次に訪ねたのは「長柄(ながら)神社」(御所市名柄)である。ボランティアガイドの会・前会長の澤房之介さんが、名柄の町と神社について説明して下さった。「郷愁小路」というHPに、写真入りで紹介されているのでご覧いただきたい。同HPには《御所市には、市街地だけではなく郊外にも伝統的な町家の多く見られる場所がある。この名柄集落は歴史的にはむしろ現在の御所市街より歴史が古いとも言え、地名は古代大和期より見られる》。
《金剛山に登る人のための宿場として栄えていたとされ、また地名表記も当初は長江であったものが読みの同じ柄の文字が当てられ、さらに名の文字があてがわれたと推測される。町の中央にある神社は長柄神社と表記される》。澤さんによると、「長柄」と表記すると天理市の長柄町と混同されるので、今は「名柄」になったとか。
大庄屋を務めていた末吉家住宅。母屋は江戸中期の建物で、庭の欅と楠は樹齢800年
《盆地の中心部とは随分趣が違う。そして漸く車の離合が可能なほどの細道に沿い、伝統的な町家建築が随所に残り、古い町並を形成していた。この南北の街路は旧高野街道で、長柄神社付近で交わる東西の道は水越峠を越えて南河内へとつながる道であった》。
大坂に至る水越街道(水越峠越え)
Wikipedia「水越峠(みずこしとうげ)」によると《奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村の境にある峠。道幅は狭いが、かつては南河内地域と葛城・吉野方面を結ぶ幹線道路としてそこそこ交通量があった。1997年5月に水越トンネルが開通したことにより峠の交通量は激減した。現在は国道309号線旧道が通る。大和葛城山と金剛山の間の峠であり、これらの登山口でもある》。元禄年間には、深刻な水争いが河内と大和の間で起こったという(水越川上部の水利権は、古くから大和に属したそうだが)。
長柄神社は、御所市のHPによると《名柄街道と水越街道の交差点に位置しています。祭神は下照姫で、俗に姫の宮と称し「延喜式」神名帳に記されています。日本書紀には天武天皇が天武9年9月9日の条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より「以下の馬を名柄杜に看す」と記され、流鏑馬(やぶさめ)をご覧になった事が記されている、由緒ある神社です》。
本殿の庇(ひさし)に、泥絵の具で龍が描かれているというので、見せていただいた。大胆なデフォルメで、ユーモラスな絵だ。いわゆる「八方睨みの龍」で、どの方角から見ても、龍に睨まれているように感じる。
澤さんは「吐田郷(はんだごう)地区の文化を守る会」副会長兼事務局長を務めておられる。会の活動が、読売新聞奈良版「地図から消えた御所・吐田郷」という記事に紹介された。《葛城古道が通り、古くは宿場町として栄えた。町並みがその歴史を今に伝える。九つの集落からなるその地名は、しかし、地図を探しても見つからない。森林組合の名称などにわずかに残るだけだ。一九五六年、葛城村との合併で葛上村となるまでは南葛城郡吐田郷村だった。二年後、御所市に編入され、名前が消えた。もう半世紀。住む人たちの意識から消えつつあった》。
《「吐田郷」という三文字を何とか残せないか。そんな思いで四年前に生まれたのが、「吐田郷の文化を守る会」だ。仕掛けたのは、郷土史家でもある食料品店経営の木村教隆会長(70)や、その一級違いで大手百貨店マンだった澤房之介事務局長(70)ら約二十人。集落は違っても、横のつながりを作ろうと定期的に飲食を共にしたのがきっかけだ。びっくりするほど共通の話題で盛り上がる。高齢過疎化が進む土地だが、自分たちの古里、吐田郷の歴史、文化の豊かさに気づくようになった》。
《「昔は旅館は三軒あったし映画館、芝居小屋まであったのう。それはにぎやかやった」「江戸時代に水越峠で今の大阪側とで水争いがあり長い争いの末、勝った」「山からわき出る清水と砂質壌土がうまい米をはぐくんでくれる」――。澤さんは言う。「単に名前を残すということやないんです。歴史や風俗、暮らしを再確認して、新たな吐田郷の街づくりにつなげたいのです」》。
私自身、「吐田米(はんだまい)」というお米のブランドとして、かろうじて「吐田」という地名を知っていた程度である。『奈良の地名由来辞典』東京堂出版刊には《水越峠扇状地帯を「吐田八郷」「吐田八カ村」「水郷八カ村」(関屋・増・名柄・豊田・多田・宮戸・森脇・寺田村)ともいった》とある。吐田は墾(はり)田で、開墾地の意である。澤さんのご実家は、ここで映画館を経営されていた。ご実家のお向かいが本池口家(江戸中期の建物で、堺屋太一の実家)である。
境内でお弁当をいただきながら、澤さんのお話を拝聴
読売新聞の引用を続ける。《特別なものではない生活に根ざした身近な文化の伝承、記録に力を入れている。調べたことは「吐田郷の事をもっと知ろう」というA4判二十ページ弱の小冊子に丹念に記録。伝統行事や昔の遊びなどで、もう十三冊になった》。
《昨年十月、木村会長と澤さんが、葛上中学校に出向き、「我が街発見・葛城の道を行く」と題して授業した。昭和初期、ここには六十七軒も商店が集中、近隣では最も栄えていた地域だったことを会が復元した地図で説明したり、葛城古道を一緒に歩いたり》《一度は消えかかった「古里」。発掘する作業はしんどい。しかし、楽しい。会員たちはそう感じている》。
澤さんが説明されている間、私たちは「行者弁当」(吉田屋・吉田芳寛さん謹製)をいただいた。毎年11月の霜月祭(そうげつさい)で人気のお弁当を、わざわざ特別に作っていただいた。地元飼育の合鴨や、地場の大和芋(やまといも)、ナスなどが入っている。ご飯は黒米、赤米、粟、キビなどをブレンドした「行者米」だ。出来たてほやほやを配達していただいたもので、素朴でとても美味しい弁当だった。参加者にも、好評だった。
昼食後は、「秋津洲の道コース」の西半分を歩く。まずは、当日のハイライト、「室宮山古墳」(御所市室)へ。大きさでは全国で18位、奈良県下で9位(天皇陵や陵墓参考地を除くと2位)という巨大古墳である。奈良検定のテキストによると《室大墓古墳、室宮山古墳とも呼ばれる。全長238㍍の規模をもつ葛城地方最大の前方後円墳。後円部には二つの竪穴式石室があり、そのうちの一つ(南石室)は中央に長持形石棺が安置されており、石室の内外から多数の副葬品が出土した。長持形石棺は竜山石製で、蓋石の表面に凸帯を削りだし、亀甲状に仕上げる。また、縄掛突起を計6ヶ所造り付けている。石室周囲には埴輪による方形の区画があり、盾形・靱形などの器財形埴輪と家形埴輪が配置されていた。また、石室の上面にも大型の家形埴輪や高杯形埴輪などが配置されていたと推定される》。
《中世に武内宿禰の墓としての伝承があったほか、葛城襲津彦の墓であるという説もある。五世紀初めの代表的古墳である》。杉村さんのご自宅は、室宮山古墳のある御所市室(むろ)にある。杉村さんが「この古墳があることを誇りに思う」とおっしゃったのが、印象的だった。
古墳の麓には、八幡神社がある。境内には第6代孝安天皇(日本足彦国押人尊)秋津嶋宮(あきつしまのみや)跡の石碑が建つ。宮跡はこの辺りだったようだ。
室宮山古墳では、「長持形石棺」の実物が拝める。参加者の何人かがチャレンジしたが、懐中電灯で照らしても、暗くてよく見えないという。私は同僚のSくんの助けを借り、穴の中に降り立った。
大人1人がやっと入れる隙間に立ち、穴から石棺にカメラを突っ込み、感度をISO3200に上げてストロボを強制発光させた。すると、撮影大成功! 杉村さんによれば「内面に朱が塗られている」とのことだったが、うっすらとした朱色が残っているのが、ご覧いただけるだろう。
石棺や天井石に使われている竜山石は《兵庫県高砂市伊保町竜山に産する石材名。淡緑色あるいは淡黄褐色の流紋岩質凝灰岩。耐火性に富み、風化しにくい》(大辞林)という岩石であり、壁石の結晶片岩は紀の川の岩石である。遠いところからこれほどの巨石を、「修羅」(重いものを運ぶソリ)を使って運び、巨大な古墳を築いたということは、よほど力のある豪族しかできない仕業である。だから杉村さんは、この古墳は葛城襲津彦の墓だろうと推測される。
室宮山古墳の後円部上に立てられていたという靭(ゆぎ)埴輪(復原)。高さ147cm、最大幅99.5cm
葛城襲津彦(武内宿禰の子)を始祖とする葛城氏は、第16代仁徳天皇から第24代仁賢天皇まで、皇室と密接な関係にあった。直木孝次郎著『奈良』によると《葛城襲津彦のむすめの磐之媛が仁徳天皇の皇后となったことはさきに述べたが、そのあいだに生まれた息子たちがつぎつぎに皇位につき、履中・反正・允恭(いんぎょう)の諸天皇となる》。
《また襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)のむすめ黒媛は履中の皇后に立ち、市辺押磐(いちべのおしいわ)皇子や飯豊(いいとよ)皇女を生み、市辺押磐皇子は葦田宿禰の孫むすめ荑媛(はえひめ)をめとって、顕宗・仁賢天皇を生む。允恭の皇子である雄略天皇も、葛城円大臣(つぶらのおおきみ)のむすめ韓媛(からひめ)を妃とし、清寧天皇を生んでいる葛城野伊呂売(かずらきのいろめ)が応神天皇の后となったという伝えもある》。
《そのころの朝廷は―大和にあったか河内にあったか、明らかでないが―天皇家と葛城氏の協力関係によって維持されていたといっても、言いすぎではあるまい。河内・和泉の平野で、応神・仁徳・履中など諸天皇の巨大な墓が築造されていたころ、葛城でも新木山・巣山・宮山・築山などの大古墳が営まれていたわけだが、天皇家が河内の平野に威を張ることができたのも、後背地である大和盆地の西南部を葛城氏が固めていたからであろう》。
室宮山古墳のすぐ近くにあるネコ塚古墳
杉村さんのお話の中に、「飛鳥に宮都が置かれていたのは100年、平城京は80年。しかし御所は千年もの間、朝廷と密接に関係していた」というくだりがあった。葛城の鴨族の王の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后とした初代天皇・神武天皇が即位したのが紀元前660年、葛城族の荑媛(はえひめ)が生んだ第24代仁賢天皇が即位したのは488年だから、1100年ほどの時が流れている。確かに、これはスゴいことである。
室宮山古墳から野口神社に向かう道から、国見山(くにみやま)が見渡せた。神武天皇31年4月1日の掖上(わきがみ)巡幸の際、登って国見をし「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど、蜻蛉(あきつ=トンボ)がトナメ(交尾)をしているように、山々が連なり囲んでいる国だ」と言ったという山である。
国見山(標高229.4m)
杉村さんから、興味深い話を伺った。今は御所市に限らず、日本全国どこでも、森では樹木が育ち、地表には落ち葉が一杯、下草も伸び放題。荒れ地には雑草が生い茂っている。しかしつい100年前には、こんな景色ではなかった。森は杉やヒノキの人工林ではなく広葉樹の里山で、人々はそこに、燃料にする落ち葉や枯れ枝を拾いに行った。森の下草や田んぼのあぜ道の雑草まで刈り取り、一部は家畜のエサに、残りは乾かしてワラや牛糞・馬糞と混ぜ、有機肥料にした。
だから山も野原も、広葉樹と丈の短い雑草が生えているだけだった。「人々の生活が石油や電力や化学肥料に頼るようになって、日本の景観がガラリと変わってしまった」。確かに、その通りだ。現代日本人の心がささくれ立っているのは、古き良き時代の風景が失われたということと、関係があるのかも知れない…。
さて、御所市蛇穴(さらぎ)の「野口神社」に着いた。蛇穴と書いて「さらぎ」とは、県下でも有数の難読地名である。『奈良の地名由来辞典』によると《蛇が円くなり穴を作ることをサラキといい、土器をサラキというのも、土器は蛇が円くなるような過程をへて製作されるからであろう》。
野口神社は奇祭「汁かけ祭り」で有名だ。田中眞人さんによると《御所市蛇穴の野口神社で行われる汁かけ祭り・蛇綱(じゃづな)引きは野神さん行事のひとつで、上代祭事の形式を残しています。頭部は前日に作り、祭事当日の早朝に頭屋宅で祀り、祝い唄の伊勢音頭を唄い、太鼓を先頭に桶に祭られた龍のご神体と共に神社へ奉納されます。その後、胴体を藁綱で繋ぎ結っていき蛇体は長さ14mほどになります。昼頃に祈年祭が行われた後、神官によりワカメが入った大がまの味噌汁をかける作法が行われます》。
これが蛇綱。長さは14m
《役行者に恋した娘が蛇身に化けて後を追い、村人達は驚き、汁をかけて蛇を退治したという故事になぞらえたものです。ワカメ汁やおにぎり等のふるまい接待があり、里人や観光客たちは美味しくいただきました。花火を合図に蛇引きが始まり、地区の各戸を引き回し、邪気払い病除を祈願していきます》。5月の汁かけ祭りの様子が、うまい具合にYouYubeにアップされていたので、ご覧いただきたい。
野口神社・汁かけ祭
さて、おしまいは「鴨都波神社(かもつばじんじゃ)」である。山腹の鴨山口神社に対して、下鴨社と呼ばれていることは、先に記したとおりである。奈良検定テキストによると《本社付近一帯は鴨都波遺跡と呼称され、当社はその遺跡の上に鎮座している。境内地を中心に弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住居跡も発掘されており、弥生時代の中期初め、鴨の一族が水稲農耕を営み神社付近に住みついた事を表している》。
鴨都波神社本殿
《当社の主祭神は『古事記』に、鴨都味波八重事代主神と記されており、「代主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端、すなわち鴨の水辺の意、「八重事」はしばしばの折り目という形容で、つまり「鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神」という神名である》。
鴨都波神社境内で。トップ写真とも
《金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流するこの地が、灌漑に最も適した地として、田の神を鎮め祀ったのに始まる。事代主神を奉斎してこの地を領地としていた鴨王の娘が、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となった由縁から、祭神は皇室の守護神とされ、宮中八神の一つとして崇拝されてきた》。
鴨都波神社の夏祭り
鴨都波神社を出て、再びJR御所駅へ。ここで一旦閉会式である。最高気温が30℃という暑さの中、皆さんよく歩いて下さった。ここで9人のメンバーは直帰、残る25人とガイドさん3人は、懇親会(打ち上げ)の場所に向かった。
懇親会は、柿の葉ずしヤマト御所店「大和鮨 夢宗庵(むそうあん)」。2階の大きな部屋で、約90分の食事会。さすがに、ビールがうまい。杉村さんからは、「ぜひまた御所に来て下さい。今度は最後に『かもきみの湯』に入り、『食事処 かもきみ』で打ち上げをしましょう」という魅力的なご提案もいただいた。なお「かもきみ」は鴨君で、当地の古代豪族・鴨族のことである。
確かに、御所にはまだまだ見どころがある。極楽寺、高天彦神社、船宿寺、葛城の道歴史文化館、高鴨神社、條ウル神古墳、日本武尊白鳥陵、吉祥草寺…。
それにしても、杉村さんの深い見識と広い知識には、舌を巻く。地元民ならではの行き届いたご説明・ご案内は、観光ガイドのお手本である。九品寺の千体石仏、長柄神社本殿の庇の絵、宮山古墳の石室、野口神社の蛇綱など、珍しいものをお見せいただいた。古代豪族、鴨族や葛城氏のことなども、再認識できた。
御所市観光ガイドの会の皆様、有り難うございました。ぜひ、再び御所をお訪ねしたいと思います。的確なアドバイスをいただいた奈良県・ならの魅力創造課の皆さん、お世話をおかけいたしました。ご参加いただいた皆さん、暑い中、頑張っていただきました。次回は春の開催です。ぜひお楽しみに!
《金剛山に登る人のための宿場として栄えていたとされ、また地名表記も当初は長江であったものが読みの同じ柄の文字が当てられ、さらに名の文字があてがわれたと推測される。町の中央にある神社は長柄神社と表記される》。澤さんによると、「長柄」と表記すると天理市の長柄町と混同されるので、今は「名柄」になったとか。
大庄屋を務めていた末吉家住宅。母屋は江戸中期の建物で、庭の欅と楠は樹齢800年
《盆地の中心部とは随分趣が違う。そして漸く車の離合が可能なほどの細道に沿い、伝統的な町家建築が随所に残り、古い町並を形成していた。この南北の街路は旧高野街道で、長柄神社付近で交わる東西の道は水越峠を越えて南河内へとつながる道であった》。
大坂に至る水越街道(水越峠越え)
Wikipedia「水越峠(みずこしとうげ)」によると《奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村の境にある峠。道幅は狭いが、かつては南河内地域と葛城・吉野方面を結ぶ幹線道路としてそこそこ交通量があった。1997年5月に水越トンネルが開通したことにより峠の交通量は激減した。現在は国道309号線旧道が通る。大和葛城山と金剛山の間の峠であり、これらの登山口でもある》。元禄年間には、深刻な水争いが河内と大和の間で起こったという(水越川上部の水利権は、古くから大和に属したそうだが)。
長柄神社は、御所市のHPによると《名柄街道と水越街道の交差点に位置しています。祭神は下照姫で、俗に姫の宮と称し「延喜式」神名帳に記されています。日本書紀には天武天皇が天武9年9月9日の条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より「以下の馬を名柄杜に看す」と記され、流鏑馬(やぶさめ)をご覧になった事が記されている、由緒ある神社です》。
本殿の庇(ひさし)に、泥絵の具で龍が描かれているというので、見せていただいた。大胆なデフォルメで、ユーモラスな絵だ。いわゆる「八方睨みの龍」で、どの方角から見ても、龍に睨まれているように感じる。
澤さんは「吐田郷(はんだごう)地区の文化を守る会」副会長兼事務局長を務めておられる。会の活動が、読売新聞奈良版「地図から消えた御所・吐田郷」という記事に紹介された。《葛城古道が通り、古くは宿場町として栄えた。町並みがその歴史を今に伝える。九つの集落からなるその地名は、しかし、地図を探しても見つからない。森林組合の名称などにわずかに残るだけだ。一九五六年、葛城村との合併で葛上村となるまでは南葛城郡吐田郷村だった。二年後、御所市に編入され、名前が消えた。もう半世紀。住む人たちの意識から消えつつあった》。
《「吐田郷」という三文字を何とか残せないか。そんな思いで四年前に生まれたのが、「吐田郷の文化を守る会」だ。仕掛けたのは、郷土史家でもある食料品店経営の木村教隆会長(70)や、その一級違いで大手百貨店マンだった澤房之介事務局長(70)ら約二十人。集落は違っても、横のつながりを作ろうと定期的に飲食を共にしたのがきっかけだ。びっくりするほど共通の話題で盛り上がる。高齢過疎化が進む土地だが、自分たちの古里、吐田郷の歴史、文化の豊かさに気づくようになった》。
《「昔は旅館は三軒あったし映画館、芝居小屋まであったのう。それはにぎやかやった」「江戸時代に水越峠で今の大阪側とで水争いがあり長い争いの末、勝った」「山からわき出る清水と砂質壌土がうまい米をはぐくんでくれる」――。澤さんは言う。「単に名前を残すということやないんです。歴史や風俗、暮らしを再確認して、新たな吐田郷の街づくりにつなげたいのです」》。
私自身、「吐田米(はんだまい)」というお米のブランドとして、かろうじて「吐田」という地名を知っていた程度である。『奈良の地名由来辞典』東京堂出版刊には《水越峠扇状地帯を「吐田八郷」「吐田八カ村」「水郷八カ村」(関屋・増・名柄・豊田・多田・宮戸・森脇・寺田村)ともいった》とある。吐田は墾(はり)田で、開墾地の意である。澤さんのご実家は、ここで映画館を経営されていた。ご実家のお向かいが本池口家(江戸中期の建物で、堺屋太一の実家)である。
境内でお弁当をいただきながら、澤さんのお話を拝聴
読売新聞の引用を続ける。《特別なものではない生活に根ざした身近な文化の伝承、記録に力を入れている。調べたことは「吐田郷の事をもっと知ろう」というA4判二十ページ弱の小冊子に丹念に記録。伝統行事や昔の遊びなどで、もう十三冊になった》。
《昨年十月、木村会長と澤さんが、葛上中学校に出向き、「我が街発見・葛城の道を行く」と題して授業した。昭和初期、ここには六十七軒も商店が集中、近隣では最も栄えていた地域だったことを会が復元した地図で説明したり、葛城古道を一緒に歩いたり》《一度は消えかかった「古里」。発掘する作業はしんどい。しかし、楽しい。会員たちはそう感じている》。
澤さんが説明されている間、私たちは「行者弁当」(吉田屋・吉田芳寛さん謹製)をいただいた。毎年11月の霜月祭(そうげつさい)で人気のお弁当を、わざわざ特別に作っていただいた。地元飼育の合鴨や、地場の大和芋(やまといも)、ナスなどが入っている。ご飯は黒米、赤米、粟、キビなどをブレンドした「行者米」だ。出来たてほやほやを配達していただいたもので、素朴でとても美味しい弁当だった。参加者にも、好評だった。
昼食後は、「秋津洲の道コース」の西半分を歩く。まずは、当日のハイライト、「室宮山古墳」(御所市室)へ。大きさでは全国で18位、奈良県下で9位(天皇陵や陵墓参考地を除くと2位)という巨大古墳である。奈良検定のテキストによると《室大墓古墳、室宮山古墳とも呼ばれる。全長238㍍の規模をもつ葛城地方最大の前方後円墳。後円部には二つの竪穴式石室があり、そのうちの一つ(南石室)は中央に長持形石棺が安置されており、石室の内外から多数の副葬品が出土した。長持形石棺は竜山石製で、蓋石の表面に凸帯を削りだし、亀甲状に仕上げる。また、縄掛突起を計6ヶ所造り付けている。石室周囲には埴輪による方形の区画があり、盾形・靱形などの器財形埴輪と家形埴輪が配置されていた。また、石室の上面にも大型の家形埴輪や高杯形埴輪などが配置されていたと推定される》。
《中世に武内宿禰の墓としての伝承があったほか、葛城襲津彦の墓であるという説もある。五世紀初めの代表的古墳である》。杉村さんのご自宅は、室宮山古墳のある御所市室(むろ)にある。杉村さんが「この古墳があることを誇りに思う」とおっしゃったのが、印象的だった。
古墳の麓には、八幡神社がある。境内には第6代孝安天皇(日本足彦国押人尊)秋津嶋宮(あきつしまのみや)跡の石碑が建つ。宮跡はこの辺りだったようだ。
室宮山古墳では、「長持形石棺」の実物が拝める。参加者の何人かがチャレンジしたが、懐中電灯で照らしても、暗くてよく見えないという。私は同僚のSくんの助けを借り、穴の中に降り立った。
大人1人がやっと入れる隙間に立ち、穴から石棺にカメラを突っ込み、感度をISO3200に上げてストロボを強制発光させた。すると、撮影大成功! 杉村さんによれば「内面に朱が塗られている」とのことだったが、うっすらとした朱色が残っているのが、ご覧いただけるだろう。
石棺や天井石に使われている竜山石は《兵庫県高砂市伊保町竜山に産する石材名。淡緑色あるいは淡黄褐色の流紋岩質凝灰岩。耐火性に富み、風化しにくい》(大辞林)という岩石であり、壁石の結晶片岩は紀の川の岩石である。遠いところからこれほどの巨石を、「修羅」(重いものを運ぶソリ)を使って運び、巨大な古墳を築いたということは、よほど力のある豪族しかできない仕業である。だから杉村さんは、この古墳は葛城襲津彦の墓だろうと推測される。
室宮山古墳の後円部上に立てられていたという靭(ゆぎ)埴輪(復原)。高さ147cm、最大幅99.5cm
葛城襲津彦(武内宿禰の子)を始祖とする葛城氏は、第16代仁徳天皇から第24代仁賢天皇まで、皇室と密接な関係にあった。直木孝次郎著『奈良』によると《葛城襲津彦のむすめの磐之媛が仁徳天皇の皇后となったことはさきに述べたが、そのあいだに生まれた息子たちがつぎつぎに皇位につき、履中・反正・允恭(いんぎょう)の諸天皇となる》。
《また襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)のむすめ黒媛は履中の皇后に立ち、市辺押磐(いちべのおしいわ)皇子や飯豊(いいとよ)皇女を生み、市辺押磐皇子は葦田宿禰の孫むすめ荑媛(はえひめ)をめとって、顕宗・仁賢天皇を生む。允恭の皇子である雄略天皇も、葛城円大臣(つぶらのおおきみ)のむすめ韓媛(からひめ)を妃とし、清寧天皇を生んでいる葛城野伊呂売(かずらきのいろめ)が応神天皇の后となったという伝えもある》。
《そのころの朝廷は―大和にあったか河内にあったか、明らかでないが―天皇家と葛城氏の協力関係によって維持されていたといっても、言いすぎではあるまい。河内・和泉の平野で、応神・仁徳・履中など諸天皇の巨大な墓が築造されていたころ、葛城でも新木山・巣山・宮山・築山などの大古墳が営まれていたわけだが、天皇家が河内の平野に威を張ることができたのも、後背地である大和盆地の西南部を葛城氏が固めていたからであろう》。
室宮山古墳のすぐ近くにあるネコ塚古墳
杉村さんのお話の中に、「飛鳥に宮都が置かれていたのは100年、平城京は80年。しかし御所は千年もの間、朝廷と密接に関係していた」というくだりがあった。葛城の鴨族の王の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后とした初代天皇・神武天皇が即位したのが紀元前660年、葛城族の荑媛(はえひめ)が生んだ第24代仁賢天皇が即位したのは488年だから、1100年ほどの時が流れている。確かに、これはスゴいことである。
室宮山古墳から野口神社に向かう道から、国見山(くにみやま)が見渡せた。神武天皇31年4月1日の掖上(わきがみ)巡幸の際、登って国見をし「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど、蜻蛉(あきつ=トンボ)がトナメ(交尾)をしているように、山々が連なり囲んでいる国だ」と言ったという山である。
国見山(標高229.4m)
杉村さんから、興味深い話を伺った。今は御所市に限らず、日本全国どこでも、森では樹木が育ち、地表には落ち葉が一杯、下草も伸び放題。荒れ地には雑草が生い茂っている。しかしつい100年前には、こんな景色ではなかった。森は杉やヒノキの人工林ではなく広葉樹の里山で、人々はそこに、燃料にする落ち葉や枯れ枝を拾いに行った。森の下草や田んぼのあぜ道の雑草まで刈り取り、一部は家畜のエサに、残りは乾かしてワラや牛糞・馬糞と混ぜ、有機肥料にした。
だから山も野原も、広葉樹と丈の短い雑草が生えているだけだった。「人々の生活が石油や電力や化学肥料に頼るようになって、日本の景観がガラリと変わってしまった」。確かに、その通りだ。現代日本人の心がささくれ立っているのは、古き良き時代の風景が失われたということと、関係があるのかも知れない…。
さて、御所市蛇穴(さらぎ)の「野口神社」に着いた。蛇穴と書いて「さらぎ」とは、県下でも有数の難読地名である。『奈良の地名由来辞典』によると《蛇が円くなり穴を作ることをサラキといい、土器をサラキというのも、土器は蛇が円くなるような過程をへて製作されるからであろう》。
野口神社は奇祭「汁かけ祭り」で有名だ。田中眞人さんによると《御所市蛇穴の野口神社で行われる汁かけ祭り・蛇綱(じゃづな)引きは野神さん行事のひとつで、上代祭事の形式を残しています。頭部は前日に作り、祭事当日の早朝に頭屋宅で祀り、祝い唄の伊勢音頭を唄い、太鼓を先頭に桶に祭られた龍のご神体と共に神社へ奉納されます。その後、胴体を藁綱で繋ぎ結っていき蛇体は長さ14mほどになります。昼頃に祈年祭が行われた後、神官によりワカメが入った大がまの味噌汁をかける作法が行われます》。
これが蛇綱。長さは14m
《役行者に恋した娘が蛇身に化けて後を追い、村人達は驚き、汁をかけて蛇を退治したという故事になぞらえたものです。ワカメ汁やおにぎり等のふるまい接待があり、里人や観光客たちは美味しくいただきました。花火を合図に蛇引きが始まり、地区の各戸を引き回し、邪気払い病除を祈願していきます》。5月の汁かけ祭りの様子が、うまい具合にYouYubeにアップされていたので、ご覧いただきたい。
野口神社・汁かけ祭
さて、おしまいは「鴨都波神社(かもつばじんじゃ)」である。山腹の鴨山口神社に対して、下鴨社と呼ばれていることは、先に記したとおりである。奈良検定テキストによると《本社付近一帯は鴨都波遺跡と呼称され、当社はその遺跡の上に鎮座している。境内地を中心に弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住居跡も発掘されており、弥生時代の中期初め、鴨の一族が水稲農耕を営み神社付近に住みついた事を表している》。
鴨都波神社本殿
《当社の主祭神は『古事記』に、鴨都味波八重事代主神と記されており、「代主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端、すなわち鴨の水辺の意、「八重事」はしばしばの折り目という形容で、つまり「鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神」という神名である》。
鴨都波神社境内で。トップ写真とも
《金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流するこの地が、灌漑に最も適した地として、田の神を鎮め祀ったのに始まる。事代主神を奉斎してこの地を領地としていた鴨王の娘が、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となった由縁から、祭神は皇室の守護神とされ、宮中八神の一つとして崇拝されてきた》。
鴨都波神社の夏祭り
鴨都波神社を出て、再びJR御所駅へ。ここで一旦閉会式である。最高気温が30℃という暑さの中、皆さんよく歩いて下さった。ここで9人のメンバーは直帰、残る25人とガイドさん3人は、懇親会(打ち上げ)の場所に向かった。
懇親会は、柿の葉ずしヤマト御所店「大和鮨 夢宗庵(むそうあん)」。2階の大きな部屋で、約90分の食事会。さすがに、ビールがうまい。杉村さんからは、「ぜひまた御所に来て下さい。今度は最後に『かもきみの湯』に入り、『食事処 かもきみ』で打ち上げをしましょう」という魅力的なご提案もいただいた。なお「かもきみ」は鴨君で、当地の古代豪族・鴨族のことである。
確かに、御所にはまだまだ見どころがある。極楽寺、高天彦神社、船宿寺、葛城の道歴史文化館、高鴨神社、條ウル神古墳、日本武尊白鳥陵、吉祥草寺…。
それにしても、杉村さんの深い見識と広い知識には、舌を巻く。地元民ならではの行き届いたご説明・ご案内は、観光ガイドのお手本である。九品寺の千体石仏、長柄神社本殿の庇の絵、宮山古墳の石室、野口神社の蛇綱など、珍しいものをお見せいただいた。古代豪族、鴨族や葛城氏のことなども、再認識できた。
御所市観光ガイドの会の皆様、有り難うございました。ぜひ、再び御所をお訪ねしたいと思います。的確なアドバイスをいただいた奈良県・ならの魅力創造課の皆さん、お世話をおかけいたしました。ご参加いただいた皆さん、暑い中、頑張っていただきました。次回は春の開催です。ぜひお楽しみに!