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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

須部神社:恵比寿神社 in 福井県若狭町(旧三方町)

2016年06月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町末野字神ヶ谷に鎮座される「須部神社:恵比寿神社」。御祭神は『蛭子大神(恵比須大神)・ 大国主大神(大己貴命)・陶津耳之命(すえつみみのみこと)』

町指定重要文化財の朱塗りの鳥居は、正保2年(1645)、若狭藩主『酒井忠勝公』より寄進。生憎の逆光で、朱塗りと分からないのが辛いところ(^^;)

「当式内:須部神社は御祭神により 恵比須神社(えびすさん) また  西の神さん と称されております。須部神社の創祀は、養老2年(718)9月28日 恵比須大神が末野の地に顕れ、翌養老3年(719)3月23日 社殿を建て祀ったと伝えられております。陶津耳之命はこの郷土末野(陶恵又は須恵)の産土の神として祀られています。往古(約千三百年前)よりこの地には祝部(はふりべ)土器、須恵器が産出され、陶業を司る祖神、文化発展の神として崇敬されています。」公式HPより

朱塗りの鳥居を潜り割拝殿を奥に進むと、非常に開放的で明るい拝殿へと至ります。

その拝殿横より神域を守護されるのは、何タイプに分類すればよいのか迷ってしまう、安政6年(1859)己未3月建立の狛犬さん一対。耳元から顎にかけての毛並み、体に刻まれた獅子紋等々、いずれも個性的で記憶に残る狛犬です。

台座の足元には、越前かむろ型狛犬さん。なぜか画像はこの二枚とアップが一枚のみ・・・右の画像が相方の後ろ姿であれば良いなと心底思います(^^;)

さらに足元にはもっと小型のかむろ型狛犬さん一対。かむろという言葉からこれほどかけ離れた顔立ちと言うのも、ある意味面白すぎます。

境内の一画に奉納されていた「鯛」は、昭和25年(1950)10月大祭日建立。御祭神の恵比須大神は、漁業の守護神とされます。

御祭神の蛭子大神は、幼にして親に離れご努力の末、生業の道を拓かれた生い立ちと御実蹟により「子共之守り神」として特殊信仰がなされています。

鐘楼

参拝日:2012年7月10日

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御神名一口メモ

『陶津耳之命(すえつみみのみこと)』、「大物主神」の妻となった「活玉依毘売」の父。

 


宇波西(うわせ)神社 in 福井県若狭町(旧三方町)

2016年06月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町気山字寺谷に鎮座される「宇波西(うわせ)神社」。御祭神は『彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)』延喜式神名帳では名神大社に列し、北陸道の352座の神社の中で唯一、月次・新嘗の幣帛に預る神社とされます。

由緒「社伝によれば、御祭神鵜草葺不合尊と伝えられ御母豊玉姫が海辺で鵜の羽などを葺草にまぜて産殿の屋根を葺かれ、それができあがらないうちに御安産されたので右のような御名を奉られたという。 古来漁猟又安産の守護神として崇敬されている。古伝によると文武天皇の大宝元年(701)日向浦に垂跡あって、同年3月8日に上野谷に遷られ、大同元年(806)3月8日更に現在の地に御鎮座されたという。 建武・元亀年間再度兵火の為に炎上。現在殿は嘉永4年(1851)に造営された。」福井神社庁HPより

神橋を渡った先はさらなる神域。

清めの水を吐くのは「鵜」。はるかな昔、『鸕鶿草葺不合尊』の所在を漁師の六郎右衛門に伝えたことから、此処では「鵜」が神使いとされています。

手水鉢は三百二十余年前、浦見川開削を成し遂げた『行方久兵衛』が寄進したもので「寛文三年癸卯(みずのとう)暦 五月吉日施主敬白」と刻まれています。

手水舎の傍らに奉納された石灯籠、よく見ると宝珠の部分に小さな狛犬が乗っかています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんは左に子狛を連れ、吽形さんは毬らしきものに右手をかけています。

阿形さんの足元からこっそりと振り返る仔狛さん。大切な尾が欠けてしまったのがとても痛々しい・・・

拝殿の向背には「波間に戯れる鵜」。ふつうであれば「龍」が使われる場所の大半が「鵜」にとって変わられ、いかに「鵜」が重要な役目を果たしたかが、随所に示されています。

祈願絵馬に描かれているのは、毎年4月8日に宇波西まつりで「王の舞」を演じる舞人がつける鼻高の朱面。豊作や豊漁、そして国の平安を祈って演じられる「王の舞」は中世頃より始まったと言い伝えられており、他の二つの舞と共に国の選択無形民俗文化財に指定されています。

社殿左側 の境内に、樹高:約 28m、幹回り:5.07m、樹齢800年以上といわれる、町指定天然記念物の御神木の大杉。幹の先端は、明治にあった大火の延焼で枯れ、また平成になってからの落雷を幹に受け、樹皮がはがれることもあったそうです。多くの人の手によって守られてきた御神木は、大きく枝を広げ空に向かって聳え立っています。

参拝日:2012年7月10日

 


三宅区火の見櫓 in 福井県若狭町上中町

2016年06月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

鯖街道の南、農家が点在する若狭町三宅地区のほぼ中央に、当地区のシンボルとされる「三宅区火の見櫓」があります。

実はこれを探すのに大層手間取り、通りかかった人に尋ねてやっとたどり着く事が出来ました。江戸時代後期に建てられたと推定され、国の登録有形文化財になっている建造物・・それがここまで分かり難いなんて。

何といっても驚愕だったのは、櫓に上がる為の垂直に伸びた梯子段。慎重に足を運ばないと一気にまっ逆さま!!筋金入りの高所恐怖症の私・・見上げるだけでガクブル😨

建物の中には手押し式の消防ポンプが置かれていましたが、他にはこれと言ったものがある様子もなく・・もう少し詳細に見えればもっと何かあったのかもしれませんが・・・

せっかくの文化財、もう少し日の目を見ても良いと思うのは私だけかな?

消化不足の感が否めない「三宅区火の見櫓」の見学。これでも本来は充分な筈なのに、つい他に何かないかと探してしまうのは、持って生まれた貧乏性故😅 でも結局何かを見つけても、それが何であるかもわからないままと言うのがオチなのです😊

訪問日:2012年7月10日

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若狭町熊川にある「道の駅:若狭熊川宿」。この日は三宅区火の見櫓の見学後に、こちらで車泊をさせて頂きました。施設も設備もとても綺麗で気持ちよく、本当に素敵な道の駅です。車で旅をする者にとってこのような施設は本当に有難く大切な存在です。

改めて、その折は有難うございました m(__)m

 


熊川宿(くまがわじゅく) in 福井県若狭町上中町

2016年06月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町にある 若狭と京都を結ぶ旧鯖街道「熊川宿(くまがわじゅく)」。1996年7月9日、若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝建地区に選定。また2015年には「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定されています。

若狭では古くより小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われ、若狭から京都へ至る多数の街道や峠道が作られていました。街道で運ばれた物資の中でも特に「鯖」が有名になった事から、これらの道を総称して「鯖街道」と呼ぶようになりました。

宿場の入口には、元の位置に現存する唯一の番所「熊川番所」が設けられてており、どこかで見たような顔のお役人が宿場を通過する人たちをしっかり吟味しています。

熊川宿が置かれた地は近江との国境近く、小浜と今津のほぼ中間点に位置しており、天正17年(1589)に小浜城主:浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備。江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄してきました。

旧街道に沿って流れる水量豊かな前川。往来と家屋とを結ぶ石橋や、水流を利用した水路の芋洗い水車など、往時の佇まいを色濃く残す約1kmの町並みが、私たちの目の前に展開されています。

熊川宿の観光案内やポスターでは必ずと言ってよいほど目にする、この橋のある風景。上ノ町と中ノ町を結ぶ「中条橋」を渡ったその先に、「旧逸見勘兵衛家住宅」があります。

旧逸見家は、伊藤忠商事2代目社長『伊藤竹之助』の生家で、主屋・土蔵・庭が町指定の文化財となっています。

伊藤忠商事二代目社長となった『伊藤竹之助翁(旧姓逸見』)が、昭和15年に熊川村役場として建てた「若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館」。トスカーナ風の柱頭をもつ円柱が建ち、寄棟瓦葺の2階屋根の中央には越屋根が付いています。

館内には往時を物語る様々な諸道具が展示され、特に古い看板が大好きな私を喜ばせるものも一杯。

当時の学校の表札でしょうか?尋常小学校は聞き覚えがありますが、実業補習学校」と言うのは初見。おそらく技術学校、もしくは専門学校的なものと思われます。

再現された帳場

近代において、鯖街道越えをする人でしょうか?手前の仁丹の箱は大きさからみて看板?人力車も見えますが、多分ここは未整理区画なのかもしれません。

資料館を出て再び宿場のそぞろ歩き。熊川宿のほぼ中央、前川に面して建つのは「菱屋(勢馬清兵衛家)」。熊川宿の中でも最大級の家屋で間口が28間、切妻、桟瓦葺、平入、木造2階建、本屋の大屋根にはむくりが付けられ、2階外壁両側には袖卯建が設けられています。「勢馬家は屋号を「ひしや」といい10数軒の問屋、脇問屋とともに街道の繁栄を支えた旧家。広い家屋敷にそのおもかげを残す。最盛期には年間20万駄の荷揚の荷継ぎ場としてその問屋場に馬借、背負人が群がったという。また宿場町役人として藩の御用や町の自治にも貢献した。」案内板より

塗込の壁や袖壁卯建がある屋敷は、同じく旧問屋で屋号は「倉見屋(萩野八左衛門家)」。主屋、土蔵など問屋の形式を残している最も古い町家で、表には2ケ所の駒繋ぎが見られます。

古い町並みで古い看板を見つける事も楽しみの一つ。粋な紳士がふかしているのは「タバコ」。昔は煙草の専売もされていたお店だったようです。ローソクの看板は、物好きな私の為にお店のおばあちゃまが、こんな古い看板もあるよといってわざわざ見せてくださったものです(*^^*)

熊川地区の中ほどに鎮座される「白石神社」。御祭神は『彦火々出見尊・白鬚(しらひげ)明神・酒井忠勝・および山の神』。この地区の氏神様と言う事で、鳥居前からの参拝です。

この神社の鳥居脇に、昭和2年11月に建立されたという「時計とうろう」があります。残念な事に、これに関する文献類は一切無いそうです。

同じく熊川宿に鎮座される「松木神社」。御祭神は『義民:松木庄左衛門の御霊』。時間的な事もあり、こちらも参道石段からの参拝となりました。

江戸時代のはじめ、厳しい年貢の取り立てに苦しむ若狭の農民たちを救おうと、新道村の若き庄屋「松木庄左衛門」たち20名は、税の軽減を十数年に渡り訴え続け、ついに酒井忠勝により税の軽減を許されました。しかし当時の法では直訴は死罪と決まっており、代表者であった「松木庄左衛門」は捕えられ、日笠川原で磔の刑になり28歳の生涯を閉じたのです。

暗い話になりましたが、日本の各地には民を顧みないお殿様がどこにもいたようで、私の数少ない旅の中でもこうした義民の碑や神社を目にします。特に飢饉に見舞われた地域では、行く先々に義民の碑が残されており、そのたびごとに胸が痛みます。

上ノ町の街道沿いにある「大岩」。子供たちの格好の遊び場なのですが、不思議な事にここで遊んでも、誰一人怪我をする子が居ないことから、別名「子守り岩」とも呼ばれています。

ラストは「孝子与七の碑」「享保6年(1721)貧しい暮らしの与七とその妻は、自分たちは貧しいものを食べても父母にはご馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くしました。時の小浜藩主は与七の行いを聞くに及んで、米数俵を与えその志を褒めたことが『若狭良民伝』にも出ています。」現地案内より

訪問日:2008年6月1日

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御神名一口メモ

『白鬚明神』、全国に約190社あると言われる白鬚神社の祭神の総称で、一般的には「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」とする。他に「武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)」とする神社が30社。又少数だが「少彦名命」、「天御中主神」、「太玉命」、「金山彦命」、「大己貴命」、「天鈿女命」、「大田命」、「久延毘古命」等の名で祀られる神社もある。


織田(おりた)神社 in 福井県美浜町

2016年06月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

美浜町佐田に鎮座される「織田(おりた)神社」。延喜式の「織田神社」に比定される式内社(小社)の論社。御祭神は『國常立尊(くにとこたちのみこと)・大山衹命(おおやまづみのかみ)・應神天皇(おうじんてんのう)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・保食大神(うけもちおおかみ)・水波売神(みずはめのかみ)』

参道入り口、鳥居の左右より神域を守護されるのは昭和11年(1936)12月建立の狛犬さん一対。関西系ですが琵琶湖湖畔に見られるガチムチ系。分厚い胸板に筋骨隆々たる四肢。太い眉、大きな鼻、顔を取り囲むのは渦を巻く巻き毛。昭和生まれという事なので、狛犬界ではまだ新参者(笑)

「創祀は第12代景行天皇6年とされ、織田山東郷と呼ばれた地域の守護神として栄えたという。桓武天皇の延暦18年(799)、隣村の耳村から二十八所大明神(彌美神社)を勧請し、織田二十八所大明神と称された。明治13年織田神社に復称の許可を得、同40年神饌幣帛料供進神社に指定。」福井神社庁HPより

本殿玉垣の内より神域を守護されるのは大正五年建立。琵琶湖型に見られる扁平頭と横に張り出した両耳が特徴的な、お子様タイプの狛犬さん一対。精一杯威嚇していますが、それがまた何とも可愛い(笑)

拝殿(舞殿)

拝殿石段の下より神域を守護されるのは、扁平な顔と異様に細く長い足を持つ狛犬さん一対。ギョロっと飛び出した目はまるでエイリアンを連想させます。足にまかれた赤い願い紐にはどんな願いが籠められているのか・・

お日様の光が心地よく開放的な拝殿、五月の例大祭で奉納される「王の舞(おのまい)」。長い伝統によって守り伝えられた神事は、きっと心に沁みる景色でしょうね。

境内社:恵比須社

鳥居の前・左右より神域を守護されるのは、勝手にクレオパトラタイプと名付け笏谷石狛犬さん一対。こうして向かい合うと、何があったのか大声で鳴き叫ぶ阿形さんを、「うるさい!」とたしなめる吽形さんの図(笑)

こじんまりとしたお社ですが、チリ一つ、埃一つなく大切にされていることが伺えます。

参拝日:2012年7月10日

 


八幡神社 in 福井県小浜市小浜男山

2016年06月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

小浜市小浜男山に鎮座される「八幡神社」。ご祭神は『應神天皇・神功皇后・宗像三神(多紀理比賣神・多紀都比賣神・市伎島比賣神)』

由緒「創立年代不詳。『続日本紀』神護景雲四年(770)八月庚寅朔日・若狭国目従七位下伊勢朝臣諸人、内舎人大初位下佐伯宿禰老を勅使として、若狭彦神八幡神宮に鹿毛馬1疋を奉らしむと見える。応永二年(1395)、国主左京大夫一色詮範が大鳥居を再建、同七年に神殿を造営。同十二年、大鳥居倒壊のため、とくに税所代阿部新三郎忠俊、勅使となって祭礼が行われ、流鏑馬なども奉納。天文七年(1538)守護武田信豊が太刀(銘吉入道宗長)一振(市文化財指定)を奉納、同十七年に大鳥居を再建。永禄二年(1559)朔日松永久秀の乱によって社殿炎上。天正二十年(1592)、国主浅野長政の子長継・族臣家次・朝鮮出陣を前に一族の武運を祈り神殿を造営。正保元年(1644)酒井忠勝公が拝殿を造営。明治二年、菊の御紋章を勅許され、神紋を「菊花に対い鳩」とする。」福井県神社庁HPより

丹後街道の一画、後瀬山(のちせやま)を背景に建つ一の鳥居左右より広大な神域を守護されるのは「昭和九年(1934)十月建之」の関西系狛犬さん一対。いわゆる「おやじ顔」と親しまれているタイプで、ふさふさ尾に鼻ひげ豊か、おおらかな表情が特徴。

参道入り口、丹後街道に面して立つのは、小浜市指定文化財の木製鳥居。鳥居左右より神域を守護される護国型狛犬さん。

参道まっすぐ、鮮やかな緑の中に静まる拝殿

拝殿前・石段左右より神域を守護されるのは、クレオパトラのような鬣にスフィンクを思わせる佇まいの笏谷狛犬さん一対。台座には「明治二十四年(1891)辛卯三月十五日再興」の刻。

四方吹き流しの拝殿、その奥正面に静まられる御本殿。

「境内社:若宮神社」。ご祭神は『八幡神の御子神』ですが、特定の御名は不明。

社殿奥の左右より神域を守護されるのは、小ぶりの笏谷狛犬さん一対。笏谷狛犬さんは、何といっても正面から見るお顔と、横から見る姿のギャップが絶妙(笑)

朱の鳥居の奥に鎮座される「境内社:稲荷神社」。ご祭神は『宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)』

鳥居の左右より神域を守護されるのは、長い年月によってすっかり角を消した神狐さん一対。

二対の神狐の守護される「稲荷神社」拝殿・ご本殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは、焼物と思われる、鍵と巻物を咥えた神狐さん一対。黒く光沢を帯びた肌はつややかで、多くの人に撫でられてきたことが察せられます。

「境内社:高良神社」。ご祭神は『高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)』と推察。

社殿の内側より神域を守護されるのは、瓦材か・・もしくは焼き物と思われる狛犬さん一対。阿吽共に非常に特徴的なお顔立ちで、それは見る者の気持ちをクスッとくすぐるような柔らかさ。

「境内社:大山祗神社」。ご祭神は『大山積大神(おおやまづみのおおかみ)

社殿内左右より神域を守護されるの、はかなりの年代を経てきたと思われる丹後系の狛犬さん一対。長い歳月が随分とお顔に迫力を追加したようですね。

「境内社:三輪神社」。ご祭神は『大物主大神(おおものぬしのおおかみ)』と思われます。

社殿内左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。小ぶりの狛犬さんですが丹後系のいかついお顔は健在。

「境内社:彦狭智神社」。ご祭神は『彦狭知神(ひこさしりのかみ)』

金網の前で神域を守護されるのは、かなり小さな丹後系の狛犬さん一対。出雲から若狭へ・・これらの神獣たちも、北前船で運ばれてきたのでしょうか?

境内に鎮座される摂社群、画像と社名は一致しませんが「大神宮」・「船玉神社」・「六月祓神社」

「天満神社」「松尾神社」・「粟島神社」「姫宮神社」「秋葉神社」

御神馬

訪問日:2012年7月11日


若狭の小京都・小浜~町歩き in 福井県小浜市

2016年06月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

小浜市小浜男山、丹後街道の一画に建つしっとり落ち着いた和風の建物は「石窯パンの郷こころ」。スペイン人職人手作りの石窯と国産広葉樹の薪で焼き上げた「自家製天然酵母種パン」。フレーズには惹かれますが、時間的制約が多い車泊旅。ここは横目で見るだけ😔

住宅に挟まれるように丹後街道に面して鎮座される「蛭子神社」。ご祭神は『蛭子大神(ひるこのおおかみ)』

鳥居の内より神域を守護されるのは、丹後系の狛犬さん一対。材質の脆さゆえに阿形さんの顔は下半分が欠落。それでも大切にココに置かれていることが無条件に嬉しく、私たちは手を合わせる。

そのまま先に進み、交差点の角に建つのは「紙の吹安」さん。

黒板壁に白漆喰、お蔵造りの建物は街道の風景に馴染み、街並みにしっとりとした風情を添えています。

小浜市小浜鹿島。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された小浜西組地域にある犬矢来に千本格子のお宅は、大正期に建てられた伝統的な町屋「小浜町並み保存資料館」

昭和10年まで小間物屋が営まれていたそうで、館内の見学も可能。とはいえ、予定は目白押し。時間的に急く街歩き・・ほんの数分、気分だけを味わせていただきます。

おちついた町並みの中に洒落た洋風建築は大正14年(1925)築の「高島歯科医院」。木造2階建て、寄棟、桟瓦葺、平入、外壁はモルタル仕上げで一見して石張り風の意匠になっています。

煉瓦張の玄関上部、その下に星型のレリーフ、ペディメント風のモルタル意匠・・等々。大正期のモダンな感じが、すでに消え去った筈の乙女心を目覚めさせてくれます。目覚めさせてくれますが、乙女の時代には戻れません(笑)

小浜市小浜白鳥に残る明治期の洋風建築は、「登録有形文化財:白鳥会館」

明治22年(1889)に薬品製造販売の店蔵として建築。土蔵2階建、切妻、瓦葺、腰壁はモルタルこたたき仕上げとレンガ張の併用で、外壁は白漆喰仕上げ、窓と玄関周りはレンガを積み上げ、上部を意匠レンガによりアーチ状にしています。

小浜市小浜男山、「空印寺」境内の一隅に残されている「八百比丘尼入定洞」。北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布し、伝承数は166で「石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に特に多く、「白比丘尼(しらびくに)」とも呼ばれます。「人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという八百比丘尼伝説。全国を行脚し、貧しい人を助け、椿の種をまき花を咲かせた後、若狭に戻り亡くなったという洞穴。当時を偲ぶ椿の花が今も咲き誇り、健康長寿を願う人々のお参りが今も絶えません。」ふくいドットコムより

この洞窟の奥深く、八百年もの長く孤独な時間を生きた比丘尼は・・浄土への道標を見つける事ができたのでしょうか。寄る辺も見知った人もすべてが我が身を追い越し、塵となっていく無上の常世・・・・事実であるか伝説であるか、そんな意味のない詮索なんて、きっとここでは必要ない。だから私は手を合わせ、比丘尼の浄土を願います🙏

「小浜の名水・滝の水」

「この滝の水の水源は何処にあるのかだれも知らない。この水の質は清くて酒を造ったり、お茶に使ったりしているが、以前は近くの町家数百軒の飲料水になっていた。むかし京都天竜寺の僧『策彦』が唐(今の中国)へ行く時、日本のみやげ品をたずさえて行き、年をへて味の変わらぬ酒はこの清水で造った酒だけであった。『策彦』はこれをとても喜び「竜瀑酒之記」を書いたと云う。これより名が高まり、女の子の手まり歌に「筆は三対、すずりは二対、水は若狭の滝の水」とうたわれた。」現地案内より

名水と名の付く水は車で旅をする私たちには、非常にありがたい存在。とはいえこれは予定外の遭遇であったため、折角の水を持ち帰る手段がゼロというお間抜けな結果になりました。

小浜市小浜浅間に門を構える臨済宗妙心寺派寺院「凌霄山:常高寺」。浅井三姉妹の次女「初(常高院)」が、夫「京極高次」の菩提を弔うために建立。季節には色鮮やかな花菖蒲園も見られるそうですが、門前にて・・🙏

いわゆる名所、旧跡と名が付く場所、通りは無論の事・・小浜の街歩きは参拝予定の神社だけでなく、通りのそこかしこに足を止めさせる見どころが沢山。このお宅はもしかしたら武家屋敷だったのではないだろうか・・

袖うだつに千本格子のお屋敷は、もしかしたらかって大きな商いをされていたお宅かも・・

想像は何処までも膨らみ、町歩きの楽しさに架空の物語が生まれ、私たちは勝手に悦に入り、時折妖しく含み笑いなどして先に進みます。

大切に祀られる文殊菩薩様の小さな祠 🙏

掃き清められた道を、私たちはゆらりゆらりと歩き続け、そうして祀られる小さなお社に手を合わせ、旅の無事を願います。

訪問日:2012年7月11日

 

 

 

 

 

 

 

品川登美子歌碑 120711-0024

 

小浜市相生「郷社 若宮神社」。御祭神は『應神天皇・神功皇后・毘賣大神』 境内社蛭子社、天満宮  120711-0399~0435

 

参拝日:2012年7月10日

2026-04-01 08:00:00

 

小浜市相生「郷社 若宮神社」。御祭神は『應神天皇・神功皇后・毘賣大神』 境内社蛭子社、天満宮  120711-0399~0435

 

参拝日:2012年7月10日

2026-04-01 08:00:00

 

 

 

 

 

 

訪問日:2012年7月11日

 

 


鉄道駅と道の駅と恐竜たち in 福井県大野市和泉

2016年05月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

越美北線の終着駅は大野市朝日にある、福井県最東端の駅舎「九頭竜湖駅」

人気の無い駅のホームと言うのはなぜか郷愁を誘い、騒々しさしか持ち合わせていない私たちでも、詩人のような気分にさせてくれます。長く伸びる線路の向こう・・・そこにはきっと~私を待っている人がいる~♪・・って、これは誰かの歌の一節(笑)

ホームの裏側、左手奥に見えているのは越美北線の終端。終着駅の線路の終端をこんなに真近に見ることが珍しく、時刻表では来ないとわかっている電車を期待してしまう三人🍀🌸🐣。

その「九頭竜湖駅」に隣接する「道の駅九頭竜」。直売所の前には何故か親子の恐竜が・・、 はて?  お隣の勝山市は確かに恐竜王国ですが、大野市の旧和泉村に恐竜なんていたかしら??? 

気になったらとりあえず調べなければ・・と言う事で判明したのは、1996年にティラノサウルス科の恐竜の歯の化石がこの村で発見されたと言うこと。それにちなみ、2000年に恐竜の親子が「道の駅  九頭竜」にやってきたんだそうです。ある時間になると、強靭な尻尾をふり雄たけびを上げるそうですが、その好機は逃してしまったみたい。恐竜たちの足元で石斧を持つ「はじめ人間(笑)」の顔出しの下には「恐竜街道」の文字もあります。

これは福井県を中心に、石川・富山・岐阜の四県のマップですが、これによると、ある一定の法則にしたがって、何らかの形で恐竜の存在が確認されているんだそうです。

あ、恐竜ばかりがクローズアップされてますが、実は「道の駅 九頭竜」には『コーン太くん』というスタッフもいるんですよ(*^^*)

さて、充分に休憩も取った事だし、そろそろ大野市へと車を走らせますか。本当はどうしても抑えておきたかったポイントがあったのに、恐竜の迫力ですっかり忘れていました(^^;) 行く手に見える綺麗な形の山は「荒島岳」。標高1,523mで別名「大野富士」とも呼ばれているそうです。一体日本全国に○○富士っていくつあるんだろう?車中でも話題は尽きません。

訪問日:2012年6月13日


総社金津神社(春日さん) in 福井県あわら市春宮

2016年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

あわら市春宮に鎮座される「総社:金津神社(春日さん)」。ご祭神は『神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天兒屋根命(あめのこやねのみこと)・姫大神(ひめおおかみ)』

 由緒「継体天皇の御勧請で従来大溝神社と称していた。桓武天皇御宇延暦11年(792)南都本宮の分神春日神社を合祀して芦原大溝神社又は春日大神とも称す。寛延10年(1757)10月、郷社大溝春日神社と改称。昭和23年(1948)、福井大地震で、春日神社の社殿等が倒壊。翌年、十日地区内の市姫神社・金山神社を春日神社の境内地に移し、白山神社を春日神社本殿に合祀し金津神社と改称。社殿は、市姫神社の社殿を春日山山頂から移築。」福井県神社庁HPより

一の鳥居を潜り参道石段の先に二の鳥居。

石段参道左右より神域を守護されるのは、出雲丹後の狛犬さん一対。阿形さんの足元には大きな毬をもってご機嫌な仔狛がいます。

さらに石段を登り

参道正面に本殿

社殿左右より神域を守護されるのは、大正三年十月奉納の出雲丹後系の狛犬さん一対。

出雲丹後系狛犬さんが圧倒的に多い中での越前型狛犬は、「明治四壱戌甲年八月三日 東京市日本橋本所 寄進 廣部清兵衛」の刻。

神馬の近くより境内を守護される出雲丹後系の狛犬さん一対。こちらも吽形さんの胸前には毬を持つ仔狛がいます。

参道中央、高く天空を目指すようにそびえ立つ御神木。

参拝日:2012年6月15日


北潟湖畔花菖蒲園 in 福井県あわら市(旧芦原町)

2016年05月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県の北端部、国道305号沿いに位置する「北潟湖」。海水と淡水の中間の塩分をもつ「汽水(きすい)」をたたえた汽水湖で、環境省の重要湿地500に選定。汽水湖と言えば、北海道のサロマ湖が有名ですが、他にも静岡県の浜名湖、島根県の宍道湖等が知られています。その北潟湖畔公園と花菖蒲園を連絡するのが、全長175メートルの斜張橋「アイリスブリッジ」

吊り橋苦手な私でも、さすがにこれだけ幅広くてしっかりしていれば、余裕で橋の真ん中に立てます😁

などと余裕をかましている場合ではなく、目的はこの湖畔にある「北潟湖畔花菖蒲園(越前加賀海岸国定公園)」。何しろあそこもここもと目一杯に詰め込んだタイムスケジュール。効率よく動かなければ後で泣きを見る・・😫

公式ホームページによれば「昭和51年に開園した花菖蒲園には、江戸・肥後・伊勢や外国系など、300種20万本の花菖蒲が植えられ、6月上旬から約1カ月間咲き、また園内周辺にはあじさいも咲き乱れ、訪れる人を魅了します。」

広大な花菖蒲園、とりどりの花菖蒲に巨大な三脚を据え置いてじっとレンズをのぞき込む人の姿もちらほら。

私たちはと言えば、お手軽なコンデジで、それぞれがお気に入りの花菖蒲をせっせとカメラに納めるのに忙しく。😅

今回の私のお気に入りはコレ!夏物の絽の帯にこんな刺繡のものがあって、結構お気に入りで何度も締めました。

ご亭主殿の一押しは濃い紫に白い縁取りのこの花。実際に見るともっと濃い紫なのですが、私たちのコンデジではこれが精いっぱい。

あでやかに咲く花の一つ一つ紹介したいところですが、何し無料プランのgooブログ。画像領域が残り少ないので自粛しなければ😓

などと言いつつ紫陽花が綺麗だったので😄

ふと視線を感じた先に、私を見下ろすご亭主殿と相棒J🐣さん・・エッ!?、もう時間ですか??

冷たい目線に急かされて、ラストは園内の一角に建立されていた「二万堂」「むかし、源氏と平家が北潟湖畔の”えんまいし”と、”くらさき”の地で戦い、劣勢の平家軍は”らんば”まで追い込まれ、そこで両軍乱れての激しい戦いとなり多数の死者が出た。哀れんだ地元の人々は、二万人余の死者を埋葬し、供養にこの地蔵を建てたた伝えられている。死者の数からこの地蔵堂を二万堂と呼び現在の字名にもなっている」🙏🙏

名残惜しくはあるけれど、それはここに限った事ではなく、私たちの旅にはつきものの感傷。ではいさぎよく腰を上げますか!

訪問日:2012年6月15日