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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ふらり~勝山散策 in 福井県勝山市

2016年05月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

「勝山の市街地には、九頭竜川の河岸段丘が広がります。江戸時代にはその段丘を利用し、崖部分に川石を積んだ石壁「七里壁」を境として、武家と 町家・寺院を整然と区割りする城下町が形成されました。」~福井・勝山日本遺産より。

勝山市栄町から立川町付近にかけて見られる「七里壁」。ここに見られる七里壁のような地形の変わり目からは、伏流水が湧きだすと言うことで・・・。現在も残る「大清水(おおしょうず)」や、国泰寺下の天台清水など、かつての勝山は湧水の宝庫で、豊富な水が町中を縦横に流れる水の町でした。

歩き疲れて乾いた体に染み込む「大清水」の柔らかな喉越し。日参してペットボトルと言う発想が、まんま主婦。「地元にもこういう場所がほしい!!🐣」 「だねぇ、こんな場所あったら空きボトル持って日参するわ🌸」「私、5リットル入のボトル持ってる❤🐣」「いや、そんなに貰って何に使うの?🌸」実にしょ~~~~もない会話を楽しむ女二人を見ながら、笑いをこらえるご亭主殿(笑)

歴史のある街には歴史のある建物が多くあり、街歩きの醍醐味を満喫させてくれます。

濃い緑の葉陰に邪魔されてしまったけれど、多分とっても素敵な佇まいだった筈。

「大福帳」と言って分かる人ってどれくらい居るんだろう?。江戸時代・明治時代の商家で使われていた帳簿の事だと言っても、それでも若い人にはきっと馴染みがない筈なのに、あえてこの看板というのがなんか・・良い(笑)。

両端の卯建がまるで漫画のキャラクターの眉毛みたいだと指させば、しばらく見上げて、おもむろに笑い出すJ🐣さん。ご亭主殿には通じなかったらしく、笑い転げる女二人を不思議そうに見ています。

黒壁の土蔵造りのこのお店は、何を商っていたんだろう? 流石に14年という歳月は、記憶力だけは自身があるとうそぶいていた私の鼻を見事にへし折ってくれました(笑)。

お店の中も見せていただいたのにね。なんで看板とか画像に残さなかったんだろう? 大樽の中で熟成されているのは・・はてさて何だろう??

初夏の日差しを柔らかく遮る、ひさしのある通路。特別な何かでなくても心惹かれる景色。

ラストは勝山市遅羽町比島にある「勝山駅」

木造2階建・寄棟造・桟瓦葺で、吹放ちの庇が巡る「本屋・ホーム待合所」。基礎は福井市産の笏谷石。外壁は真壁造で、1階を洋風の竪羽目板張ペンキ塗。2階は和風の白漆喰塗。こちらの駅舎も全出の二箇所同様、大正3年4月開業の地方鉄道における駅舎本屋の好例として、国登録有形文化財に指定されています。

駅舎も勿論ですが・・お目当ては、動態保存されている「テキ6形電気機関車」の見学。ウィキさんによると、テキ6形は京都電燈福井支社越前電気鉄道部が保有していた、軸配置Bの箱形電気機関車。2002年の京福電気鉄道福井鉄道部のえちぜん鉄道への移管に際して譲渡され、ML6形ML6へ改称。その後、2009年8月13日夜から14日にかけて福井口車庫から勝山駅に移動され、現在は勝山駅前の広場に建設された保存施設にて、「61形ト68」ともに動態保存されています。

京福電気鉄道福井鉄道部最後の在籍貨車となったト「61形ト68」。長いことお疲れさまでした😄

訪問日:2012年6月14日


羽二重と機織の町 in 福井県勝山市

2016年05月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

勝山の町歩き、スタートは勝山市昭和町にある「はたや記念館ゆめおーれ勝山」

明治から羽二重の産地として栄えた勝山市、今でも繊維業はまちの重要な基幹産業であり、市内には沢山の繊維関連企業が立地しています。「ゆめおーれ勝山」は、明治38年(1905)から1998年にかけて勝山の中堅規模の機業場(きぎょうじょう)として使われていた建物を保存活用した織物ミュージアムです。

独特の空気感を感じさせる建物内部、長い通路の先が展示コーナーになっているようで・・何故か不思議なのですが、特に規制もないのについ声を潜めながら先に進みます(笑)

勝山で織物業が本格的にはじまったのは、明治も中ごろのことと言われています。当時の製品の中心は「羽二重」と呼ばれる平織の美しい絹織物。当初は、いざり機によって織られていましたが、明治15年~頃からバッタン機が普及したことで、「羽二重」の製造は画期的な進歩を遂げます。

時代が移り、昭和初期から戦前にかけては「人絹(レーヨン)織物」が盛んになります。木材やパルプ、綿を原料とし、化学的性質を持ちながらも弱酸性で肌に優しく、絹に比べて扱いやすいというメリットがあった事から、 昭和9年~12年ごろには最盛期を迎えました。

染色技術の進歩により、より華やかで鮮やかな製品が次々に生み出されていきます。

織物工場には一見場違いに見える竈と釜は、勝山市指定文化財「糊炊釜」。経糸に付ける糊を炊く為に使われた釜、当時は海藻の「フノリ」が使われていました。

「機屋(はたや)」とは、布を織る工場のこと。繊維工場ではなく「はたや」と言う日本語独特の優しいニュアンスが、とても心地よく聞こえます。

「ゆめおーれ勝山」を後にしてそぞろ歩きの途次に見かけた倉庫のような建物、「機織資料館」の木札が掛けられた建物を見かけましたが、シャッターが下ろされた状態。近くに「文化財 いざり機 バッタン機」と欠かれた標柱が有りましたが、場所的にこの建物を指しているのだろうと思うも、確認は取れません。

同じく、近くに建立されていた「ケイテー発祥の地・記念碑」。Wikiさんによると、勝山市に本社を置き、合繊織物(スポーツ関連織物、婦人衣料織物、ユニフォーム関連織物、各種資材織物・・)を製造している会社だそうです。

勝山市内には、国指定5件、県指定6件、市指定65件、国登録5件の文化財があります。で・・一見倉庫のようにも見えますが、こちらの建物は何だったのか??

奥にお寺さんがあるのが目印だと思っていたのですが、あれから14年・・。グーグルさんに聞けば分かると思っていましたが、流石に時間が経ち過ぎてそれらしき建物は見つけられませんでした。

訪問日:2012年6月14日


”きょうりゅう”の町 in 福井県勝山市

2016年05月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

彼の名は「ブラキオサウルス」。その高さ9メートル、全長10メートル・・人類がこの世に君臨するようになるまで、地球は彼らのものでした。まだ明けきらぬ白山連峰をバックに悠然と立つ彼の目に映るものは・・

なんて😆 写真は嘘を、しかもとても上手な大嘘をつきます。この恐竜は「ロードパーキング恐竜街道」に設置された観光用のモニュメント。2007年に勝山市北谷町の地層から、同じように長い頸を持った「竜脚類」の化石が見つかった縁で、ここに設置されました。

恐竜に関する資料を中心とした地球史を学習できる、国内最大級の規模を誇る「福井県立恐竜博物館」。男の子なら一度は憧れた事もある世界かなと思うのですが、ご亭主殿はどうだったんでしょう?、本日は博物館の直ぐ近くまで行きます。途中で真っ白な恐竜を発見ましたが、自分の重さを支えきれないのか、お腹と尻尾が鉄骨で支えられた、ちょっと残念な姿・・😅。

長尾山総合公園「かつやま恐竜の森」の標柱に出迎えられ、いよいよ恐竜たちとご対面。どんな恐竜に出会えるのか、いい年をした大人が揃いも揃ってワクワク(笑)

行く手に見えてきた、銀色に光る巨大なドーム。あれが恐竜王国福井が誇る「県立恐竜博物館」。流石に44体もの恐竜骨格や千数百もの標本を展示する場所だけに、その規模の大きさにも納得。

博物館に向かう道の土手では、思わずスコップを持って近づきたくなる「恐竜の化石」・・・・の模型が、おいで、おいでと手招き(笑)。 当然ですが見るだけですよ。

とてもお洒落な恐竜がいるのは、恐竜博物館の駐車場。残念ながら博物館はパス。だって入ったら最後、絶対にこの後のスケジュールを消化できなくなります。

それでも折角ここまで来たのだからと、目に付いた恐竜たちと記念撮影。ギラギラと尖った歯を見せびらかせている凶悪そうな恐竜さん・・・この際、頭から飲み込まれるもよし。

背中にしがみついて征服気分を味わうもよし!・・って、そこで寝てどうする(笑) とまぁ、これだけ巨大でリアルだと何っだて出来そう。

福井県は「恐竜王国」というキャッチコピーで色々とやってますが、本家本元の勝山市は更に頑張って、市内のあちこちに恐竜を放っています。路上には恐竜のマンホール。マンホールカードも配布され、三人揃ってカードを手にポーズ(博物館の方、シャッター有難うございました)

えちぜん鉄道:勝山永平寺線にある「勝山駅」。勝山市の玄関口である駅前に恐竜の親子が! 獲物を狙うような姿勢でこっそりと近づく親子の恐竜、私達の愛車なんて尾っぽの一振りでアウト(^^;)

駅だけじゃ有りません。勝山市本町の大通りにも沢山の恐竜が出没していました。さすがは「きょうりゅうの町:勝山」。うわさでは。ええっ?!と驚くような場所にも潜んでいるらしいのですが・・・際限ないので止めます(笑)

訪問日:2012年6月14日&2017年9月21日


大野城下:御清水巡りの町歩き~其の一 in 福井県大野市

2016年05月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

北陸の小京都とも称される「越前大野」。清らかな水の恵みと共に、400年を超える歴史と文化を擁した町は、朝市の賑わいとともに旅する者を温かく迎えてくれます。

結ステーションの中央にあるシンボルモニュメント「時鐘(ときがね)」が目印の無料観光駐車場。側には名産品や特産品などが並ぶ「平成大野屋:結楽座」、美味しい「芹川清水」などがあり、付近の散策だけでちょっとした観光地気分に浸れます。

さぁ、楽しみにしていた町歩きに繰り出しましょう。まずは「大野藩洋学跡の碑」。大野藩によって洋学館が開設されたのは安政3年(1856)の事。緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた『伊藤慎蔵』を教授として大野に招き、当時としては最先端の蘭学研究を行い、オランダ語の翻訳書や専門書の出版なども行われたといいます。洋学校跡には「伊藤慎蔵先生顕著碑」が並んで建立されています。

結ステーションの向かいに見つけたのは、薄青色に塗られた下見板張りの洋館。国登録有形文化財の建物は、かって大野市の伝統産業である織物業の製品検査場でしたが、今は「平成大野屋はいから茶屋」として営業されています。

建物の左手奥に建つ「平成大野屋:平蔵」。その入り口横に「水舟清水」が設置され、冷たく綺麗な水がこんこんと湧き出しています。もちろん、手持ちのボトルにもありがたく頂戴しました♪

基本的に私の町歩きはその場の雰囲気と気分次第であっちの路地、こっちの抜け道と行ったり来たり。ご亭主殿が作ったコースマップに従うなんて最初の数分だけ(笑)。ほらほら、何とも洒落た雰囲気の黒板塀に見越しの松・・まるで古い歌の文句に出てくるようなお屋敷。

江戸の昔にタイムスリップしたようなお屋敷の向こう、石灯籠通りと三番通りとの角に立つのは、木肌の色をそのまま活かした下見板張りの建物。水色の窓枠と上げ下げ窓が何とも言えず良い雰囲気を出しています。

その「石灯籠通り」には「石灯籠地蔵尊」が大切にお祀りされています。400年以上前に大野城を築いた『金森長近』が城下町を整備する際、測量の基点とした場所だそうで、ここに水縄を埋め、地蔵尊を祀ったと伝えられています。

大野に入封した『金森長近』は京の都に模した町づくりをはじめ、町の東端にお寺を集めて「寺町」をつくりました。「日蓮宗・真應山圓立寺」は、弘治二年(1556)の創建。もと土橋の庄にありましたが、城下町建設の際、現在地に移転しました。

「高野山真言宗:願成寺」。地元では「かわそさん」と呼ばれて町の人に親しまれています。真言宗の寺院ですが河濯 ( かわそ)大権現』を合祀する珍しい寺院で、良縁、子宝などを願う人々の信仰を集めました。

石灯籠通りの西端に1991年の春に完成した「石灯籠会館清水」。清水が設置された石灯籠会館は、まちなか観光の無料休憩所として開放されています。

「御清水巡りの町歩き」~其の二に続きます

訪問日:2012年6月13日&2017年9月30日

 


ご当地マンホール in 福井県越前町・旧朝日町

2016年04月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

丹生郡越前町(えちぜんちょう)は福井県の嶺北地方西端、日本海に面する町です。2005年2月1日、丹生郡旧越前町、朝日町、織田町、宮崎村が合併、改めて越前町が発足しました。福井市、鯖江市、越前市、南条郡南越前町に隣接。日本海に面した西端の越前岬より南側は若狭湾に属し、その断崖の海岸が続く越前地区の東に標高500m前後の丹生山地を隔てて独立した盆地となっている織田地区、ここから川の下流へ進み、谷間の宮崎地区を経て、朝日地区の東端部にある役場周辺は鯖江盆地と一体の平坦地となっています。古くから越前焼陶器の産地としても知られ、町内には数多くの窯元が所在。また若狭湾東端に面する越前岬は、越前加賀海岸国定公園の特別保護区に指定されています。「町の木:竹」「町の花:水仙」「町の鳥:カモメ」「町の魚:越前がに」を制定。

キャッチフレーズは「人と技 海土里(みどり) 織りなす 快適なまち -越前 E-town brand の創造-」

2005年2月1日制定の町章は「越前町のイニシャル『E』をモチーフとし、「生き生きとした町民の姿」と「人と技 海土里 みどり 織りなす快適なまち~越前」をイメージしている。」公式HPより

 

降り始めた雨の中、道すがらに見つけたのは所在不明の規格マンホールのみ。はて、これはいずこの自治体に属しているのか??

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旧丹生郡朝日町(あさひちょう)は福井県中西部に位置した町です。福井市、鯖江市、丹生郡清水町、織田町、宮崎村に隣接。町域の東部は武生盆地北西部の豊かな水田地帯、西部は丘陵性の丹生山地からなり、北部の西田中は天王川の小扇状地にのる谷口集落で、鯖江と織田、越前海岸との中継ぎ商業地として発展。機業や農機具製造等が行われてきました。またホッケーの町・マリンバの町としても知られています。「町の木:杉」「町の花:サザンカ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により丹生郡朝日村・常磐村・糸生村(いとうむら)が発足。

1946年、朝日村が町制を施行、丹生郡朝日町となる。

1951年、丹生郡常磐村大字境野・茱原・頭谷・青野・金谷区域を編入。

1955年、丹生郡糸生村と合併、改めて朝日町が発足。

2005年、越前町、織田町、宮崎村と合併、越前町となりました。

マンホールには町章を中心に「町の花:サザンカ」が四分割でデザインされています。

昭和36年(1961)4月1日制定の町章は「朝日町の「ア」の文字を図案化したもので、丸く円にすることによって町民の和と団結を表し、矢印によって町の躍進を表現しています。」合併協議会資料より

「町の花:サザンカ」がデザインされた側溝蓋

降り始めた雨は次第に激しさを増し、さすがに雨の中のマンホール探しは無理と判断。無理やり撮影できたとしても、見返して「こんなんじゃぁダメだ」となるのは目に見えている。という事で2012年の福井越前町のご当地マンホールは、旧越前町、旧織田町、旧宮崎村を残したまま、予定半ばの車泊旅と共にこれにて終了。あとはひたすら帰路を目指します。

撮影日:2012年6月16日


陰陽道のふるさと in 福井県おおい町名田庄

2016年04月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

その昔、「安倍晴明」を題材にした小説を読み、小説から漫画に手を伸ばした時点で、描かれる主人公の妖しい美しさ&神秘さに、乙女(一応)心を鷲掴みにされてからウン十年😅

流石にそんなときめきもすっかり忘れていた今頃に、福井県の鄙びた土地で相まみえた「陰陽師」所縁の地。陰陽師と言えば京の都という謎の固定観念があったせいか、かなりビックリ。平安時代中期に陰陽頭となり代々陰陽頭を務め、陰陽道、天文道、暦道をもって朝廷に仕えた「安倍晴明」。遠い昔のワクワクが唐突に蘇ってきました。

静かな山間の一隅に建つ「陰陽道宗家 天社土御門神道 本庁天社宮」【陰陽道を捧げて ここに五百年 安家 中葉の跡どころ 此処 奥名田の加茂に詣で かえりみれば古城の跡 芒の丘に虹立ちて】「京都上賀茂神社禰宜・摂社久我神社 宮司 岡田泰輔・遺詠より」

御由緒「今から約1300年前、遣唐使、阿倍仲麻呂公は、中国で泰山府君大神の教伝と陰陽道家の法を学んだ彼は、天平七年(735)、日本に帰国する吉備真備公に、これらの知識と泰山府君大神の御神璽を託し、これにより泰山府君大神の信仰が伝えられた。翌:天平八年(736)、聖武天皇は若狭国名田庄を泰山府君祭料知行地と定めた。当初は吉備家によって守護奉斎されていたが、阿倍仲麻呂公の意思に従い、やがて安倍(土御門)家に移され、以後、代々の安倍(土御門)家では「大元尊神・泰山府君大神」として奉斎されるようになた。平安時代、安倍晴明公は泰山府君大神を陰陽道の主祭神として篤く信仰された~略~」

「天社土御門神道 本庁天社宮」

小字小谷の山麓に「土御門(安倍)家墓所拝所。

「この墓所には陰陽師安倍晴明の子孫3代(安倍有宣(1514没)、安倍有春(1569没)、安倍有脩(1577没)が祀られています。2基の五輪塔とその中間に自然石の墓標。祖先を安倍晴明とする土御門家は、代々陰陽師として朝廷に出仕してきましたが、応仁の乱(1467)の戦火を避けて、京都から所領の名田庄に住まいを移し、この地で陰陽道及び、天文・暦・易の三道を司っていました。」公式HPより

静謐という言葉がそのまま具現化されたような一画。聞こえて来るのは僅かな木々のざわめき。名も知らぬ鳥の声・・いや、もしかしたら気まぐれの風が通り過ぎる音かもしれない・・墓所拝所を終え、元来た道を下れば思いがけなく出会う茅葺の屋根の「薬師堂」

ほんの数分、まるでタイムスリップしたかのような空間に身を置き、そうして今更のような言葉を呟く・・「ああ、私の知らない景色が、こんなに身近な場所にこんなにも沢山ある」

名田庄に鎮座される「加茂神社の狛犬」目当てが、思いがけなくも貴重な場所に導かれた・・これはもう、素直に神のお導きだと感謝しよう😊

この名田庄は、古くから泰山府君大神と深い縁のある地とされています。今回は下調べ不十分の為に立ち寄れなかった「天社宮 泰山府君社 跡」「葛の葉稲荷神社」等々・・。公式HPに詳しく詳細が記されています。

「道の駅:名田庄」の敷地内で見かけた心惹かれる建物

この建物が何だったのか・・道の駅の施設内に併設されている「頭巾山青少年旅行村」の施設だったかもしれない。さすがに14年という歳月は、どんなに画像フォルダを見返しても埋められません。

訪問日:2012年7月11日

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tibineko一口メモ

「泰山府君大神」、陰陽道の主祭神で、森羅万象を司る、陰陽和合・調律の神。太一信仰とも称す。

「鎮宅霊符尊神」、宇宙根源の太一の象徴【北極星】の神。太陽、月、北斗七星、宇宙の星々を生み出し、世界の全てを司る陰陽道の神。仏教では【北辰菩薩(妙見菩薩・妙見さん)】とされる。


加茂(かも)神社 in 福井県おおい町名田庄

2016年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

おおい町名田庄納田終(のたおい)に鎮座される「加茂(かも)神社」。ご祭神は『別雷神・泰山府君・善積河上大神・天御中主命・闇龗神』

由緒「納田終に、加茂大明神・御霊明神・泰山府君・善積(吉澄)河上大明神の四神が祀られていたとされる。根本の加茂社はおおよそ養老2年(718)勧請されたといわれるが、谷川家初代左衛門平貞が、貞和5年(1349)にこの神々を建立、5代清六の時・宝徳2年(1450)御霊川上神社を建立し、上ノ宮と称した。慶長5年(1600)の加茂社の棟札に、谷川家は上谷川新左衛門尉と下谷川次郎右衛門尉の2軒に分かれていたらしい。御霊明神については、安倍清明関係の神社とされていたらしく、御霊明神と吉澄河上大明神は一体的なものとして祀られていたとされる。明治41年以来、すべて加茂社に合祀される。」福井県神社庁より

一の鳥居左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。「昭和二十九年(1896)八月」建立の刻。阿形さんは前足の間に仔狛さんを遊ばせています。

出雲から北前船に乗り、はるばる日本海を旅してきた狛犬さん親子。顎の下のまん丸いお腹、それよりももっと大きな毬を大切に抱きかかえて参道を見る仔狛さん。なかなかに良い面構えですね。

更に参道を進むと二の鳥居。奥には・・・まさかのブルーシートと大規模な足場。思わず顔を見合わせる二人・・期せずして「嘘・・・・・!」

御神馬を見上げ、足場に覆われた舞殿を透かし見てため息。流石にこの状況でこれ以上先には進めません。

 シートと足場に覆われた舞殿の左右より神域を守護されるのは、独特の丸いお鼻と垂れ下がった長い耳が特徴の、越前型狛犬さん一対。台座には「明治十八年(1885)乙酉旧九月六日」の刻。

残念ながら本殿に至る石段は足場等に邪魔され、参拝はここまで。良い狛犬さんに出会えた事を感謝し、神妙に手を合わせます。ご亭主殿・・そんなにガッカリしないで・・・😅

参拝日:2012年7月11日

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ご祭神一口メモ

「泰山府君(たいざんふくん)」、中国、山東省の東岳泰山の神に対する古称。道教では人の生死をつかさどる神。神道では素戔嗚尊に配され、仏教では閻魔王の侍者として人の善悪行為を記録するとも、地獄の一王ともいう。


伊射奈伎(いざなぎ)神社 in 福井県おおい町

2016年04月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

おおい町福谷に鎮座される「伊射奈伎(いざなぎ)神社」。ご祭神は『伊邪那岐命・管朝臣美知實命・大山衹尊・熊野大神』

由緒「元亀年間(1570~73)の兵戈に依り消失の難を受け創立年代・由来不詳。社伝に「延喜式神名帳記載の伊射奈伎神社は当社なり」という。棟札に、正保2年(1645)に小浜藩主酒井忠勝公、祈願の事あり社殿を補修、寛政11年(1799)、酒井忠貫公(小浜藩主九代)が、社殿を改修したと記す。元文2年(1737)に小浜の谷唯圭らによって始められた若狭三郡の天満宮25社参りの1社で、学問芸術の神として尊崇された。明治16年「天神社」を「伊射奈伎神社」と改称。」福井県神社庁より

拝殿前石段下左右より神域を守護されるのは、首が短く頭は扁平で豊かな鬣を肩から腕に流す狛犬さん一対。

台座には「支那事変記念  昭和十六年(1941)四月吉日」の刻。強面そうでいながら、妙に人懐こく明るい顔立ちの狛犬さんが奉納された八か月後、米国の巧みな挑発によって、日本は戦争へと突き進みます。が・・・それはまた別の話。

石段を登って拝殿へ。玉垣内のうち左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。台座には「天保十四年(1843)癸卯正月吉日」建立の刻。左右対称でない一対の狛犬さん、こうしてみると吽形さんはずいぶんと上から目線。抗議するかに見える阿形さんの表情がなかなかに良いです。

本殿覆い屋の内左右より神域を守護されるの建立・奉納年不明の狛犬さん一対。相応の年代を経たものと思われますが、覆い屋の内という好条件が幸いし、非常にきれいな状態。

境内社:稲荷神社

朱塗り鳥居の内左右より神域を守護されるのは、建立年不明の出雲丹後の狛犬さん一対。風雨に晒された長い年月は。出雲丹後独得の厳めしさを拭い去り、気のいいお爺ちゃん風の風味すら漂わせています。

虚(うろ)に祀られる碑と石灯籠

拝殿の傍らにそびえる御神木「とが(ツガの別名)」。おおい町指定天然記念物。幹周/3.50m、樹高/30m。 幹周実測値/3.78m。

参拝日:2012年7月11日


一乗谷朝倉氏復原町並 in 福井県福井市中央

2016年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

「戦国時代、朝倉氏5代103年にわたり越前の国を支配し、栄華を極めた城下町跡は、町並みがほぼ完全な姿で発掘。復原された武家屋敷や町屋は、中に入って展示を見ることもでき、当時の生活の様子を垣間見ることもできます。」福井ドットコムより

南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成された町並。100尺(約30m)を基準に計画的に町割がなされた町並みは京都のように整然としていたと推定。1995年には発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元され、復原町並として公開。町並み全部の原寸大立体模型は日本初です。

朝倉館から一乗谷川を隔てた場所には周囲に土塁をめぐらした大屋敷が立ち並んでいたと推定されます。 現在は、復原町並としてそれらのうち一軒を史料等を参考に、30坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠等の全てが再現されています。

囲炉裏と水場が屋内にしつらえられた台所。

左手奥の中央には「井戸」。手前には「厠(トイレ)」が復元されています。

侍屋敷跡

小規模な建物が細く並んだ町家。平面復原地区、城戸の近くもびっしりと町屋が並んでおり、人口密度が相当高かったと推定されています。

復原町並内には10軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠などもきちんと再現されています。

染物屋の内庭には染料の入った瓶がいくつも並んでおり、ハンカチの藍染め体験 なども出来るようです。

こちらは陶器の商い中。ご主人が作った陶器を奥様が販売。奥の間からこっそりと顔を覗かせるのは、お客様が来ている間は店の間に出てこないようにの言いつけをちゃんと守っている男の子。「お客様、この小鉢など如何ですか?」「そうねぇ~、とっても手にしっくりだし・・セットで揃えようかしら。」

などと(笑)、他に人がいないものだから、好き勝手に想像を膨らませながら町歩きを楽しむ二人。ほぼ貸切状態とはいえ、全く無人というわけではありません。私達と同じようにマンホールカードを貰いに来た方とお話が弾み、記念写真の撮りあいなども。同好の士というものは不思議と気安くなれるのです。

訪問日:2018年10月16日


一乗谷朝倉氏遺跡 in 福井県福井市一乗谷

2016年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井市城戸ノ内町、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいに残る「一乗谷朝倉氏遺跡」

平原復元地区では、当時は砂利を敷いてあった道路、その道路に沿って計画的に区画された戦国城下町の跡を見ることができます。一部ですが、礎石や井戸、溝などの当時の石を使った露出展示がされています。戦国時代の城下町全体が遺跡となって残された、全国でもまれな大規模遺跡。昭和46年に278haが国の特別史跡に指定。以来、50年以上にわたり、発掘調査と整備が続けられてきました。

どこを切り取っても美しい・・美しいという言葉が陳腐に聞こえるほど、整然と歴史の1ページを語りかける風景に、私達は時間を忘れて身を浸し、心を開放させる。それは二度の訪問でも変わらない感動を与えてくれます。

朝倉氏遺跡と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の「唐門」。門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝えられます。

現存するものは江戸時代中期頃に再建されたもので、門表には朝倉家の紋「三ッ木瓜」。

背後の高台には、南陽寺跡、湯殿跡、中の御殿跡、諏訪館跡があり、当主一族の住居が集まって建てられていた事が解明されています。

第5代当主朝倉義景が住んだ「朝倉館跡」。約6,500㎡の敷地の三方は土塁と濠で囲まれています。

上城戸の土塁、幅13メートル、高さ5メートル、長さ50メートル。

発掘された館跡には「常御殿、主殿、会所、茶室、台所、厩、蔵」。更には日本最古の花壇などが配置されていました。

館の東側山際にある「館跡庭園」。力強い滝の護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との文化の交流が感じられます。

館跡の東南隅旧松雲院墓地内に「朝倉義景墓所」。朝倉義景は、天正元年(1573)8月20日、大野六坊賢松寺で一族の景鏡の裏切りにより自刃。法名は『松雲院殿太球宗光大居士』。墓は天正四年(1576)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)、福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられました。

遺跡全体は国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定。三重の指定は全国でも珍しく、動機がマンホールカード目当てだった事などとっくに忘れ、二度に渡る貴重な遺跡の見学を楽しんできました。

道路を挟んだ先に展開される復原町並をもう一度しっかり目に焼き付け、一乗谷朝倉氏遺跡を後にします。

訪問日:2017年9月30日&2018年10月16日