tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

『奈良の「隠れ名所」』実業之日本社刊/啓林堂書店(県内6店)ベストセラー第1位に!

2016年07月26日 | 奈良にこだわる

おかげさまで、奈良まほろばソムリエの会が書いた『意外な歴史の謎を発見! 奈良の「隠れ名所」』が、地元の大型書店「啓林堂書店」(県内6店)のベストセラー第1位にランクインしました!

実は昨日(7/25)、本書をまとめ買いしようと近鉄奈良駅前・小西さくら通りの同書店「奈良店」へ行きますと、売り場の3ヵ所(入ってスグ、新刊の棚、奈良本の棚)にあった本書が、すべて合わせても10冊足らずしかなく、あきらめて同書店の「学園前店」でやっと買えた、という経験をしました。

店員さんに聞くと「特に奈良店で、飛ぶように売れています」とのこと。今朝(7/26付)は奈良新聞のコラム「國原譜(くにはらふ)」でも紹介していただきました。全文を抜粋しますと、

法隆寺、東大寺など世界的に著名な文化歴史遺産に恵まれた奈良だが、一般にあまり知られていない名所、歴史的逸話も案外多い。『意外な歴史の謎を発見! 奈良の「隠れ名所」』(実業之日本社)が啓林堂書店(県内6店)のベストセラー1位となったのは、そんな穴場を知りたいという人が多い表れだろう。

「奈良通」の人たちの集まりである「奈良まほろばソムリエの会」のメンバーらが執筆。奈良に生まれ育った筆者でも目からウロコの内容だ。例をあげると、近所にある県馬見丘陵公園内の国史跡・ナガレ山古墳に設置されている円筒埴輪には、地域住民が粘土で製作したのが181本あるとは住民ながら知らなかった。

率川神社のゆりまつりは「これほど美しい神事は見たことがなかった」と三島由紀夫が感嘆。有名な入浴剤のルーツは当麻寺・中将姫の秘薬だったらしい。

あちこち出掛けていってポケモンを探して捕獲するスマートフォンのゲーム(ポケモンGO)がブームとなっているが、県内の各地域を歩くとポケモン以上に面白い新発見があるのではないか。(栄)


 意外な歴史の謎を発見! 奈良の「隠れ名所」
 奈良まほろばソムリエの会
 実業之日本社 (じっぴコンパクト新書)

20人近い執筆陣により産経新聞に連載した115本から、72本を厳選しました。私が書いたのは7本で、

称名寺の村田珠光
高畑の不空院
農業指導者・中村直三
山の辺の道
中将姫と中将湯
若葉の吉野山
天誅組決起150年


新聞掲載時より文章を短くし、写真の一部を差し替え、図も入れましたので、とても見やすくなっています。私はほぼ全編のチェック役を担当していましたので(大変な苦労でした)、本が売れてたくさんの方に見ていただけるのは、望外の喜びです。仲間うちでは、来月に出版記念会をやろう、という話も出ています。皆さん、ぜひ本書をお読みいただき、奈良の「隠れ名所」をお訪ねください!
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桜井市外山(とび)は、歴史の宝庫!

2016年07月25日 | 奈良にこだわる
「外山」と書いて「とび」。これは数ある奈良県下の難読地名のなかでもトップクラスだ。平凡社刊『奈良県の地名』の「外山村」には、『日本書紀』の神武天皇のところで金の鵄(とび)の力で長髄彦(ながすねひこ)をやっつけたという鵄邑(とびむら)伝承地の1つとして、また『万葉集』大伴坂上郎女の跡見(とみ)庄に比定される、と出ている。
※写真はすべて7月22日(金)に撮影



金曜日(7/22)、地元ご出身・在住の東田好史さん(奈良まほろばソムリエ)に当地をご案内いただいた。ここの鎮守は宗像(むなかた)神社である。桜井市のHPによると、

神武天皇が大和に入り、祖神を祀る霊畤(れいじ)を設けた鳥見山の麓にある。鳥見山の北麓、国道165号南側に鎮座する。幕末の国学者、鈴木重胤がこの地にきて、宗像三神の衰微をなげき村民と相はかって再興に努力し、安政6年(西暦1875年)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎えたとされる。

宗像神社(トップ写真とも)

福岡県の宗像大社(宗像本社)のご祭神は、天照大神の御子神(みこがみ)である田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)。外山の宗像神社ではこれら宗像三神と、春日大社および同若宮社の神を祀る。詳しい説明は外山区のHPに紹介されている。その境内入口手前に「能楽宝生流発祥の地」の碑が建つ。公益財団法人宝生会のHPによると、



宝生流は、大和猿楽四座のうち、外山(とび)座を源流としています。大和国外山崎(現在の奈良県桜井市外山)を拠点としたことからこう呼ばれ、藤原鎌足の廟所として尊崇を集めた多武峰(とうのみね)寺〔談山(たんざん)神社〕に属して活動していました。外山は、古代日本の黎明にその名を記された由緒ある土地です。神武天皇、天武天皇の伝説に彩られ、数々の古跡、古社があります。そのうちの一つ、宗像神社の境内入り口付近には、「能楽宝生流発祥の地」の碑も建てられています。

その手前に「不動院」(真言宗 藤原山不動院)がある。お寺の公式HPには、

不動院の拝観には、電話予約が必要(0744-43-7406)

平安時代に登美山鎮座宗像神社が創始され、村の鎮守として祀られていましたが、仏教の興隆と密教の流布により、また神仏混淆(こんこう)の時代に入り、併せて村内鎮護の寺として建立されたものと考えられています。原一門が一族の祖である藤原鎌足を祀る談山神社(当時の多武峰妙楽寺)に参詣のおり、当院で身を清めた後に登山したと言われ、扁額には藤原忠通と藤原仲光女加賀局の息子で当時の天台座主であった慈円書の”無動堂”の字が残されており、山号も藤原山となっているところから藤原氏と大きく関わりのあった寺院であると考えられます。

南北朝時代には僧兵が南朝側について戦い、堂塔伽藍が焼打ちにあったといわれ、当時はかなりの寺観を保っていたと思われます。かろうじて焼失を免れた本尊不動明王は小さいお堂の中で大切に保存されてきました。江戸時代には四代将軍家綱の上覧に供したと言われています。その後、住職不在の時代も続き荒廃していた様ですが、昭和56年から57年にかけ、本尊の修復と外山地区区民皆様のご協力により本堂および脇部屋の改修が行われました。


このお寺には、国の重要文化財に指定されているご本尊「木造不動明王坐像」が祀られている。お寺のHPによると、


ご本尊・木造不動明王坐像。お寺の許可を得て撮影

木造 彩色 截金 彫眼 像高85.3cm 平安時代 12世紀 
ほぼ正面を向き、眼は片目をすがめた天地眼とし、牙を上下に出す。総髪として頭頂に莎髻を結い、花飾のある冠帯を巻き、弁髪は束ね目を表さずにねじれながら左胸に垂れる。基本的に不動十九観に基づく図像だが、この種の象に一侵的な巻髪でなく、弘法大師様以来の形式の、髪を杭きあげた総髪としている例は比較的珍しい。

寄木造で頭体幹部を左右矧ぎ(はぎ)とし、背面に背板風に一材を足し、両脚部に一材、両腰に各一材を寄せ、三道下で割首とする。両肩より先は別材製。光背は三材を矧ぎ寄せており、台座は各段ごとに四材を矧ぐ構造をもつ。

いかにも平安後期彫刻らしい高雅な気品にみちた造形をもつ像で、忿怒相をとりながらもその表情には静謐さが漂い、一肩幅と膝の張りを大きめにとって腰を絞ったプロポーションもバランスがよい。微妙な起伏を的確にとらえた面貌表現、過不足ない体軀の肉付け、浅く柔らかなタッチで簡潔に刻まれた衣文など、随所に洗練された彫技が発揮されており、中央の有力仏師の手になる本格的な造像であったと推測される。


この日は前を通り過ぎただけだが、外山区には「報恩寺」というお寺もあり、定朝様(じょうちょうよう)の阿弥陀仏が祀られている。外山区のHPによると、



本堂は寄棟造り。本瓦葺き。1間向拝付き。開基開創は不明である。本尊として木造阿弥陀如来像を安置する。平成21年3月、県文化財に指定され、平安後期作、高さ218.2cm(7尺6寸8分)上品上生、実に堂々たる尊像である。全軀に金箔をおしていたが、現在は殆ど剥落し、後生阿弥陀如来坐像その上に黒漆を塗り、後の金箔のあとも見える。両手、腰部に補修があり虫害や破損も甚大である。円光背は、後世に成る。この像についても、粟原(おおばら)流れの言い伝えがあることから、元は粟原寺(※)仏体であったと思われるが、いつ報恩寺に安置されたかは、不明である。 

※粟原寺…中臣大嶋が天武天皇皇子草壁皇子の為に造立を発願。比売朝臣額田が後を継いで22年を費やし和銅8年(715)に竣工、金堂に丈六の釈迦を安置したとされる。国宝三重塔状鉢は、談山神社に在る。


そして、外山といえば柄鏡形(えかがみがた)の「茶臼山古墳」である。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると、


茶臼山古墳。大きすぎてとても写真に収まらない

茶臼山古墳(桜井市外山)
鳥見山の北西麓に延びる尾根を利用して築かれ、前方部を南に向けた大型前方後円墳。築造は四世紀ごろ。全長200m、後円部径110m、前方部幅60mで前方部先端が広がらない、いわゆる柄鏡形の前方後円墳の典型であることが特徴。また墳丘は後円部三段、前方部二段で斜面は葺石で覆うが埴輪はない。埋葬施設は後円部中央に古墳の主軸に沿って築かれた竪穴式石室で、その周囲を底部に円孔をあけた二重口縁壷が方形にめぐる。石室は全長6.8m、幅1.1m、高さ1.6mで石室壁面は扁平な安山岩を垂直に積み、朱で彩色されている。石室内部床面には板石が敷かれ、トガの巨木を使用した木棺が収められていた。


このように、数多くの史跡が外山区の狭い範囲内に集まっている。鳥見山の反対側には等彌(とみ)神社、見渡すと三輪山が目に飛び込んでくる。神武天皇伝説に彩られ、数々の古跡、古社のある桜井市外山、ぜひいちどお訪ねいただきたい。東田さん、ご案内ありがとうございました!
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しもみかど流しそうめん(奈良市・下御門商店街)/7月30日(土)開催!(2016 Topic)

2016年07月24日 | お知らせ
下御門商店街のスロープ(傾斜)を利用した恒例の「しもみかど流しそうめん」、今年で5回目を迎える。同商店街のFacebookによると、
※写真は、同商店街のFacebookから拝借

【第5回 しもみかど流しそうめん 7月30日(土) 開催!】
2012年からはじまり、今年で5回目。毎年1,000人以上を動員する「しもみかど 流しそうめん」。商店街の坂道に、長さ約80mの竹台を設置する、「坂のある商店街」の特徴をいかしたダイナミックな「流しそうめん」は奈良の新しい風物詩!アーケードがあるので雨が降っても大丈夫。「そうめん早食い大会」も同時開催します。優勝者には豪華賞品も!夏休みが始まってすぐの週末、家族揃ってのお越しをお待ちしております。今年も奈良の商店街から夏を盛り上げます!!


《開催概要》
日 時 : 2016年7月30日( 土 ) ①14:00〜15:00/②16:00〜17:00
場 所 : 奈良市下御門商店街( 近鉄奈良駅から徒歩8分、JR奈良駅から徒歩15分 )
参加費 : ¥100/つゆ一杯
※「そうめん早食い大会」は15:15〜15:45に開催(参加費無料)。参加申込みは当日14:30〜15:00、会場北側(坂の下側)販売所にて行います。先着順で受付け。定員あり。


「No Somen, No Life」というキャッチコピーは、「そうめんのない人生なんて…」とでも訳すのだろうか。この取り組みは近畿経済産業局(経済産業省)「近畿のイケテル商店街」に選ばれ、新聞でも大きく紹介された。

土曜日(7/30)は、ぜひ下御門商店街へ。腕(胃)に覚えの方は、ぜひ「そうめん早食い大会」にも、チャレンジしてください!
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奈良ものろーぐ(4)保田與重郎/日本浪曼派は桜井市出身

2016年07月23日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
奈良県下のスグレモノやゆかりの人物を紹介する「奈良ものろーぐ」(奈良日日新聞に毎月第4金曜日掲載)、今回紹介するのは(7/22付)保田與重郎(やすだ・よじゅうろう)。戦前・戦中に一世を風靡した文芸評論家である。彼が桜井市出身であり、市内に万葉歌碑を建てる運動やカタヤケシ(桜井市・相撲神社内)に幕内全力士を呼び、パレードまでやったことは、ほとんど知られていない。これはもったいないことなので今回、彼の思想を紹介することにした。
※トップ写真は、與重郎の生家。東田好史さんにご紹介いただいた

與重郎の著作は保田與重郎文庫(全32冊)におさめられているが何しろ晦渋この上ない文章なので、何度かトライしたがその都度ハネ返されてきた。今回その著作の何冊かと、入門書『保田與重郎を知る』(前田英樹著)新学社刊、伝記『空ニモ書カン』(吉見良三著)淡交社刊のおかげで、彼の全貌を知ることができた。ご教示いただいた東田好史さんと加地伸久さんには、厚く御礼申し上げる。では、新聞記事の全文を紹介する。


等彌神社に建つ歌碑(棟方志功画)

保田與重郎/日本浪曼派は桜井市出身
保田與重郎(やすだ・よじゅうろう 1910~1981)は桜井市出身、日本浪曼派(ろうまんは)のエースとして活躍した文芸評論家だ。日本浪曼派とは「文芸雑誌の名。また、その雑誌によって活動した一派。一九三五年(昭和10)三月、保田与重郎・亀井勝一郎らにより創刊、三八年八月廃刊。自然主義文学を強く批判、当時のロマン主義擡頭(たいとう)の気運に乗り,詩精神の高揚と日本古典の復興を標榜(ひょうぼう)」(『大辞林』)。

與重郎は小林秀雄と並んで、昭和10年代の青年層に強い影響を及ぼしたことで知られる。與重郎ほど、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人はいない。民族主義と反近代主義にたった評論で、戦前・戦中は時代を代表する評論家ともちあげられた。ところが戦後は戦争を正当化したとされ、公職追放。言論も存在も黙殺された時期があった。
 
しかし與重郎の思想は一貫していた。「敗戦といふ大いなる時代の激変に際会して、保田與重郎はその思想に何らかの変更を必要としない稀な文学者のひとりであつた」(桶谷秀昭著『保田與重郎』)。つまり、変わったのは時代の方だったのだ。


 保田與重郎を知る(DVDつき)
 前田英樹
 新学社

與重郎の深い日本古典の教養と独自の美的感覚は、生まれ育った桜井の風土のなかでつちかわれた。「この國(くに)の初めの土地、今につづく大倭朝廷が出現した美しい山河自然の中に立ち、その日の出、月の出の雄大な風景に感動し、そして眼を閉ぢ頭を垂れよ。何かは知らぬ永遠な情感が、血の中にわき立つであらう。それは詩であり、歌であり、文章であり、すべて疑ひ得ない最高の眞實である」(『日本の美術史』保田與重郎文庫18)。

與重郎は「自然」を「かむながら」と読む。「神(かむ)ながらの道」が自然の道であり、古代の祭政一致、つまり米作りによる祭りの暮らしこそが、わが国の理想であるとする。「苗代づくりも、種子まきも、田植えも、草取りも、すべて神の教えに従って行われ、秋のゆたかな実りに結びついた。民は神の教えのままに安心して農作にいそしみ、実りの秋には収穫をまっ先に神と天皇に捧げてその恵みに感謝した」(吉見良三著『空ニモ書カン』)。ここには家族のような神と天皇と民とのつながりがある。

神武天皇ゆかりの等彌(とみ)神社は、與重郎の生家から徒歩10分ほどの場所にある。彼の祖父は毎日、早朝のお参りを欠かさなかったという。ここに與重郎の歌碑がある。生涯の友だった棟方志功が描いたものだ。「鳥見山の此の面(も)かの面をまたかくし時雨はよるの雨となりけり」(鳥見山のこちら側やあちら側を雲で隠して降った時雨は、夜に入って本降りになってしまった)。ぜひ歌碑を訪ね、與重郎の生涯に思いをはせていただきたい。


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真田丸(28)受難

2016年07月22日 | 日々是雑感
NHK大河ドラマ「真田丸」、前回(9/17)は「第28回 受難」だった。「受難」とは、主として豊臣秀次(秀吉の姉の長男)の受難である。NHKの公式HPによると、
※画像はすべて同番組の公式HPから拝借

秀吉に再び男子が生まれ、居場所を失った秀次は関白の座を放棄し聚楽第(じゅらくてい)から出奔、信繁を頼って京の真田邸に身を寄せる。一方、信繁は秀吉から、大谷吉継の娘・春との結婚を命じられる。秀吉の怒りを恐れた秀次は、信幸を伴い高野山へ向かう。秀次の娘の運命を託された信繁は、命を救うため、堺の伝説の商人・呂宋助左衛門のもとを訪れる。


本題とは関係ないが、面白い展開があった。秀次の前で真田信幸は「われらの母も公家の出なのです」と紹介すると、母親は狼狽。「いずこの?」という秀次の問いかけに稲(信幸の妻)が菊亭晴季の娘だと告げる。すると秀次は「菊亭は私の妻の里。晴季殿は私の舅。すると妻の姉?」というツッコミが入り、ウソがバレてしまう、という展開だ。確かに「菊亭晴季の娘」説は以前はあったが、今は否定されている。そこをドラマはうまく突いていた。

もう1つのサプライズが呂宋助左衛門、演じたのは松本幸四郎。NHKのかつての大河ドラマ「黄金の日々」と同じ役柄で、これは楽しませてもらった。石田三成は「南蛮との商いで大儲けした」と言っていたが、これは助左衛門がヨーロッパまで行っていたというのではなく、フィリピンのルソン島あたりで、ヨーロッパの品々を買い付けた、ということだ。助左衛門が秀吉に売りつけた壺(いわゆる「ルソンの壺」)は、実は島民の便器だったという話もある。その便器の臭いをかいでご満悦の秀吉のシーンは、笑えた。


こんなやりとりもあった。秀次は高野山へ逃亡し青厳寺に入る。秀次は「これまで秀吉に振り回されてきた」と真田信幸に語る。信幸は「私も振り回されてきました。あまりに大きすぎる父、私の声だけがなぜか聞こえぬ祖母、病がちなのかどうかよく分からない最初の妻、決して心を開かぬ2度目の妻、そしてあまりに恐ろしい舅」。秀次は「それは難儀であったのう」。

秀次は、信幸に官位を与えたことを引き合いに出し「返上したりはせぬな?」と念を押す。「あれは私が関白として行った数少ないことの1つじゃ」。自刃を前にした秀次の遺言のような言葉だった。今回、新納慎也(秀次役)の演技はとても良かったし、これまであまり取り上げられなかった豊臣秀次という人が、よく分かった。


横道が長くなった。最後は藤丸タダアキさんにビシッと締めていただこう。

真田丸28話では受難という題で進行をまとめています。受難とは苦しみや災いを受けることをいいます。信幸・信繁の母が菊亭家の娘なのか?という話がありました。この時代は養女などの形もあるので、真相はわからないのでしょう。信幸の嫁が本多忠勝の娘で徳川家康の養女として真田家に嫁ぐという形ですね。

そして信幸の妻、稲も嫁に行った受難を味わいます。信繁は秀吉から正室の打診があった一方で、信幸は官位受領の際の受難に苛まれます。
秀次(新納慎也)も関白職の受難に苛まれます。それにしても新納慎也さんの演技は素晴らしいですね。信繁は秀吉と秀次の間を取り持とうとします。真田丸28話にして、信繁は関白と太閤の間を取り持とうとします。

秀吉は当初、寛大な処置を取ろうとしました。しかし、信繁が秀吉に呼び出されたことに秀次は絶望を感じます。結局は切腹してしまいました。史実とは違う流れですが、心情はそうだったのかなと思いました。秀吉は秀次からの受難もまたあったのですね。真田丸28話「受難」では後継者の受難を描いるなという感想を持ちました。

徳川家の跡継ぎ徳川秀忠・本多正信の跡継ぎの本多正純も登場します。家康の三男秀忠は家康に忠実な息子でしたが、真田丸ではいうことを聞かなさそうでしたね。家康から見ると秀忠は受難だったという落ちが真田丸の最後にあるのでしょうか。真田丸28話の感想はすべて受難でまとまっていたという一言につきます。

秀吉は秀次の妻子供をすべて殺します。子供がいると、復讐をされる可能性があるのですね。しかし、秀次の娘たかが隠し部屋にいました。信繁はこれを助けます。信繁の優しさですね。真田丸28話受難の感想を書きました。

真田丸では当初はあまり題名を気にしていませんでした。しかし、最近は題名に非常に敏感になるようになりました。真田丸28話受難の感想は、三谷さんはまとめてきているなと(笑)
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