goo blog サービス終了のお知らせ 

車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

巨福寺(こうふくじ)・頼久寺(らいきゅうじ)in 岡山県高梁市

2022年01月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

本町通りを抜けて高梁川の方向に向かって歩くと、再び伯備線の線路が見えてきます。この一画に集められたお地蔵さまは、線路を通すために一か所に集められたのでしょうか?大切にされているのが感じられる風景。

高梁市寺町、JR伯備線に面した段丘の上に門を構える「日蓮宗寺院:巨福(こうふく)寺」

急な石段の上にどっしりと構える山門は、備中松山藩家老宅の門を明治8年(1875)に移築したものだとか。どのような形であれ、本来なら文化財級の建造物がこうして残されているのは有難いことだと思います。

創建は文和4年(1355)。大僧正大覚妙実の開基によるものと伝えられ、元和年間(1617年頃)、備中松山藩主池田長幸によって再興。

安永7年(1778)に再々建立された本堂の奥に祀られるのは「最上稲荷堂」。拝殿・本殿からなっており、本殿脇障子には力強い獅子たちの彫刻が施されています。

本殿の縁より聖域を守護されるのは、木造神狐一対。まるで兎のような長い大きな耳と丸くて太い尾が何とも言えず良いお味を醸しています。

巨福寺を後にして次に向かったのは、高梁市頼久寺町にある臨済宗永源寺派寺院、町名の由来にもなった「天柱山:頼久寺」

ここは『足利尊氏』が諸国に命じて建立させた安国寺の一つであり「安国頼久禅寺」と呼ばれています。

滋賀県近江の永源寺を創建した『寂室元光(じゃくしつげんこう)』の開山とされます。その後衰退したのを、永正1年(1504)に備中松山城主上野頼久が再興。その子守頼が父の名を加えて安国頼久寺と改称しました。

境内には、童の姿をしたお坊さんと干支が戯れる石像が奉納されています。こういうのを見ると何故か一通り写してみたくなるのはいつもの癖・・と言う事で、「丑(ウシ)」からスタート😄。

「寅(トラ)」

「辰(タツ)」「巳(ミ)」

「午(ウマ)」

「未(ヒツジ)」

「申(サル)」

「酉(トリ)」

「戌(イヌ)」

「亥(イノシシ)」

残りの「子(ネズミ)と卯(ウサギ)」を探していたら、たまたま居合わせた参拝者の方が、「ウサギは来年の奉納ですよ」と教えてくださいました。では「子」は何処❓  仕方ないので😅「鐘楼」と片隅にひっそりと置かれた童地蔵。

山門屋根:留蓋の飾り瓦は、丸々と太った、まるで仔犬のような獅子一対。かなりの時代を経ているようで、細部に崩れは見えますがとても個性的な顔をしています。

訪問日:2010年8月11日


ふらり高梁~町歩き in 岡山県高梁市

2022年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁川から引き込まれた小高下谷川を横切る伯備線、時折かなりの轟音と共に電車が走り抜けていきます。今時決して珍しくもない筈なのに、なぜか立ち止まってカメラを向けてしまう・・何なんでしょうね😊

高梁市の神社参拝の後は、楽しみにしていた「武家屋敷通り」の町歩き。パンフレットにいわく「約250メートルの坂道沿いには、今も備中松山藩の城下町らしい旧武家屋敷や土塀が残されており、独自の景観を作り出しています。」と言う事ですが、さてどんな風景に出会えるのでしょう。

白漆喰の壁がひときわ目を引く長屋門は、160石取りであった「旧折井家」。門の奥に見える母屋は江戸時代後期の天保年間に建てられたもの。建物は寺院や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りとなっており、市の重要文化財に指定されています。

こちら、「梶谷邸表長屋」の外壁に設けられた「武者窓」。城郭建築や武家屋敷の表長屋などの外壁に設けた、太い格子の付いた窓の事で、屋敷の中から外の様子をうかがう目的でつくられたものです。

町歩きの途中に気が付かずに通り過ぎないように、土塀の角に「高梁観光百選 梶谷邸の武者窓」の石碑が建てられています。

小高下谷川に架けられた御茶屋橋。かって橋の向こうには藩主の居館であった「御根小屋」がありましたが、今はわずかに石垣などに当時の面影を残すのみ。広大な敷地には「高梁高等学校」の校舎が建てられています。

「石火矢町ふるさと村  高梁市は今から300年前に、水谷勝宗が小松山に城を築いて以来、明治維新まで城下町としてこの地方の政治、経済、文化の中心として栄えてきました。現在の町並みでも石火矢町一帯は、城下町の町割りや土塀をめぐらした武家屋敷が残っています。”ふるさと”をいつまでも保存し、伝えてゆくために岡山県では”ふるさと村”として指定しています。環境庁・岡山県」

「高梁高等学校」の並びに、「TVアニメ:バッテリー」のロケで主人公の家となった「井岡邸」があります。恥ずかしながら😅 私「バッテリー」の原作もアニメも見たことがないのですが、主人公原田巧は、「飛びぬけた才能と傲慢なまでの自信を持つピッチャー」だそうです。

古い商家の並ぶ本町通りを歩いていると、過去と現代が奇妙にマッチした不思議な感覚に襲われます。黒く煤けて見える千本格子の二階の手摺り、白漆喰が美しいなまこ壁のお蔵、固く閉ざされた大戸・・・。それぞれの建物が持っている過去の歴史の一面、それはまた、今現在の日々の暮らしの一面でもあるのです。

本町通りでひときわ目を引く「旧池上邸」。享保年間にこの地で小間物屋を営み、両替商、高瀬舟の船主等を経て醤油製造で財をなした豪商、今も軒に大看板が掛けられています。

池上醤油醸造元

桜と柳の並木が続く紺屋川は、備中松山城の旧外堀として作られたもの。川を結ぶ橋には、古くから地域の人に守られてきた祠が今も残されており、情緒豊かな通りの風景を作り上げています。

賑やかな子供たちの声に立ち止まった門の前には、「藩校・有終館跡」の碑。建物は天保3年の大火で消失した後に再興されましたが、天保10年の大火で再び消失。嘉永4年、学頭(校長)であった『山田方谷』によって再興され、明治4年(1871)年の閉校まで多くの人材を育てあげてきました

紺屋川・住之江橋側に建つ「高梁基督教会堂」。明治22年(1889)に、『吉田伊平』によって、設計・建築されたもので、現存する県内最古の教会として県の史跡に指定されています。

高梁市頼久寺町で見かけた「旧順正寮跡の碑」。「順正女学校」は、明治14年(1881)に『福西志計子』が開いた「女紅場(裁縫所)」から発展した、岡山県初の女学校です。

工事用の柵の向こうに見えるのは、岡山県初の女学校舎で、のち寄宿寮に転用された「旧順正寮(県指定重要文化財)」。特に立ち入り禁止の札も無かったので、柵外から写真に収めてきましたが、ここって吉備国際大学高梁キャンパス内なんですね~

訪問日:2010年8月11日


津山駅・美作千代駅 in 岡山県津山市

2021年12月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

因美線駅舎を幾つか紹介したついでに、津山市大谷にある「津山駅」。「新見駅」「三次駅」と並び中国山地の交通の要所で、姫新線と津山線の乗り入れ駅ですが、因美線の全列車もこの駅を始終着としています。

大正12年(1923)8月21日  国鉄:作備線として津山駅 - 美作追分駅間、津山駅 - 津山口駅間が開業した際、久米郡福岡村大谷(現:津山市大谷)に設置。島式ホーム2面4線を持つ地上駅。

津山城址をイメージした駅舎だそうですが、思ったよりもこじんまりとして、はあて・・どの辺りが城址なんだろうと思案。

駅前には津山藩医で洋学者でもあった『箕作阮甫(みつくり げんぽ)』の像。

1853年のペリー来航時にアメリカ大統領の親書の翻訳を命ぜられたほか、同じ時期にロシアのプチャーチンがやって来た時は、交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際して大いに才能を発揮した「箕作阮甫」。開国後の1856年、蕃書調所(後に東京大学)を設立。阮甫は、その首席教授に任命されました。

今回の津山駅最大のお目当ては、津山駅の西側にかつて使われていた扇形車庫と転車台が残されており、それの見学。国産最大最強のエンジンを積んだディーゼル機関車『DE501』も一緒に見られるとあって結構楽しみにしていたのです。

が、残念ながら車両増設工事等のため一般の見学は出来ないようで、遠目から見るのみ。実はこの年の3月に大分県玖珠町に残された「豊後森機関庫」を見て来たばかりで、尚更見学を切望していたのですが仕方ありません。(機関庫は2016年4月2日、「津山まなびの鉄道館」として開館しました。)

ガラスケース越しなので今ひとつ不鮮明ですが、駅車内にあった「扇形車庫」の模型。こうして見るとかなりの規模だったと想像できます。

津山市の駅舎巡り、ラストは、津山市領家(旧久米村領家)にある「美作千代(みまさかせんだい)駅」。大正12年(1923)8月21日 、 旧作備線津山駅~美作追分駅間の開業と同時に設置。津山駅から二つ目の駅舎で、ここから11駅を経て新見駅で終点となります。

木造瓦葺の駅舎の入り口に置かれた丸ポスト。時代を重ねてきた駅舎にとてもよく似合っており、旅人の足を停めさせる効果を十分発揮しています。

ここは無人駅らしく、誰もいない待合室はひっそりと静か。時折聞こえてくる鳥の声が、はるかな昔に見た筈の情景を思い出させてくれます。

かっては新見方面に向かって相対式2面2線だった美作千代駅ですが、片側の線路は撤去され、単式ホーム1面1線となったとか。人の移動手段が車へと移っていった結果、こうした例を多く目にします。

訪問日:2015年4月25日


松箒(まつぼうき)橋梁・美作河合駅 in 岡山県津山市

2021年12月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市加茂町山下、JR因美線美作河井駅~知和駅間に架かる石造りの鉄橋「松箒(まつぼうき)橋梁」。橋梁と橋を通る列車との風景は鉄道ファンにとって絶好の撮影スポットと言う事で、列車運行の時刻が近づくと大勢の撮り鉄さんが集まってくるとか・・

確かにこのロケーションに一両電車が加われば、被写体としては完璧!撮り鉄でない私たちでも必死でデジカメを向けると断言できます😀

道路を跨いで尾根から尾根に高さ100m近い円柱橋脚橋桁が渡る姿は、もうそれだけで圧巻。・・・ああ、本当にあと30分待てば電車が来ると誰かが言ってくれたら、絶対に最後の予定をキャンセルするのに。

因美線最後の駅は「美作河合駅」。途中に見かけた「矢筈城址」の文字に心を惹かれましたが立ち寄るには調査不足。もしかしたら、いつか立ち寄れる日もあるかもしれません・・好奇心はそれまでお預け。

津山市加茂町山下(旧苫田郡上加茂村山下)にある「美作河合駅」は、岡山県の最北端に位置する駅として知られています。昭和6年(1931)9月12日 - 因美南線 美作加茂駅 から当駅間延伸により終着駅として開業。翌年に智頭駅までが開通したことで、途中駅となりました。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。かつては島式ホーム1面2線と留置線1本を有する合計1面3線の駅でしたが、1997年に行き違い施設が撤去され停車場となりました。

駅の南西には、かつて除雪車の向きを変えるために使用されていた手動の転車台が存在し、2009年2月に近代化産業遺産の認定を受けています。

深さ1.5m、円の直径12.4m、枕木の幅2.1m。この規模の転車台は、愛知県犬山市の「明治村」と青森県中泊町の「津軽鉄道津軽中里駅」の二基があり、完全な形で残っているものは「美作河井駅」のものが唯一といわれているそうです。

かつて鳥取方面からの除雪車を折り返すために使われた転車台。使用されなくなって以降は、草木に覆われ土中に埋まっていたのですが、2007年4月に全国から集まった鉄道ファンによって掘り起こされたと言う、エピソードつき。発掘作業に目を輝かせてこの線路に降り立った彼らの高揚した息遣いが聞こえるような気がします。

転車台の向こうに見えた矢筈城址の看板。何とこの駅は難攻不落の山城として有名な矢筈城の登城口になっているのです。

美作国と因幡国に勢力を有した『草苅衡継』が、天文元年(1532)から翌2年にかけて、加茂町山下から知和にまたがる標高756mの矢筈山に築いた、岡山県内最大の中世山城「矢筈城」。美作河井駅から急峻な登山道で、本丸まで約2時間弱だそうです。・・・・・とてもではありませんが無理😠、登山道が急峻で無かったとしても、絶対に!!無理!😠!

JJR因美線の駅舎巡りは「美作河井駅」で終了。こうしたのどかな駅舎を訪ねて巡るのは童心に帰ったようで心が弾みます。そう言えばこの時より三年前の4月、鳥取県智頭町を訪ね因美線智頭駅に立ち寄っていました。画像を見直してみると、なんとなく不思議な気分です。

実は加茂町域を走る因美線の電車、美作河井駅からの帰路にもう一度見る事が出来ました。ところが不意打ちだったのでこんな風に遠くからしか写せず、頑張って走ったご亭主殿は、無残にも車体の一部のズームアップという残念な結果に😅

それにしても、全く同じ一両電車なのに都会のビルがバックだと、途端に趣が失せてしまいます。電車にしてみれば「何でやねん!!」と、ぼやきの一つもこぼしたくなる所😅

訪問日:2015年4月24日(智頭駅のみ2012年4月14日)


美作滝尾駅・美作加茂駅・知和駅 in 岡山県津山市

2021年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県津山市の東津山駅から鳥取県鳥取市の鳥取駅までを結ぶJR西日本:因美線(いんびせん)。津山市旧自治体のマンホール収集では、因美線の駅舎付近で目的のマンホールを見つける事が出来ました。撮り鉄ではありませんが、地域に守られてきた古い駅舎、川面にすっくと立つ、あるいは道路をはるかに高く跨ぐ鉄橋も大好き。何かと気の多い二人には格好のコースです😊

スタートは津山市堀坂にある「美作滝尾駅」。昭和3年(1928)3月15日、因美 南線として美作加茂 - 東津山 - 津山間が開業した際に設置。駅名の由来はかつての所在地「勝田郡滝尾村堀坂」からですが、既に九州大分県に「滝尾駅」が存在した為、旧国名を冠し「美作滝尾駅」と命名されました。

戦前に建築された古い木造平屋作りの駅舎には、当時のままのきっぷ売り場や改札口などが現存しており、2008年11月に、国の登録有形文化財に登録。

津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅。ホームに立っていると電車が入ってくる気配に慌てて物陰に。

乗降者でもないのに運転手さんに錯覚させては申し訳ないという理由ですが、でもバスと違って一応停車するんですよね😅。しばらく待って、去ってゆく後姿をデジカメに収める事が出来ました。

駅舎の北側には、かつて貨物の取扱駅であった時代の建造物が現存しており、側線跡の他に貨物ホームと上屋が現存しています。

無人の駅長室に怪しい顔出し・・ 実はこの駅舎、映画『男はつらいよ 寅次郎紅の花』の冒頭のシーンで寅さんが降り立つ駅の撮影に用いられています。

駅舎の入り口横には、映画の撮影を記念した碑。駅前には1998年に建立された「鐡道七十周年記念」碑もあります。

津山市加茂町桑原(旧苫田郡東加茂村桑原)にある「美作加茂駅」。昭和3年(1928)3月15日、因美南線として美作加茂 - 東津山 - 津山間が開業した際に起点駅として設置。

現在の駅舎は2003年6月に改築されたものですが、木造瓦葺に塔屋を設けた姿は因美線の駅舎らしい矜持を保っています。

相対式ホーム2面2線を持つ行違い可能な地上駅で、因美線の岡山県側では唯一交換設備を有しています。

冒頭の画像は、美作加茂駅から知和駅までの物見峠へ続く、県道脇の谷間に架かる石造りの「太郎渕橋梁」。昭和3年~5年頃の因美南線の3期工区の工事によって架けられたものです。

津山市加茂町小渕(旧苫田郡東加茂村小渕)にある「知和(ちわ)駅」。昭和3年(1928)9月12日、因美南線(現在の因美線)美作河井 - 美作加茂間延伸時に開業。

誰のいない切符売り場、窓ガラスが多用された事務所内は春の日差しを一杯に受け入れて、木のぬくもりをより鮮明に伝えています。

津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅。ここは交換施設を持たない棒線駅のため、津山方面行きと智頭方面行きの双方が同一ホームから発車します。

手つかずの自然に抱かれるかのごとく背景に広がる緑の木々、赤い瓦屋根も下見板張りの壁も開業当時のまま、秘境駅として知られる木造の駅舎。この不思議なほどの優しさは何なんだろう・・

訪問日:2015年4月24日


作楽(さくら)神社 in 岡山県津山市

2021年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市神戸に鎮座される「作楽(さくら)神社」。御祭神は『後醍醐天皇・児島高徳』。

由緒「元弘元年(1331)、鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった「後醍醐天皇」は光厳天皇への譲位を強制された後、京から隠岐へ配流となり、その途上、美作国院庄の守護館に宿泊した。時に、備前の人、児島備後三郎高徳は、天皇の奪還を試みて船坂山や杉坂峠で一行を待ちかまえたが、みな失敗に終り、単身この館に忍びこもうと企てるも果たせず、折から館の門の前に春雨にぬれて美しく咲いていた桜の幹を削り白くなった所に、「天莫空勾践 時非無范蠡」と十字詩を刻んで立ち去った。貞享5年(1688)津山藩家老:長尾勝明は児島高徳の忠義心を讃え、その桜の樹があったと伝わる場所に高徳顕彰碑を建立。明治元年(1868)津山藩主松平慶倫は、政府から神社創設の許可を得て、作楽神社の創建となった。」岡山神社庁HPより抜粋

ふりしきる雨の中、館に幽閉された『後醍醐天皇』に己の無力さを詫びる『児島高徳』の像。

【天 勾践を空(むな)しうすること莫(なか)れ 時に范蠡無きにしも非ず】(天は、呉との戦いに敗北し捕らわれた越王・勾践(こうせん)を見捨てなかったように、先帝を見捨てることもありません。勾践に范蠡(はんれい)という忠臣がいたように、先帝を助け出す忠臣が必ず現れましょう。)

境内全域は鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館の跡と推定され、館跡の東・西・北の三方には総延長500mほどの現存土塁が残されています。大正11年(1922)3月8日、敷地全体(30,189平方m)が「院庄館跡(児島高徳伝説地)」として国の史跡に指定。また1973年と1980年の二度にわたる発掘調査では井戸や柱の基礎が見つかっています。

境内の一画に建つ「噫忠義桜十字詞之碑塔」は、「戦艦大和の建造者である海軍技術中将『庭田尚三』を会長とする忠桜会が、昭和46年に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物の七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してある。」現地案内より

【 あはれとは  なれも見るらむ わが民を  思ふこころは 今もかはらず 】(今の私を哀れと見る者もいるだろう、だが全ての人々をわが民と慈しむ心は今も変わってはいない)京の石清水八幡宮の前を通られた時に詠まれたと伝えられます。

【よそにのみ  思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは 】(仁徳天皇の御歌で知っていた民のかまどを、思いもかけずこのような所で直接見ることになろうとは・・)美作市楢原中の笠懸の森で休息された時に詠まれたと伝えられます。

「女院塚」『後鳥羽上皇』が隠岐に御遷幸の途次、この地で病歿された寵妃:姫法師を葬った塚と伝えられています。

歌誌「水甕」同人で郷土史家でもあった『野村完六』文学碑

【 とびひとつ まぢかにまひて美作や 高き山はら雪にくれゆく 】

『井隆・矢野峰人』「寮歌よ永遠なれ」詩碑

「白桜十字詩」と呼ばれる詩を初めて耳にしたのは12歳の時、卒業式の式典で校長先生が私たち卒業生へのはなむけとして謡ったのが最初です。今ならきっと、身も心も赤く左に傾いた人たちが、口角泡を飛ばして校長先生を謝罪に追い込んだかも・・などと思います。数十年を経た今でもはっきり覚えているという事は、当時の私にとって、それほど心に響いたという事でしょう。

参拝日:2015年4月24日


中山(なかやま)神社 in 岡山県津山市

2021年12月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市一宮に鎮座される「中山(なかやま)神社」。御祭神は『鏡作神(かがみつくりのかみ)』相殿に『天糠戸神(あめのぬかどのかみ)・石凝姥神(いしこりどめのかみ)』

式内社(名神大社)で美作国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。社名は、かつて「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みされた時期もあり、別称として「仲山大明神」や「南宮」とも称されていました。

「神社正面入口の鳥居は寛政三年(1791) の建設であり、角貫に木鼻がなく笠木と島木にそりを もたせて壮大美を強調してあり他地方には例をみない中 山鳥居として一形式をつくっている。」境内案内より

由緒「文武天皇慶雲4年(707)此の地に社殿を創建して鏡作神を奉斎したと伝える。貞観年間官社に列せられ、延喜式に於ては美作国唯一の名神大社であり一宮でもある。「今昔物語」に猿神の説話あり。鎌倉時代、元冦など国家非常の時に際し、勅命により当社を含む全国7ケ国の一宮に国家安穏を祈願せしめる。建武中興破れて天正に至る約4百年間、美作国中戦乱の巷と化し、永正8年(1511)と天文2年(1533)に、本殿以下山上山下の摂末社120社と共に宝物・古文書等悉く焼失。永禄2年(1559)、出雲城主尼子晴久戦捷報賽の為、世に中山造と称せられる入母屋造妻入檜皮葺で間口・奥行5.5間、建坪約41.5坪の社殿を復興。大正3年国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財の指定を受けている。」岡山神社庁HPより抜粋

鳥居からまっすぐに続く参道、その中ほどより神域を守護されるのは、明治41年(1908)5月吉日建立の構え狛犬さん一対。

低く水平に寝かせた耳、背中に張り付けた尾の形、前足に顎を載せて構える姿は独特の様式を持っており、とても興味深い一対。

参道をさらに進むと、御手洗川に架かる神橋が見えてきます。

その神橋の左右より神域を守護されるのは、明和元年(1768)建立、石工『小?市郎兵衛』の銘が残された狛犬さん一対。・・・・狛犬さんと書きましたが、果たしてこれを獅子、もしくは狗と称して良いものなのかどうか・・・

「美作一宮 郷土の遺産」の中に、「その面貌(めんぼう)は獅子でもなく狗(いぬ)でもなくまさに猿。高麗犬の故事来歴も究めれば深いものがあるが、この中山の猿面の高麗犬は天下の奇品であり、その顔は作者の人柄を偲ばせる絶品である。」の記載があり、まさしく「猿」と表現されるにふさわしい容貌。

神橋の先に建つ神門は、明治初頭に移築された津山城二の丸の四脚薬医門で、津山市の重要文化財に指定。

鳥居から神橋、神門、その先に拝殿があり、屋根越しに御本殿の千木・・・これほど真っ直ぐに続く参道を歩いていると知らず知らず背筋が伸びるようで、そしてそれがこの上なく心地よく感じられます。

「社殿は永禄 二年(1559)尼子晴久によって再興。その構造は室町末期のもので、安土桃山時代への過渡期の特徴を具有し、単層入母屋妻入り造り、桧皮葺 きの本殿は中山造りと呼ばれ、他地方には例を見ず、大正三年(1914)国の重要文化財に指定され、美作一 円の神社建築の手本となっている。」境内案内より

「総神殿(そうしんでん)(惣神殿)」。寛保二年の再建で津山市指定文化財。山上山下120社を合祀。御手洗川手前にあったものを大正二年に移築し、さらに「幸宮・宇都宮・小原神社」を合祀。

かって中山神社は西国壱の軍神とされ、天下の大乱に際しては朝廷より特別の護国祈願を仰せつかっていました。この「鉾立石」は、秘祭「鉾立て」の神事の際に大小の鉾を立てた基石で、上面中央に鉾を立てた凹みがあります。

奉納神牛は相殿神に祀られる『天糠戸神』が、古くより農耕・牛馬の守護神として美作一円から崇敬されている事に因むもの。絵馬にも「ゆたん」に三つ巴の神紋を染め抜い牛が描かれています。

参道脇に『大島白鳳』句碑【伝説の 森おごそかに 千木光る】

中山神社、最後は二の鳥居に至るまでの参道外に聳える「祝木(いぼぎ)のケヤキ」

「推定樹齢800年で、胸高8.95m、根元10.5m。地上5mから七枝に分かれ、内部は空洞となっている。道路に面して祝木社の小祀がある。祝木とはこの木の下で中山神社先住神を祝い祭ったという伝説にちなんでいる。「中山神社縁由」によると、慶雲3年(706)中山神は美作国を鎮護するため英多郡楢原に天下った。次に水無瀬河奥の泉水池(現津山市一宮)に現れ、さらに田辺の霧山に移った。そこで麓の川に鵜の羽を浮かべたところ、その羽が長良嶽の麓にとどまった。その地はすでに先住神の大巳貴命が鎮座していたが、命から国譲りをうけ、慶雲5年(708)現在地に社殿を建てて永くこの地に鎮座することになった。そして大巳貴命は祝木のもとに移住して鎮座したが、のち数10m南の地に宮地を求めて国司神社となったとする。」津山の文化財より

参拝日:2015年4月24日


津山散策~あちこちウォッチ in 岡山県津山市

2021年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市椿高下に所在する「岡山県立津山高等学校」。校門の正面に聳える旧本館は明治33年(1900)の落成。県内に現存する最も古い学校建築の一つであり、県内旧制中学校本館の建築で明治期の現存校舎は、県内唯一と言われています。

木造二階建の擬洋風建築で、中央屋と左右翼屋からなり、正面中央部の前面を1間分突出させ、さらに玄関ポーチを設置。屋根部分は寄せ棟造りで、桟瓦ぶき。中央に塔屋、左右に小屋窓を設けた、イタリア・ルネサンス様式。こうした明治・大正期の学校建築の趣をよく残すことから、某テレビ小説「あぐり」では、第一岡山高等女学校のシーンの撮影に。同じく某テレビ小説「カーネーション」では、泉州高等女学校のシーンの撮影に使用されました。

明治36年(1903)に、皇太子(のちの大正天皇)の津山行啓があった際には、同館2階右翼を貴賓室として。また昭和天皇の津山行幸の折にも、お立ち寄りになられたと言います。この素晴らしい学校建築は、1995年12月26日に国指定重要文化財となりました。画像が一方方向なのは門の外からの撮影の為・・できればもう少し近くで見たかったと思います。

訪問日:2015年4月24日

------------------------00----------------------

津山市山下、津山城址に向かう石段の手前に建つモダンな建物は「旧津山基督教図書館」。日本唯一の基督教公共図書館として設立され、現在はこの建物の設立者である『森本慶三』の名を冠し、森本慶三記念館として公開されています。

建物は、大正15年(1926)青森県弘前市の設計技師「桜庭駒五郎」により設計、施工。木造三階建、銅板葺、時計付の塔屋や細部の浮き彫り等、大正末期の洋風建築の流れを汲んだデザインで、後方には時計塔と十字架が配置された構造になっています。

建物は1998年に文化庁の「登録有形文化財」に指定されました。

訪問日:2019年12月15日

------------------------00----------------------

津山市宮脇町の一画、。藺田(いだ)川に架かるのは大正15年(1926)に架け替えられた「翁橋」。鉄筋コンクリート造の親柱が何とも情緒のある風情ですが、かってこの橋の東詰には、津山藩の西大番所がおかれていたそうです。「翁橋」は1999年10月、国登録有形文化財に指定されました。

城西地区にも歴史を感じさせる町並みが残されており、時間があればもう少しゆっくり歩きたいところ・・こちら「つちや写真館」の看板は現役でしょうか?玄関周りや屋根の装飾が、とてもモダン。

津山市神戸、津山藩初代藩主森忠政公によって開基された「本源禅寺」の総門。

と言っても目的は参拝ではなく、留蓋の飾り瓦。「徳守神社」の留め蓋獅子もとってもユニークでしたが、こちらも負けていません。獅子と言うよりも・・・・獲物を狙うライオン。あ・・でもライオンは日本語では獅子でしたね。

吽形さんの方はどちらかと言うと・・ブルドッグ・・ああ、もちろん犬=狗なので、特に間違っちゃいません😊

訪問日:2010年3月1日


徳守(とくもり)神社 in 岡山県津山市

2021年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市山北に鎮座される「津山藩総鎮守・徳守(とくもり)神社」。御祭神は『天照皇大神』。相殿に『国常立尊・伊弉諾尊・月読尊・誉田別尊』。

由緒「当神社は聖武天皇の御代天平5年(733)の創祀と伝えられている。社地は当初現在の津山市小田中の地にあったが、天文8年(1539)火災に遭い社殿 宝物等悉く焼失した。慶長8年(1603)美作の国18万6500石の国守大名として入封した森忠政公(森蘭丸の弟)が津山城を築くにあたり、翌9年(1604)現在地に移して津山城下の総鎮守とした。」公式HPより

寛政3年(1791)建立の「中山鳥居」の奥に神門、まっすぐ先に拝殿が見えます。が・・まずは神門の屋根で参拝者を迎える留蓋瓦の獅子一対。

確かに尾の形状などは獅子なんですが、真ん丸な胴体とか、小さめの耳とか見ていると、ちょっと厳つい顔の狸・・・😅

神門の内より神域を守護されるのは慶応二年(1866)十二月建立の構えタイプの狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬を手にしています。

片足が台座から落ちかけて、吽形さんに頭を押さえつけられた仔狛さん。

アップにすると、こんな不満そうな顔😅

境内に建立されている歌碑は、もと津山藩の武士で、赤穂四十七士の一人として知られる『神崎与五郎』。徳守宮を深く信仰し、討ち入りにあたって徳守宮を拝したと言われています。

【海山は 中にありとも神垣の 隔てぬ影や 秋の夜の月】

社殿は寛文4年(1664)、二代藩主『森長継公』が改築したもので、明治5年に県社に列せられ、その後昭和31年に県指定の重要文化財に指定されました。

拝殿から幣殿・本殿へ・・中山造と呼ばれる独自の形式を持つ社殿は、優美な姿を見せて一直線に続きます。

社殿の後方に並ぶ摂社群

「摂社:住吉神社」伝えによれば「天文8年徳守神社社殿焼失の際、唯一再建された建物である。その後、森忠正が慶長9年津山城下の総鎮守として、現在の地に社殿を造営。その時この地に移築されたと伝えられている。しかしながらこの本殿の建築構造から建立年代を推定すると17世紀初期に遡ることができ、徳守神社本殿建立と同時期と考えられる。正面一間、側面一間の妻入りで一間の向拝を持ち、正面を入母屋造、背面を切妻造とし、前方に屁をつけた構造で「木偶入春日造」と呼ばれている。」公式HPより抜粋

「摂社:恵毘須神社・寿福幸神社」。大正4年に南新座町内から還座。商売繁盛、幸福金運に利益があるとされます。

「高倉稲荷神社」「元は渓花院というお寺にあり、嘉永3年(1850)に当社に遷されました。宮脇町内で善神社に合わせてお祭りも行われ、多くの方々が参拝されています。明治32年に千歳稲荷、2019年に堺町根田稲荷が合祀されています。」公式HPより

高倉稲荷神社の右手に鎮座される「お花善神社(お花宮)」。不幸な事故によって主家の子を死なせてしまったお花。哀れにも我が子を失った狂乱の奥方に責め殺されてしまったお花は、やがて怨霊となって奥方に取り憑き狂死させてしまうのです。

「お花」の霊を慰めるために祠を建てて神として祀った後は、祟りはなくなり、今は婦人の守り神として知られ、特に逆境にある女性に霊験あらたかだそうです。

「徳守神社神輿庫」。文化6年(1809)に岡崎屋伊兵衛らの発起により、氏子の総力を結集して新調された金塗神輿が収められています。総高280cm、屋根部分縦横共210cm、極めて大型の神輿で津山市指定文化財に指定されています。

「神馬舎」

神馬さんの顔が😅  私の写し方が悪い所為でカッコよく撮れなくてごめんなさい。

北門の近くに建立されていた「弥栄」

「北門:中山鳥居」

参拝日:2010年3月01日


鶴山(つるやま)八幡宮 in 津山市山北

2021年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市山北に鎮座される「鶴山(つるやま)八幡宮」。御祭神は『譽田別尊、神功皇后、玉依姫』。通称「八子(やご)の八幡さま」とも称されます。

由緒「往古より鶴山頂上(現在の津山城跡)に鎮座していたが、慶長8年森忠政公が入府しこの山を城地に選定、築城するに当たり、一旦、城南覗山(のぞきやま)に遷し、その後慶長13年現在地に御社殿を造営して再遷座された。寛文9年、森家二代藩主により壮麗極彩色の御社殿を建立し、社領として50石を寄進。森・松平両家代々と縁深く藩士からも文武の祖神として崇敬された。」岡山神社庁HPより抜粋

生憎と雨に降られてしまい、足元も視界も悪い中での参拝ですが、参道石段の中ほど、鳥居の両脇より神域を守護されるのは、昭和3年(1928)5月建立の狛犬さん一対。ほっそりとした体に背中に沿って真っ直ぐに伸びる尾。傘越しに下から見上げているせいか、少し上向き加減の顔立ちがとても優しく見えます。

石段参道の先に神門、その向こうに注連縄が張られた拝殿が見えています。

桟瓦葺入母屋造で、1間の檜皮葺唐破風の向拝を持つ拝殿。後方に釣殿及び神供所が続き、いずれも寛文9年(1669年)の建造で、県指定重要文化財。

現地案内に書かれていた「釣殿」ですが、これは本来寝殿造などの建築様式で池に面して東西に設けられた建物を指す言葉。ここの場合、一般的に幣殿などと呼ばれると思うのですが・・どうなんでしょう?

本殿は寛文9年の建立で棟札が現存。屋根は銅板葺。方三間、妻入の入母屋造に向唐破風の向拝を設けた中山造と呼ばれる様式。

軒の組物を三手先(みてさき)とし、各材先端部の獅子・象・龍、向拝部分の牡丹の彫刻に極彩色を施し、殿内にも極彩色を用いるなど、華麗な造り。

細部意匠の上では、江戸時代中期以降の装飾豊かな建物の早い例であり、この地方の社寺建築の動向を示す上に貴重な遺構であるとして、昭和55年5月31日、国指定重要文化財の指定を受けました。

当神社で最も古い建造物とされる、県指定重要文化財の「末社:薬祖神社」。御祭神は『少名毘古那神(すくなびこなのかみ)』。社殿は桁行5尺2寸・梁間1間2尺の栩(とち)葺流造で、鶴山の社地から移転したと伝えられています。

石段参道の右手に建つ「末社:稲荷神社」

参拝日:2010年3月1日