車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

徳守(とくもり)神社 in 岡山県津山市

2021年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市山北に鎮座される「津山藩総鎮守・徳守(とくもり)神社」。御祭神は『天照皇大神』。相殿に『国常立尊・伊弉諾尊・月読尊・誉田別尊』。

由緒「当神社は聖武天皇の御代天平5年(733)の創祀と伝えられている。社地は当初現在の津山市小田中の地にあったが、天文8年(1539)火災に遭い社殿 宝物等悉く焼失した。慶長8年(1603)美作の国18万6500石の国守大名として入封した森忠政公(森蘭丸の弟)が津山城を築くにあたり、翌9年(1604)現在地に移して津山城下の総鎮守とした。」公式HPより

寛政3年(1791)建立の「中山鳥居」の奥に神門、まっすぐ先に拝殿が見えます。が・・まずは神門の屋根で参拝者を迎える留蓋瓦の獅子一対。

確かに尾の形状などは獅子なんですが、真ん丸な胴体とか、小さめの耳とか見ていると、ちょっと厳つい顔の狸・・・😅

神門の内より神域を守護されるのは慶応二年(1866)十二月建立の構えタイプの狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬を手にしています。

片足が台座から落ちかけて、吽形さんに頭を押さえつけられた仔狛さん。

アップにすると、こんな不満そうな顔😅

境内に建立されている歌碑は、もと津山藩の武士で、赤穂四十七士の一人として知られる『神崎与五郎』。徳守宮を深く信仰し、討ち入りにあたって徳守宮を拝したと言われています。

【海山は 中にありとも神垣の 隔てぬ影や 秋の夜の月】

社殿は寛文4年(1664)、二代藩主『森長継公』が改築したもので、明治5年に県社に列せられ、その後昭和31年に県指定の重要文化財に指定されました。

拝殿から幣殿・本殿へ・・中山造と呼ばれる独自の形式を持つ社殿は、優美な姿を見せて一直線に続きます。

社殿の後方に並ぶ摂社群

「摂社:住吉神社」伝えによれば「天文8年徳守神社社殿焼失の際、唯一再建された建物である。その後、森忠正が慶長9年津山城下の総鎮守として、現在の地に社殿を造営。その時この地に移築されたと伝えられている。しかしながらこの本殿の建築構造から建立年代を推定すると17世紀初期に遡ることができ、徳守神社本殿建立と同時期と考えられる。正面一間、側面一間の妻入りで一間の向拝を持ち、正面を入母屋造、背面を切妻造とし、前方に屁をつけた構造で「木偶入春日造」と呼ばれている。」公式HPより抜粋

「摂社:恵毘須神社・寿福幸神社」。大正4年に南新座町内から還座。商売繁盛、幸福金運に利益があるとされます。

「高倉稲荷神社」「元は渓花院というお寺にあり、嘉永3年(1850)に当社に遷されました。宮脇町内で善神社に合わせてお祭りも行われ、多くの方々が参拝されています。明治32年に千歳稲荷、2019年に堺町根田稲荷が合祀されています。」公式HPより

高倉稲荷神社の右手に鎮座される「お花善神社(お花宮)」。不幸な事故によって主家の子を死なせてしまったお花。哀れにも我が子を失った狂乱の奥方に責め殺されてしまったお花は、やがて怨霊となって奥方に取り憑き狂死させてしまうのです。

「お花」の霊を慰めるために祠を建てて神として祀った後は、祟りはなくなり、今は婦人の守り神として知られ、特に逆境にある女性に霊験あらたかだそうです。

「徳守神社神輿庫」。文化6年(1809)に岡崎屋伊兵衛らの発起により、氏子の総力を結集して新調された金塗神輿が収められています。総高280cm、屋根部分縦横共210cm、極めて大型の神輿で津山市指定文化財に指定されています。

「神馬舎」

神馬さんの顔が😅  私の写し方が悪い所為でカッコよく撮れなくてごめんなさい。

北門の近くに建立されていた「弥栄」

「北門:中山鳥居」

参拝日:2010年3月01日


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