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仏教理解のキーワードは、「空っぽ」(空)と「関係性」(縁起)だった!

2018年12月16日 | 日々是雑感
私の実家(和歌山県伊都郡九度山町)は高野山の麓にあり、町内の遍照寺(へんじょうじ=高野山真言宗のお寺)の檀家なので、自然な流れで私は仏教徒だ。「奈良まほろばソムリエ検定」が始まった平成18年(2006年)頃から、お寺や仏像に興味を持つようになり、次第に関連本を読むようになった。しかし「仏教そのもの」については正直、よく分からなかった。

これではいけないと、最近になって集中的に仏教の入門書を読みだした。前期高齢者(65歳)になったことや、老母が弱ってきたことも関係している。その過程で出会ったのが、白取春彦氏の『仏教「超」入門』(PHP文庫)と『完全版 仏教「超」入門』(ディスカヴァー携書)だった。先に完全版(2018年7月刊)を読み終えていたが、少しわかりにくいところがあったので、文庫版(2007年刊)を買い直して読んだ。

おかげさまで、目からウロコが落ちた。オーバーに言うと「小さな悟りを開いた」と言えるかもしれない。まさに「『縁起』を知り『空』を知る―これが悟りだ」(文庫版第2章タイトル)。これを独り占めにしておくのはもったいない。ここに書いて、読者の皆さんの参考に供することにしたい。まず「空(くう)」について。文庫版から引用すると、

 仏教「超」入門 (PHP文庫)
 白取春彦
 PHP研究所

『縁起』を知り『空』を知る―これが悟りだ
「空」とは、そこに見えているものには「実体がない」ということを意味している。ふつうは、実体があるからこそ、そこに物や人が存在していると考える。しかし仏教では、その存在はたんに現象に過ぎないのだとみる。だから、「空」とは、決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の「無」を意味すると同時に、現象の「有」を意味している言葉、となる。

実体がないのだから無だ、ということはできない。実体がないけれども現象はちゃんとここにある。わたしたちはその現象にかかわって生きている。生きていることも現象である。だから、この生(せい)は空である。


たとえば「空席」とか「空缶」というが、席も缶もある。しかし実体は「空」、つまり「空っぽ」なのである。またはテレビや映画のような「現象」と考えてもいい。実体はないが現象・映像はある。これを念頭に置いて、次に「縁起(えんぎ)」(関係性)を考える。完全版から引用すると、

 完全版 仏教「超」入門 (ディスカヴァー携書)
 白取春彦
 ディスカヴァー・トゥエンティワン

すべてのものが関係しあって 互いの存在を支えている
ここに40歳代後半のある男がいる。彼は妻にとっては夫であり、子から見れば父、そして、彼の親からすれば子である。彼はそういう関係性において、今の彼自身であるわけだ。会社に行けば彼は部長であり、経営者から見れば従業員であり、新橋の焼き鳥屋の店主から見れば、週に1回は顔を出してくれる客である。これは個人をたんに役割や待遇という面から見た比喩にすぎない。

しかし、こういった見方をもっと深くつきつめてみればどうなるか。すると、この世のあらゆるものが、関係性においてのみ、その存在が確かめられているということに気づかされる。あなた自身でさえ、多くの人々との関係、あなたの周囲にある、あらゆるものとの関係において、今のあなた自身でいることができる。最初から自分というものが存在しているのではない。多くの人と物と事柄との関係から、自分というものが今ここにこういうふうにありえている。

仏教をひと言でいえば、「縁起」を身にしみて知ること、これしかない。


このくだりを読んで、ずいぶん以前に読んだ西山厚さんの名著『仏教発見!』の一節を思い出した。引用すると、

 仏教発見! (講談社現代新書)
 西山厚
 講談社

何をさとったのか
さとりとは何か。お釈迦さまはどんなことをさとったのだろうか。これを語るのはとても難しい。いまださとっていない者に語れるはずはないが、私の考えるところでは、もっとも重要なのは「縁起」である。「縁起」という言葉はよく使われる。縁起がいいとか悪いとか。しかし、それは本来の意味ではない。

本来の意味は、文字通り、「縁によって起こる」ということである。あらゆるものは、原因に対する結果として存在している。原因がなければ結果はない。AがあるからBがある。AがなければBはない。これが縁起である。私の言葉で表現すれば、「どんなことにもわけがある」ということである。


「酒井徹の網絡日記」というサイトに、『仏教「超」入門』(PHP文庫)の内容が詳しく紹介されている。空と縁起については「その3」に出ている。順番に読むなら「その1」からお読みいただきたい。

私は65歳にして、やっと仏教の入り口に立てた、という思いである。「空」と「縁起」を念頭において、これから少しずつ、仏教書をひもといていくことにしたい。

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