NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している(10月からは、掲載日は水曜日に変更)。先週(2024.9.19)に掲載されたのは、〈太子ゆかり「腰掛け石」も/飽波神社(安堵町)〉、執筆されたのは斑鳩町にお住まいの河添正雄さんだった。
※トップ写真は、飽波神社の鳥居と拝殿=安堵町東安堵で
飽波神社は太子道(筋違道)沿いにあり、聖徳太子が休憩したとされる「太子腰掛け石」も残る。毎年10月の「なもで踊り」(雨乞い祈願の結果、雨が降ればお礼として奉納される踊り)で知られている。なお「なもで」は、「南無阿弥陀仏」が訛(なま)った「ナムデー」なのだそうだ。では、以下に全文を紹介する。
これら2枚の写真は、なもで踊りのひとコマ(2014.10.25 撮影)
太子ゆかり「腰掛け石」も/飽波神社(安堵町)
飽波神社は安堵町の太子道(筋違道(すじかいみち))沿いに鎮座しており、江戸時代には牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれていました。太子道とは、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を愛馬・黒駒に乗って往還したと伝わる古道で奈良盆地を斜めに横切っています。
神社の近くには安堵町役場や安堵町歴史民俗資料館があり、また太子道沿いには聖徳太子の伝承が数多く残っています。飽波神社も太子が晩年に妃の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)と過ごしたと伝わる「飽波蘆垣宮(あくなみあしがきのみや)」跡候補地の一つとされています。
本殿は、檜皮葺(ひわだぶき)の一間社(正面の柱間が一つ)春日造で、県指定文化財となっています。また境内には太子が腰かけて黒駒とともに休息をとったと伝わる「太子腰掛け石」があります。
当神社では江戸時代ごろより、雨乞いの「なもで踊り」が奉納されていました。明治時代に途切れてしまいましたが、1995年に約100年ぶりに復活され、毎年10月の秋祭りの宵宮(今年は10月第4日曜日前日の26日)に奉納されています。踊りの衣装や絵馬など関係資料は県指定文化財です。
鳥居に掲げられた扁額(へんがく)「安久波社」の文字は、安堵町出身の近代陶芸家で人間国宝第1号の富本憲吉の筆によるものです。(奈良まほろばソムリエの会会員 河添正雄)
(住 所)安堵町東安堵1379
(祭 神)素戔嗚尊(すさのおのみこと)
(文化財)本殿となもで踊り道具は県指定文化財
(交 通)JR法隆寺駅から「かしの木台一丁目」か「住江織物」行バスで「東安堵」下車すぐ。駐車場無
※トップ写真は、飽波神社の鳥居と拝殿=安堵町東安堵で
飽波神社は太子道(筋違道)沿いにあり、聖徳太子が休憩したとされる「太子腰掛け石」も残る。毎年10月の「なもで踊り」(雨乞い祈願の結果、雨が降ればお礼として奉納される踊り)で知られている。なお「なもで」は、「南無阿弥陀仏」が訛(なま)った「ナムデー」なのだそうだ。では、以下に全文を紹介する。
これら2枚の写真は、なもで踊りのひとコマ(2014.10.25 撮影)
太子ゆかり「腰掛け石」も/飽波神社(安堵町)
飽波神社は安堵町の太子道(筋違道(すじかいみち))沿いに鎮座しており、江戸時代には牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれていました。太子道とは、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を愛馬・黒駒に乗って往還したと伝わる古道で奈良盆地を斜めに横切っています。
神社の近くには安堵町役場や安堵町歴史民俗資料館があり、また太子道沿いには聖徳太子の伝承が数多く残っています。飽波神社も太子が晩年に妃の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)と過ごしたと伝わる「飽波蘆垣宮(あくなみあしがきのみや)」跡候補地の一つとされています。
本殿は、檜皮葺(ひわだぶき)の一間社(正面の柱間が一つ)春日造で、県指定文化財となっています。また境内には太子が腰かけて黒駒とともに休息をとったと伝わる「太子腰掛け石」があります。
当神社では江戸時代ごろより、雨乞いの「なもで踊り」が奉納されていました。明治時代に途切れてしまいましたが、1995年に約100年ぶりに復活され、毎年10月の秋祭りの宵宮(今年は10月第4日曜日前日の26日)に奉納されています。踊りの衣装や絵馬など関係資料は県指定文化財です。
鳥居に掲げられた扁額(へんがく)「安久波社」の文字は、安堵町出身の近代陶芸家で人間国宝第1号の富本憲吉の筆によるものです。(奈良まほろばソムリエの会会員 河添正雄)
(住 所)安堵町東安堵1379
(祭 神)素戔嗚尊(すさのおのみこと)
(文化財)本殿となもで踊り道具は県指定文化財
(交 通)JR法隆寺駅から「かしの木台一丁目」か「住江織物」行バスで「東安堵」下車すぐ。駐車場無
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