金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、師の発言部分をピックアップして、〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)
第12回は「山伏には力がある」。修験道では、出家した僧侶ではなく、在家のままで修行をする山伏たちが活動の中心である(在家主義)。普段は仕事をしている人たちなので、いろんな専門分野を持っていて、それが何か起こったときに大きな力になるのだそうだ。では師のFacebook(10/15付)から全文を抜粋する。
シリーズ『修験道という生き方』⑫「山伏には力がある」
山伏って力あるんですよ。山伏には僧侶ではなくて、普通の暮らしをしている人がはるかに多い。大工さんはいるし、鍼灸師はいるし、建具屋さんや、農家、学校の先生、保険屋さんなどなど、いろんな業種の人いる。いろいろな仕事の人がいるから、何かあったときにそのことがすごい力になる。
特殊な労働力も提供できるし、必要なものはだいたい揃えられる。同時にそれぞれの人がネットワークをもっているから、その人脈を利用して、さまざまな職業の人をさらに集めることができる。そういったこともたとえば大震災の復興支援の場面などで大きな力を発揮しました。
修験道は「雑行雑種」といういい方をされます。正統ではないという意味ですね。でも正統を求めれば異端が発生する。そこに正統を権威化しようとする権力もまた生まれてしまう。そういう構造を超えて、純粋さだけを求めつづけるのが修験道です。そして、修験はすべてを飲み込みながら山へと向かう道のなかにあるのだと私は思っています。
大事なのは、人が生きていく上で生みだされていく猥雑性を引き受けていく宗教でありつづけることです。純粋さを求めているのに、その猥雑性と寄り添う、猥雑性を享受できる信仰が山伏信仰であり、拝み屋さんや市井で活躍する行者たちを生みつづけてきた力なのです。
だから修験は出家した僧侶ではなく、在家のままで修行をする山伏たちを軸にした「在家主義」を大切にしている。開祖の役行者ご自身が正式な得度をしていない優婆塞だったわけで、修験道は役行者以来、一貫して優婆塞信仰・在家主義に重きを置いてきたのです。
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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』をお読みいただければと思います。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)
第12回は「山伏には力がある」。修験道では、出家した僧侶ではなく、在家のままで修行をする山伏たちが活動の中心である(在家主義)。普段は仕事をしている人たちなので、いろんな専門分野を持っていて、それが何か起こったときに大きな力になるのだそうだ。では師のFacebook(10/15付)から全文を抜粋する。
シリーズ『修験道という生き方』⑫「山伏には力がある」
山伏って力あるんですよ。山伏には僧侶ではなくて、普通の暮らしをしている人がはるかに多い。大工さんはいるし、鍼灸師はいるし、建具屋さんや、農家、学校の先生、保険屋さんなどなど、いろんな業種の人いる。いろいろな仕事の人がいるから、何かあったときにそのことがすごい力になる。
特殊な労働力も提供できるし、必要なものはだいたい揃えられる。同時にそれぞれの人がネットワークをもっているから、その人脈を利用して、さまざまな職業の人をさらに集めることができる。そういったこともたとえば大震災の復興支援の場面などで大きな力を発揮しました。
修験道は「雑行雑種」といういい方をされます。正統ではないという意味ですね。でも正統を求めれば異端が発生する。そこに正統を権威化しようとする権力もまた生まれてしまう。そういう構造を超えて、純粋さだけを求めつづけるのが修験道です。そして、修験はすべてを飲み込みながら山へと向かう道のなかにあるのだと私は思っています。
大事なのは、人が生きていく上で生みだされていく猥雑性を引き受けていく宗教でありつづけることです。純粋さを求めているのに、その猥雑性と寄り添う、猥雑性を享受できる信仰が山伏信仰であり、拝み屋さんや市井で活躍する行者たちを生みつづけてきた力なのです。
だから修験は出家した僧侶ではなく、在家のままで修行をする山伏たちを軸にした「在家主義」を大切にしている。開祖の役行者ご自身が正式な得度をしていない優婆塞だったわけで、修験道は役行者以来、一貫して優婆塞信仰・在家主義に重きを置いてきたのです。
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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』をお読みいただければと思います。
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