予報が出ていたとはいえ、今夏の猛暑はまた格別である。暑さピークの真昼は、涼しくした部屋で本でも読むのが賢明だ。そこでお薦めしたいのが田中利典著『体を使って心をおさめる 修験道入門』 (集英社新書)である。利典師は、吉野山・金峯山寺の長臈(ちょうろう)だ。本書は以前、当ブログでも紹介させていただいた。たとえばこんなことが書かれている。
「山修行で気づくこと」
「なぜ人は山に登るのだろう?」「そこに山があるからだ!」と答えた高名な西洋の登山家がいますが、それでは答えになっていないですね。人が山に登るのは山に、あるいは登るという行為になにかがあるからです。
民俗学者は言います。「日本人は昔、山は祖霊が住まうところと見ていた。死んだ人間は山に登り、子孫を守る祖霊となると考えた」。これは昔の話なのでしょうか。私はちがうと思っています。現代でも日本人の自然に対する思いの根底には、山にはなにやら厳かな聖なるものがあると感じていると思います。
われわれ山伏は修行として山に入ります。そして山中では山を拝み、樹を拝み、岩を拝みながら修行します。山や樹や岩そのものに聖なるものを観るのです。山修行とは人間の存在を超えた聖なるものとの対峙なのです。
日本は明治以降急速に近代化・欧米化したことによって、数多くの物質文明社会の恩恵を享受しましたが、反面、高度に発達した物質文明による災いも随所にもたらされています。地球的な規模で進む自然環境破壊は人類存亡に関わる大きな問題です。東日本大震災に伴う原子力発電所事故による災禍も、完全収束まで気の遠くなるような時間がかかることでしょう。
四季の移ろいがはっきりしている日本にあって、自然からの恵みの豊さの中で育まれてきた、人間と聖なるものとの日本的な良き関係が壊されたことは、日本人にとってなによりも大きな痛手だと思います。
近代化は、霊山にハイウェイを開発し、鎮守の森を切り倒し、神仏と共に暮らしてきた日本人の、聖なるものへの尊厳心を著しく壊し続けて繁栄しました。福島原発周辺の山や川や海は、放射能汚染によって、人だけでなく、そこに住まう神々や祖霊の尊厳も損ないました。
そんな中、不便さの中に身をおき、自然の中にわけ入り、自分自身の身体を使って神仏との対峙を経験する山伏修行は、難しく言うなら、近代化以前に培われた日本人の原風景に回帰できる可能性を秘めています。
「里の行と山の行の循環」
さまざまな個人の悩み・願いに対応する山伏修験者。そのために厳しい山修行で培う行力・法力が必要になるのです。また、悩みを抱えた人、困った人にばかりに対応していると、自分自身の気も奪われ、力がなくなっていきます。ですから、自らが邪気をはらい、いっそうの法力を高めるためにも山修行が必要になるのです。
つまり、山伏の山修行とは、自分の力を高めるため、市井の人たちに応えるためのものなのです。自分の力を修行によって高めることはもちろん大事ですが、人とどうかかわっていくか、あるいは人に対応したがゆえの気の濁りのようなものを山修行でリセットすること。これが山伏修行の大きなテーマです。つねに山の修行と里の行を循環する。それが、山伏の活動の本質なのです。
「全国各地に吉野大峯、蔵王、金峯……」
たとえば、チャイナタウンというのは、世界各地にありますね。あるいは、ロサンゼルスにあるリトルトーキョーなども、その一画に日本の食文化や職場、娯楽施設などが再現された街です。適切なたとえであるかはわかりませんが、いわばそれらの聖地バージョンが、修験道の吉野・蔵王権現信仰といえると思います。吉野大峯修験の蔵王堂を本家本元として聖地を再現した修験道文化が日本全国に点在しています。
かつて人々のあこがれの聖地だった吉野大峯。そして修験道の霊山・金峯山。修験文化が定着した山地や連峰には、蔵王、大峯山、金峯(峰)山、吉野山などの名前が散見されます。また、もともとは金峯山のことを指していた「御嶽=みたけ・おんたけ」が、のちに各地の霊山の総称となっていき、さらに修験道の本尊である蔵王権現をまつる堂舎は、明治の神仏分離令のときに、御嶽神社、金峯(峰)神社、蔵王神社などと改称されました。
東京都青梅市にある武蔵御嶽神社も、権現信仰で栄えた歴史のある神社です。私も訪れましたが、地形的にも雰囲気が吉野山によく似ていると実感しました。武蔵野の地の吉野、そんな想いで霊山とされた歴史的背景を感じます。ほかにも第二章で紹介したように、「金峰山」にしても、秋田、および山梨と長野の境、山口、熊本と、全国にいくつもあるのをはじめ、修験道隆盛の時代の名残りが各地の地名に現れています。
本書の帯に「心の乱れがすーっと消える」「吉野・金峯山寺の修験者が伝える生き抜くための智慧」とあるが、これはどうも内容とミスマッチである。版元がつけたのだろうが、本書は田中利典師の「修験道論」「修験道のすすめ」であり、ハードカバーで出版されてもおかしくない内容の本である。
ともあれ、こんな深イイ内容の本が、わずか799円で買えるというのは有り難い。皆さん、緑陰の読書には『体を使って心をおさめる 修験道入門』をお薦めします!
「山修行で気づくこと」
「なぜ人は山に登るのだろう?」「そこに山があるからだ!」と答えた高名な西洋の登山家がいますが、それでは答えになっていないですね。人が山に登るのは山に、あるいは登るという行為になにかがあるからです。
民俗学者は言います。「日本人は昔、山は祖霊が住まうところと見ていた。死んだ人間は山に登り、子孫を守る祖霊となると考えた」。これは昔の話なのでしょうか。私はちがうと思っています。現代でも日本人の自然に対する思いの根底には、山にはなにやら厳かな聖なるものがあると感じていると思います。
われわれ山伏は修行として山に入ります。そして山中では山を拝み、樹を拝み、岩を拝みながら修行します。山や樹や岩そのものに聖なるものを観るのです。山修行とは人間の存在を超えた聖なるものとの対峙なのです。
日本は明治以降急速に近代化・欧米化したことによって、数多くの物質文明社会の恩恵を享受しましたが、反面、高度に発達した物質文明による災いも随所にもたらされています。地球的な規模で進む自然環境破壊は人類存亡に関わる大きな問題です。東日本大震災に伴う原子力発電所事故による災禍も、完全収束まで気の遠くなるような時間がかかることでしょう。
四季の移ろいがはっきりしている日本にあって、自然からの恵みの豊さの中で育まれてきた、人間と聖なるものとの日本的な良き関係が壊されたことは、日本人にとってなによりも大きな痛手だと思います。
近代化は、霊山にハイウェイを開発し、鎮守の森を切り倒し、神仏と共に暮らしてきた日本人の、聖なるものへの尊厳心を著しく壊し続けて繁栄しました。福島原発周辺の山や川や海は、放射能汚染によって、人だけでなく、そこに住まう神々や祖霊の尊厳も損ないました。
そんな中、不便さの中に身をおき、自然の中にわけ入り、自分自身の身体を使って神仏との対峙を経験する山伏修行は、難しく言うなら、近代化以前に培われた日本人の原風景に回帰できる可能性を秘めています。
体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書) | |
田中利典著 | |
集英社 |
「里の行と山の行の循環」
さまざまな個人の悩み・願いに対応する山伏修験者。そのために厳しい山修行で培う行力・法力が必要になるのです。また、悩みを抱えた人、困った人にばかりに対応していると、自分自身の気も奪われ、力がなくなっていきます。ですから、自らが邪気をはらい、いっそうの法力を高めるためにも山修行が必要になるのです。
つまり、山伏の山修行とは、自分の力を高めるため、市井の人たちに応えるためのものなのです。自分の力を修行によって高めることはもちろん大事ですが、人とどうかかわっていくか、あるいは人に対応したがゆえの気の濁りのようなものを山修行でリセットすること。これが山伏修行の大きなテーマです。つねに山の修行と里の行を循環する。それが、山伏の活動の本質なのです。
「全国各地に吉野大峯、蔵王、金峯……」
たとえば、チャイナタウンというのは、世界各地にありますね。あるいは、ロサンゼルスにあるリトルトーキョーなども、その一画に日本の食文化や職場、娯楽施設などが再現された街です。適切なたとえであるかはわかりませんが、いわばそれらの聖地バージョンが、修験道の吉野・蔵王権現信仰といえると思います。吉野大峯修験の蔵王堂を本家本元として聖地を再現した修験道文化が日本全国に点在しています。
かつて人々のあこがれの聖地だった吉野大峯。そして修験道の霊山・金峯山。修験文化が定着した山地や連峰には、蔵王、大峯山、金峯(峰)山、吉野山などの名前が散見されます。また、もともとは金峯山のことを指していた「御嶽=みたけ・おんたけ」が、のちに各地の霊山の総称となっていき、さらに修験道の本尊である蔵王権現をまつる堂舎は、明治の神仏分離令のときに、御嶽神社、金峯(峰)神社、蔵王神社などと改称されました。
東京都青梅市にある武蔵御嶽神社も、権現信仰で栄えた歴史のある神社です。私も訪れましたが、地形的にも雰囲気が吉野山によく似ていると実感しました。武蔵野の地の吉野、そんな想いで霊山とされた歴史的背景を感じます。ほかにも第二章で紹介したように、「金峰山」にしても、秋田、および山梨と長野の境、山口、熊本と、全国にいくつもあるのをはじめ、修験道隆盛の時代の名残りが各地の地名に現れています。
本書の帯に「心の乱れがすーっと消える」「吉野・金峯山寺の修験者が伝える生き抜くための智慧」とあるが、これはどうも内容とミスマッチである。版元がつけたのだろうが、本書は田中利典師の「修験道論」「修験道のすすめ」であり、ハードカバーで出版されてもおかしくない内容の本である。
ともあれ、こんな深イイ内容の本が、わずか799円で買えるというのは有り難い。皆さん、緑陰の読書には『体を使って心をおさめる 修験道入門』をお薦めします!