;」。 少し遅れて合流したJ🐣さん「これ、何城??」

一見、立派な天守閣に見えた建物は「勝山城」とは全く無関係の天守閣風建築「勝山城博物館」。1992年に開館した登録博物館で、建物は姫路城に似せたコンクリート製の模擬天守。堀や城門は本物のお城さながらに重厚な造りになっています・・・・と、帰宅後に知りました(笑)

石垣には勝山市を流れる九頭竜川と、勝山市から発見される恐竜化石にちなんで九匹の龍が彫り込まれ、建物としてみる分にはそれなりに楽しめました。なにしろ閉館4時・・全然間に合いません。

勘違いで出会ったちょっと楽しい建物。こういうのに出会えるのも、それはそれで悪くはないね。なんて笑い会えるのも、旅の途次の小さな魔法。さぁ日が落ちる前に今夜の車泊地までもう一走り。

訪問日:2012年6月13日&2017年9月30日