『トンボ』
八幡学園という養護施設で、山下清は「ちぎり絵」と出会った。それまで周囲の無理解に悩まされ、吃音癖も手伝って反抗的な少年となっていた清は、絵というものを通じて、誰にも気兼ねすることなく雄弁に自己表現ができることを知ったのだ。この出会いがなかったら、のちの山下清は生まれなかったにちがいない。
もちろん、彼のちぎり絵は最初から世間を驚嘆させたわけではなかった。13歳ごろに作られた『トンボ』を観ても、単純素朴な作品で、特にすぐれているとは思われない。色数も少なく、複眼と胴体とが同じ色の紙で貼られていたりする(もっとも、清に与えられた色紙の種類が少なかったからだろう)。眼と眼の間から何やら細長いものがのびているが、トンボにそんなものはないはずで、ひょっとしたら蝶々と混同してしまったのかもしれない。13歳というと中学1年ぐらいだが、小学生のほうがよっぽどましなものを作りそうだ。
だが、このとき清がちぎり絵の主題に虫を選んだのは、偶然ではない。同級生からよくいじめられていた彼は、虫取りなどして孤独に遊んでいたという。清の相手を誠実につとめてくれるのは、虫たちだけだったのである。清がつたない絵で表現しようとしたものは、彼の知っている世界のすべてだったといってもいい。何不自由ない暮らしをしているごく普通の少年が、昆虫をたまたま絵の主題に選ぶのとは話がちがう。
清はここで、“世界にかたちを与える”ことを学んだのだ。そうすることによって、彼は虫との親密な関係から次第に抜け出し、障害児の施設とはいえ人間社会で生きる第一歩を踏み出した。そして彼は、さらなる世界の広がりと深まりを求めて、学園を脱出し放浪の旅に出る。人生の後半には、まさに世界中を飛び回り、さまざまな国の風景と出会い、それを作品に結晶させていくのである。
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『上野の地下鉄』
話が前に進みすぎた。もうちょっと清の歩みに寄り添って作品を観ていくことにしよう。
『上野の地下鉄』は、15歳のときの作品だ。『トンボ』からたった2年で、驚くほど成長しているのがよくわかる。上野駅のホームから「浅草行」と書かれた地下鉄が滑り出していく瞬間である。車掌らしい人影が、何やら右手を上げて合図しているところまで描かれている。
いつもは千葉の学園に暮らしていた山下清だが、生まれたのは浅草だった。実家に帰るときに見た光景かもしれない。彼は彼なりに、近代都市東京と必死に向き合っている。
ただ、欠点もある。清はどうやら、斜め向きの人物を描くのが苦手だったらしい。この絵でもそうだが、人物のほとんどが正面か真後ろ、あるいは真横を向いている。これは終生あまり変わらなかったようだ。斜め向きの人物を不得手とした画家というと、アンリ・ルソーやユトリロの名前が思い出されるが、山下清も彼らの系列につながる存在だといっていいと思う。
だがもちろん、何とか“斜め”を絵に持ち込もうとした形跡はある。対向車両を隔てる仕切りは、画面の奥のほうから右手前に向かってのび、線路が緩やかにカーブしていることをそれとなく暗示している。平面にピタッと貼り付けられた虫の絵からはじまって、清はすでに世界を立体的に表現するところまで到達しているのである。
それだけではない。『トンボ』では、ちぎった色紙それ自体が対象の輪郭であり、色彩でもあった。換言すれば、望むかたちに合わせて色紙をくりぬいただけだといえなくもない。さらにいいかえれば、紙を使ってトンボを模造したのだともいえる。
でも、この絵はちがう。清は自分の手のうちに収まりきらない大きな世界と向き合い、それを画面に再構築するための“材料”として、色紙を使っているのである。ここではじめて、画家の絵筆と清の色紙とは等価なものになった。色とかたちを組み合わせ、色紙をマチエールとして用いることも覚えた。ホームを歩く女性の後ろ姿には、とりわけ工夫の跡を認めることができる。ちょっと前までトンボの複眼と胴体を同じ色で表現していた清とは、まるで別人だといいたいぐらいだ。
だが、山下清の歩みは、まだはじまったばかりであった。
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