テレビでオペラ全曲をはじめて観たのも、たしかヴェルディだったと記憶する。演目はやや地味な『マクベス』であったが、「芸術劇場」の枠で放送されたものをビデオに録画し、さらにテープにダビングして繰り返し聴いたので印象深い。
演じたのは藤原歌劇団で、テレビの画面を通しても非常に暗い舞台だったけれど、外国人歌手を迎えての充実した内容だった。ただ当時のぼくはシェイクスピアの芝居を全然知らなかったので、どこまで理解できたかは覚束ない(調べてみると1988年の公演だったようで、ぼくが17歳のころだ)。
その後、ある縁で、関西のオペラ関係者(といっても歌手や演奏家ではなく、運営側の人だと思う)の奥さんと知り合うことになった。彼女の肝いりで、当時全盛を誇っていたレーザーディスクでのオペラ鑑賞会を月一回のペースで開くことになり、ぼくは毎回必ず出席したものだ。多分、2年ぐらいはつづいたのではなかったか。ぼくがスタンダードなオペラの演目をひととおり観ることができたのは、その鑑賞会のおかげである。
ヴェルディの代表的な作品も何度か取り上げられ、『アイーダ』を映像付きで観たのもそのときだった。どこの上演だったか忘れたが、舞台装置の豪華さには驚かされるというよりも、呆れてしまった。金ピカの装飾で彩られた大道具が続々と出てきて、「そこまでやるか」と突っ込みたいのを堪えながらも、最後まで観た(もちろん、トイレ休憩はたっぷりとってもらった)。
ラダメス役を歌っていたのは例のパヴァロッティだったが、終幕で彼は地下牢に入れられる。低い天井の下で、岩のようなものに片手をついて上体を傾けたままで歌うのだが、その声が直立して胸を張って歌っているとき ― たとえば3大テノールのコンサートのような ― と比べてもまったく遜色がなく、この歌手は本当に超人だと確信したものだった。
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ただ、そんなぼくの心をほとんど揺さぶらなかったのが、ワーグナーのオペラや楽劇である。いや、最初に断っておくと、彼の管弦楽のみの作品には好きなものが多い。特に『タンホイザー』の序曲は、オペラとは関係なく独立した楽曲として、繰り返し聴いてきた。
しかし、歌が入ると駄目なのである。メロディーラインが途切れることなく次から次へとつながり(“無限旋律”と呼ばれる)、それが何時間もつづくと、どうしても集中力が切れてしまう。人間の集中力の限界は30分だとか90分だとか、いろんな説があるようだけれど、いずれにしてもワーグナーの長大な作品を聴き通すには、その限界を超越しなければならない。どうやら修行が必要なのだ。
今はどうか知らないが、以前は年末の夜中にバイロイト音楽祭(ワーグナーが創始し、ワーグナーの作品のみが上演される一大イベント)の実況録音がFMで放送されていた。長いときには朝の4時ごろまでかかる、まったく呆れたタイムテーブルだったが、それが何日もつづくのである。
ぼくは無茶を承知でチャレンジしようとし、ヘッドホンを装着していそいそとベッドに潜り込んだが(真冬の深夜なので座って聴くのはやめておいた)、4夜連続で上演される大作『ニーベルングの指輪』の初日『ラインの黄金』で早くも地獄を味わった。全1幕が休憩なしで2時間半もつづき、トイレに駆け込む隙もなく、かつてラジオで『アイーダ』を聴いたときと同じ膀胱の危機がふたたび兆してしまい、いい年をして寝小便をしてしまうかと思ったほどだ。
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それ以来、ワーグナーのオペラはどうも苦手なのである。けれども、世の中にはワグネリアンという熱狂的なワーグナーファンが多く存在することも事実だ。彼らはやはり、ラジオやCDの音声だけでは飽き足らず、至福の瞬間を求めてドイツのバイロイトまで足を運んだりするのだろうか。
よく知られているように、バイロイトの劇場が他の歌劇場と異なる点は、オーケストラピットが舞台の下に潜っていて、客席からは完全な死角となっていることである。つまり舞台以外の余計なものはまったく見えないという構造だ。ワーグナーは、自分の作品が理解されるためにはそれだけ一心不乱に没入することを観客にも求めたのだろう。ベッドのなかで聴くなど、邪道も甚だしいといわれてしまうかもしれない。
参考画像:ピエール=オーギュスト・ルノワール『タンホイザーの舞台(第1幕)』(部分、1879年、個人蔵)
けれども、あの屈託のない明快な絵を描いたルノワールが、ワグネリアンとはいわないまでもワーグナーに関心をもっていたと知ると、やはり意外の感にうたれる。彼は実際にワーグナーに会って肖像画を描いているのみならず、その舞台の様子を絵画化してもいるのである。
ぼくはどうやら過去の経験がトラウマとなって、ワーグナーを敬遠しているだけなのかもしれない。生誕200年に便乗して、今年はもう少しワーグナーに親しむことができればと思うが、その長大な作品に接するためにはゆとりある時間と心と、そして膀胱の容量にもう少し余裕がほしいというのが嘘いつわりのないところだ。
(了)
(トップの画像は記事と関係ありません)
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