tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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ニホンオオカミの咆哮に耳すませ(産経新聞「なら再発見」第9回)

2012年12月01日 | なら再発見(産経新聞)
好評連載中の「なら再発見」(産経新聞奈良版)、第9回の今日(12/1)は《東吉野村 ニホンオオカミの咆哮に耳すませ》である。筆者は大阪市にお住まいの藤村清彦さん。藤村さんは、奈良の観光情報サイト「今奈良.jp」の名物コラム「豆知識」でも興味深い情報を発信されている。以下、「なら再発見」の内容を紹介する。
※トップ写真は東吉野村四郷川周辺(藤村さんの撮影。新聞には掲載されていない)

 秀麗な山々の麓(ふもと)で、美しい川の流れに沿って集落が広がる東吉野村。同村小川の県道吉野東吉野線北側に実物大のニホンオオカミのブロンズ像がある。昭和62年制作で、当時、奈良教育大学教授だった故・久保田忠和氏が手掛けた。
 標本や骨を参考にして作られ、紀伊半島東部の台高(だいこう)山脈に咆哮(ほうこう)したかつての勇姿がしのばれる。
 同村は人とオオカミが最も長く共に暮らしてきた里で、地元では特別の思いがあるのだろう。
 明治38年、同村鷲家(わしか)で若いオスが英国の東亜動物学探検隊の一員に引き渡されたのを最後に、ニホンオオカミは絶滅したとされる。


咆哮する顔つきが精悍なニホンオオカミの像=東吉野村小川
      *   *   *
 ニホンオオカミは人懐っこく、害獣を駆除する益獣として人間と共存してきたが、猟銃の普及や病気などで姿を消した。絶滅から100年以上経つが、伝承は、今も語り伝えられる。
 同村出身で80歳に近い前防道徳さんは子供の頃、祖父からこんな話を聞かされた。
 「わしの爺さんの代に、オオカミを生け捕りしたが、毎晩オリの前につれあいが来てキャンキャン鳴くのがうるそうて、山に逃がしたそうや」。オオカミは里の人々にとって身近な存在だった。
 絶滅した今、何が起こったか。生態系のバランスが変化し、イノシシなどの害獣による農作物の被害が急増したとされる。
 かつてこの地に住んだ俳人、原石鼎(はらせきてい)は、大正2年、「淋しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守(かびやもり)」という句を詠んでいる。
 鹿火屋守は、山畑の小屋で火をたき、一晩中、時々ドラを鳴らして害獣を遠ざける役割を担った。
 夜のしじまを破って山々にこだまするドラの音は、まさにオオカミの遠吠えそのものだ。野村のニホンオオカミ像は、自然と人間の暮らしのあり方を見つめ直させてくれる。
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 像が置かれた高見川北岸からは、中世から安土桃山時代までこの地を治めた小川氏の山城の跡が残る峰が望める。
 像の近くには、緑色変成岩に「狼は亡び木霊(こだま)ハ存(ながら)ふる 三村純也」と刻まれた句碑がある。「天皇陛下行幸跡 昭和二十六年十一月十八日」と刻まれた記念碑も建てられている。
 これは当時、旧小川村の植林状況を視察された昭和天皇ご巡幸を記念する碑だ。幕末に決起した天誅組(てんちゅうぐみ)を祀る墓所(ぼしょ)もある。
 清らかな山河に育まれ、質朴な暮らしが営まれている美しい山里。ここは滅びゆくものにやさしい土地といえるだろう、。(奈良まほろばソムリエ友の会 藤村清彦)


ニホンオオカミと村人は、共存していたのである。過度に危険視されて絶滅し、イノシシや鹿が増え、農作物被害が増えた。生態系バランスを保つことは大切なことなのだ。藤村さん、良い記事を有難うございました!

コメント (2)
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