「外山」と書いて「とび」。これは数ある奈良県下の難読地名のなかでもトップクラスだ。平凡社刊『奈良県の地名』の「外山村」には、『日本書紀』の神武天皇のところで金の鵄(とび)の力で長髄彦(ながすねひこ)をやっつけたという鵄邑(とびむら)伝承地の1つとして、また『万葉集』大伴坂上郎女の跡見(とみ)庄に比定される、と出ている。
※写真はすべて7月22日(金)に撮影
金曜日(7/22)、地元ご出身・在住の東田好史さん(奈良まほろばソムリエ)に当地をご案内いただいた。ここの鎮守は宗像(むなかた)神社である。
桜井市のHPによると、
神武天皇が大和に入り、祖神を祀る霊畤(れいじ)を設けた鳥見山の麓にある。鳥見山の北麓、国道165号南側に鎮座する。幕末の国学者、鈴木重胤がこの地にきて、宗像三神の衰微をなげき村民と相はかって再興に努力し、安政6年(西暦1875年)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎えたとされる。
宗像神社(トップ写真とも)
福岡県の宗像大社(宗像本社)のご祭神は、天照大神の御子神(みこがみ)である田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)。外山の宗像神社ではこれら宗像三神と、春日大社および同若宮社の神を祀る。詳しい説明は
外山区のHPに紹介されている。その境内入口手前に「能楽宝生流発祥の地」の碑が建つ。
公益財団法人宝生会のHPによると、
宝生流は、大和猿楽四座のうち、外山(とび)座を源流としています。大和国外山崎(現在の奈良県桜井市外山)を拠点としたことからこう呼ばれ、藤原鎌足の廟所として尊崇を集めた多武峰(とうのみね)寺〔談山(たんざん)神社〕に属して活動していました。外山は、古代日本の黎明にその名を記された由緒ある土地です。神武天皇、天武天皇の伝説に彩られ、数々の古跡、古社があります。そのうちの一つ、宗像神社の境内入り口付近には、「能楽宝生流発祥の地」の碑も建てられています。
その手前に「不動院」(真言宗 藤原山不動院)がある。
お寺の公式HPには、
不動院の拝観には、電話予約が必要(0744-43-7406)
平安時代に登美山鎮座宗像神社が創始され、村の鎮守として祀られていましたが、仏教の興隆と密教の流布により、また神仏混淆(こんこう)の時代に入り、併せて村内鎮護の寺として建立されたものと考えられています。原一門が一族の祖である藤原鎌足を祀る談山神社(当時の多武峰妙楽寺)に参詣のおり、当院で身を清めた後に登山したと言われ、扁額には藤原忠通と藤原仲光女加賀局の息子で当時の天台座主であった慈円書の”無動堂”の字が残されており、山号も藤原山となっているところから藤原氏と大きく関わりのあった寺院であると考えられます。
南北朝時代には僧兵が南朝側について戦い、堂塔伽藍が焼打ちにあったといわれ、当時はかなりの寺観を保っていたと思われます。かろうじて焼失を免れた本尊不動明王は小さいお堂の中で大切に保存されてきました。江戸時代には四代将軍家綱の上覧に供したと言われています。その後、住職不在の時代も続き荒廃していた様ですが、昭和56年から57年にかけ、本尊の修復と外山地区区民皆様のご協力により本堂および脇部屋の改修が行われました。
このお寺には、国の重要文化財に指定されているご本尊「木造不動明王坐像」が祀られている。お寺のHPによると、
ご本尊・木造不動明王坐像。お寺の許可を得て撮影
木造 彩色 截金 彫眼 像高85.3cm 平安時代 12世紀
ほぼ正面を向き、眼は片目をすがめた天地眼とし、牙を上下に出す。総髪として頭頂に莎髻を結い、花飾のある冠帯を巻き、弁髪は束ね目を表さずにねじれながら左胸に垂れる。基本的に不動十九観に基づく図像だが、この種の象に一侵的な巻髪でなく、弘法大師様以来の形式の、髪を杭きあげた総髪としている例は比較的珍しい。
寄木造で頭体幹部を左右矧ぎ(はぎ)とし、背面に背板風に一材を足し、両脚部に一材、両腰に各一材を寄せ、三道下で割首とする。両肩より先は別材製。光背は三材を矧ぎ寄せており、台座は各段ごとに四材を矧ぐ構造をもつ。
いかにも平安後期彫刻らしい高雅な気品にみちた造形をもつ像で、忿怒相をとりながらもその表情には静謐さが漂い、一肩幅と膝の張りを大きめにとって腰を絞ったプロポーションもバランスがよい。微妙な起伏を的確にとらえた面貌表現、過不足ない体軀の肉付け、浅く柔らかなタッチで簡潔に刻まれた衣文など、随所に洗練された彫技が発揮されており、中央の有力仏師の手になる本格的な造像であったと推測される。
この日は前を通り過ぎただけだが、外山区には「報恩寺」というお寺もあり、定朝様(じょうちょうよう)の阿弥陀仏が祀られている。
外山区のHPによると、
本堂は寄棟造り。本瓦葺き。1間向拝付き。開基開創は不明である。本尊として木造阿弥陀如来像を安置する。平成21年3月、県文化財に指定され、平安後期作、高さ218.2cm(7尺6寸8分)上品上生、実に堂々たる尊像である。全軀に金箔をおしていたが、現在は殆ど剥落し、後生阿弥陀如来坐像その上に黒漆を塗り、後の金箔のあとも見える。両手、腰部に補修があり虫害や破損も甚大である。円光背は、後世に成る。この像についても、粟原(おおばら)流れの言い伝えがあることから、元は粟原寺(※)仏体であったと思われるが、いつ報恩寺に安置されたかは、不明である。
※粟原寺…中臣大嶋が天武天皇皇子草壁皇子の為に造立を発願。比売朝臣額田が後を継いで22年を費やし和銅8年(715)に竣工、金堂に丈六の釈迦を安置したとされる。国宝三重塔状鉢は、談山神社に在る。
そして、外山といえば柄鏡形(えかがみがた)の「茶臼山古墳」である。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると、
茶臼山古墳。大きすぎてとても写真に収まらない
茶臼山古墳(桜井市外山)
鳥見山の北西麓に延びる尾根を利用して築かれ、前方部を南に向けた大型前方後円墳。築造は四世紀ごろ。全長200m、後円部径110m、前方部幅60mで前方部先端が広がらない、いわゆる柄鏡形の前方後円墳の典型であることが特徴。また墳丘は後円部三段、前方部二段で斜面は葺石で覆うが埴輪はない。埋葬施設は後円部中央に古墳の主軸に沿って築かれた竪穴式石室で、その周囲を底部に円孔をあけた二重口縁壷が方形にめぐる。石室は全長6.8m、幅1.1m、高さ1.6mで石室壁面は扁平な安山岩を垂直に積み、朱で彩色されている。石室内部床面には板石が敷かれ、トガの巨木を使用した木棺が収められていた。
このように、数多くの史跡が外山区の狭い範囲内に集まっている。鳥見山の反対側には等彌(とみ)神社、見渡すと三輪山が目に飛び込んでくる。神武天皇伝説に彩られ、数々の古跡、古社のある桜井市外山、ぜひいちどお訪ねいただきたい。東田さん、ご案内ありがとうございました!