てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

花鳥の調べ ― 上村松篁の世界 ― (7)

2014年07月30日 | 美術随想

『白木蓮』(1975年、松伯美術館蔵)

 上村松篁は、花と鳥たちの姿に何を仮託しているのだろうか。ある程度は複雑な家庭環境に生まれ育ち ― 彼はいわゆる“父(てて)なし子”であった ― ただ単に母親のあとを継いで画家になったのではなく、その画題に花鳥画を選ぶことで、人生に足りない何かを求めつづけていたのではないか、という気がしてならないのだ。

 花と、鳥。鳥と、花。その両者は、画家にとって車の両輪さながら、どちらかが欠けてもバランスを損なってしまうものだったようにも思われる。もちろん『孔雀』のように鳥だけを扱ったものもあるし、息子をモデルとした人物画もないわけではないが、松篁における花というのは、ちょこまかとうごめく小さな生き物たちをじっと見守っている、大らかな母親のごとき存在だったのではなかろうか。

 松篁にとって母親とは、やはり松園である。まだ女性画家などほとんどいなかった時代に、絵筆一本で生きつづけた凛とした姿が、幼いころから松篁の心にどう映っていたのか、ごく普通のサラリーマン家庭に生まれ育ったぼくには想像もつかないが、松篁の描く花のたたずまいに、松園の面影が投影されているのではないかとの思いは、ずいぶん前からぼくをとらえている。

                    ***

 『白木蓮』をはじめて観たとき、絵のなかからじんわりと湧いて出る神々しい輝きのようなものに釘付けになった。透き通る月の光を受けて、それこそ女神が顕現したかのように、その花は眼の前に咲きこぼれ、世の中をたちまち浄化してくれるもののようであったのだ。

 松園の美人画によく登場する、白い肌にほんのりと赤みがさした清らかな女性像を思い出してしまうからかもしれないが、『白木蓮』にはどことなく、松園の生きかたにも通じる“つよさ”が感じられる。やがて花は枯れ、見る影もなく散りはててしまうのだろうけれど、生のあるうちはわが子たちをあたたかく包み込んでやろうとする芯の通ったたくましさの裏に、底知れない慈愛を秘めているこの花の絵が、ぼくは好きだ。

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