『菊』
採集箱にはりつけにされたような昆虫を描くことはなくなったが、山下清は美しく咲き誇る花や草木に眼を向けはじめた。人物の表現はまだぎくしゃくとしていて、自画像以外にはほとんど人物画を描こうとしなかった清だが、生き生きとした植物を前にすると、彼の絵心はたちまち解放されたかに見える。あらゆる角度から対象を観察し、多彩な色づかいを駆使して、咲き乱れる花々の貼り絵をたくさん作っている。
その仕事の細かさは、文字どおり驚嘆に値するが、しかしそれだけではない。見事な懸崖の菊を描いた『菊』は18歳のときのものだが、不思議な風格をたたえた絵になっていると思う。ここまで来ると清の作品は、一足飛びに大人の顔を見せはじめるのである。
もちろん、手本になるような写真なり、絵の複製なりが、清の手もとにあったことはじゅうぶん想像できる。山下清といえば「日本のゴッホ」などと呼ばたりするが、彼自身ゴッホを意識していたことはたしかで、実際にゴッホの人物画を模写した作品を残している(もちろんカラー写真を見て描いたものだろう)。清の花の絵のたたずまいも、どことなくゴッホを彷彿とさせるのである。
しかしその色彩のコントラストは、山下清独自のものだ。ゴッホの『ひまわり』が、花や背景から花瓶まで、ほとんど全部が黄色っぽい色で占められていることはよく知られているが、清は花をできるだけ引き立たせることを考えて、背景の色を選択しているように思われる。
なかでも多く使われたのが黒だ。ぼくは黒を背景にした清の花の絵が、何ともいえず厳かな感じがして、とても好きである。貼り合わされた色紙が、ときには古い壁画のひび割れのように味わいのあるマチエールを見せたりもする。また『菊』に見られるように、小さなドットや四角く切った紙の切れ端を一面に散らすことも試みている。他人の真似ではない、山下清ならではの空間表現である。
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『栗』
『栗』は少しさかのぼって16歳のときの作品だが、この絵でおもしろいのは、色紙ではなく切手を使っていることだ。これは清自身のアイディアなのか、それとも誰かに教えられたのか、そのへんのことはわからないが、彼にとっては一種の冒険だったことだろう。
ここでまた、以前の『トンボ』を思い出してみたい。あの絵では限られた色を適当に組み合わせて、トンボ“らしき”かたちをなぞっていたにすぎなかったが、今度は色の制限を逆手にとって、そこからいかなる豊かな表現が生み出せるかを探っているようだ。あるものは細長く切って貼り付けられ、あるものはこよりのように丸められている。画家が太さのちがう絵筆を自在に駆使するように、表現のバリエーションを楽しんでいるのである。
貼り絵のテクニックを使いこなすことは、清にはすでにたやすいことであった。天性の器用さと集中力で、彼は次々と作品を仕上げ、その技は死ぬまで衰えなかった。問題となるのは、何をどのように描くか、ということに絞られてくる。世間一般の画家たちが直面する問題に、清も立ち向かっていくことになるのである。
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